書評:鎌田慧『絶望社会』(金曜日)

 本書は鎌田氏が『週刊金曜日』の2005年8月12日号から2007年4月20日号まで「痛憤の現場を歩く」と題して連載した記事29本をまとめたものである。1973年、トヨタ自動車の期間工として働いた経験を記した『自動車絶望工場』でルポライターとしてデビューした著者がそれから34年後に見た日本の社会は、今やその期間工が特権階級に見えるほど、働けど働けど貧困から抜け出せず将来に希望も展望も見出せないワーキング・プア、プレカリアートの群れが増大し、絶望感と閉塞感が社会全体を覆っている現実だった。 

 取材対象は、不当解雇や人権弾圧事件から空港反対闘争、基地問題、いじめ自殺事件、冤罪事件、労働問題、韓国のインターネット新聞に至るまで幅広い。ちょっと珍しいところでは、モロッコ沖100キロの地点に点在するカナリア諸島のグラン・カナリア島という島を訪れた記事で、その州都ラス・パルマス市にヒロシマ・ナガサキ広場という広場があり、そこに「日本国憲法第9条の碑」というのがあるらしい。しかも驚いたことに、この広場の裏にある高校生が使っている教科書にも日本国憲法第9条のことが載っているらしいのだ。そこで鎌田氏が会った元高校教師のホセ・サンカナ・ロドリゲス市長は、憲法をまもるには、時間がかかっても教育が必要だ、と力説したそうだ(208頁)。確かに、1947年の教育基本法の前文にも「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しよう」という憲法の「理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と書かれていたが、安倍政権の下、2006年12月に改悪された教育基本法からはこの文言は削られてしまった。そして、憲法の理念に基づき、平和と国際協調の精神を培う先進的な授業を行っていた東京都の公立中教諭・増田都子さんは、その平和教育を憎む東京都議・産経新聞・都教委の連携プレーによって、戒告処分・懲罰研修を受けた挙句、分限免職処分という超不当処分まで受けるのである(131-140頁)。また、自衛隊のイラク派兵に反対のビラを自衛隊官舎の郵便受けに投函した市民団体のメンバーは、住居侵入罪の疑いでなんと75日間も拘留され、家宅捜索まで受けた。裁判では一審が無罪判決だったものの高裁で逆転有罪とされ、最高裁も上告を棄却して有罪が確定した。現代の日本は、生存権も、平和教育を行う自由も、ビラ配りの自由も(!)ない社会にまで堕してしまっているのだ。 

 全体を通読して痛感するのは、拙稿「人権訴訟論」(http://ipppei.blog16.fc2.com/)でも婉曲的に指摘したことだが、“司法崩壊”と言いたくなるほど司法が末期的な危機状況にある、ということだ。とりわけ裁判所の人権救済機能がほとんど機能していないのではないかと強く疑わざるを得ない実態がある。裁判所が「憲法の番人」、「人権保障の砦」としての機能をほとんど果たしていないのである。本書に登場する事件だけでも、前述したケース以外に、浜松幼児殺し冤罪事件、狭山事件、袴田事件など、証拠を精査すれば冤罪であることが明らかなケースであるにも拘わらず、一審から最高裁まですべての裁判所が有罪と認定している。とりわけ悲惨なのは袴田巌氏の冤罪事件である。一家四人惨殺放火の濡れ衣を着せられ、最高裁で死刑が確定、再審請求も未だに認められていない。「その悔しさと無力感は、想像するだけでも、息の詰まる思いがする」と鎌田氏は書いている(292頁)。一審で無罪を確信しながら、裁判官合議の多数決で敗れ、意に反する死刑判決を書いた熊本典道元裁判官も未だに苦しみ続けている(300-311頁)。それ以外にも、沖電気の不当解雇撤回訴訟(64頁)や警察による事故被害者放置・隠蔽工作事件(141-150頁)など、全く不可解として言いようのない判決に満ち満ちている。裁判官はなぜ、捜査機関が違法に収集したり捏造した証拠や供述書をかくも簡単に信じてしまうのだろうか。この問題についてはいずれ改めて考えてみたいが、それにしても、裁判所は今や人権保障機関であることをやめて、治安維持機関になってしまったかのようである。 

 日本の司法がこれほど深刻な危機的状況にあるにも拘わらず、そのことを危機として受け止める感性が、鎌田氏や斎藤貴男氏、田中伸尚氏といったごく少数のフリー・ジャーナリストの中にしか見当たらないことが危機の深刻さを一層深めている。 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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