0はじめに
今回取り上げるのは、鳥居万由実著『「人間ではないもの」とは誰か―戦争とモダニズムの詩学』(青土社、2023年)である。
この著作は、1920年代から40年代の日本の詩における、動物や機械といった「人間ではないもの」の表象を中心として論じられたものである。都市化や機械化など社会構造の再編が進んだ1920年代から言論弾圧の強くなる1930年代後半にかけて、詩の中に動物や機械など「人間ではないもの」の表象が爆発的に登場したが、日本の全体主義化が進み、太平洋戦争に突入するにつれ、そうした表象が急速に収束するにいたった事態を問題化しているのである。そこで生じていたことは何なのか、何を意味するのか。人間とその他者である機械/動物とのインターフェースを追いながらそれらを鋭く考察した快著である。
1本書の概観
簡単に内容を概観しておこう。
まず、「第一部:モダニズム詩における「人間ではないもの」の表象」。時代的には1920年代から1930年代半ばまで。
日本のモダニズム詩は、社会変革をも目指した欧米のそれとは違って、形式的な言語実験の試みに終始したといった印象が強い。しかし鳥居は、そこに限界を見るのではなく、モダニズム詩が、人間主体を消去する方向に向かい、そのことによって主体の亀裂をオブジェとしての詩の外側へ保留にすることや、それを断片的な言葉の配列において表現することを可能にしたことに着眼し、ジェンダー規範からのずれの解消(左川ちか)、不安定な分裂した主体の超克(上田敏雄)、都市における新しい主体の創造/解体(萩原恭次郎)など、各々の詩人がモダニズム詩に向かった内的必然性のようなものをそこに読み取っている。そしてその際、詩人の内面が託されたのは、ほかならぬ「人間ではないもの」の表象であったことを、ここで明らかにしている。都市化やテクノロジーの発展、ジェンダー規範の変遷などにより社会構造が変化するなか、危機に揺らぐ主体が「人間ではないもの」の表象と深く切り結びつつ、モダニズム詩に結実していったことが分かる。
次に、「第二部:戦争詩における「人間ではないもの」の表象」。取り上げられているのは、高村光太郎、大江満雄、金子光晴の三人。1920年代から1930年代半ばにかけては、動物や機械とのインターフェースのありようは各自様々だが、戦争期になると、満雄に「鷲」という至高の存在である動物表象が現れて、それが光太郎の聖獣同様、国体へと呑み込まれていく前の前駆イメージとなること、一方で、光晴は、時局に抵抗する詩を動物表象によってこそ書き得たことが、バタイユ、デリダ、クリステヴァなど理論家の仕事を援用して理論的に、しかも詳細に語られている。
また、鳥居は、翼賛詩の特徴は、「圧倒的な意味の明晰性」であり、それは「空間軸では、大東亜帝国の領土の中心として、さらに時間軸では、未来へと続く大東亜帝国の年代記の曙に位置付けられ、その位置から役割を明確に与えられていた」とし、また、「個人個人は大きな全体に埋没し」、「沈黙」が強調されることもある、と書いているが、興味深いのは、ほとんどすべての点において、光太郎の詩が例にあがっていることである。
その意味で、特筆したいのが、満雄である。なぜなら、鳥居によれば(瀬尾育生に基づく説でもあるが)、光太郎同様、国体に呑み込まれていく満雄は、旧約聖書の読解から、「国家の滅びを個人の責任として追求する姿勢と、国家に自我を埋没させる日本人の違い」を意識しつつ、「国家を超える個人」という理念をもって戦争詩を書き、個を全体に融合させる典型的な翼賛詩を書いた光太郎とは一線を画す作品を残したと考えられるからである。
鳥居は、本書で、光太郎も含むファシズムの主体を、バタイユを用いて、「人間は至高性を帯びた存在に仕えつつも、その中に自分の主体が持つ本来の至高性も投影する。この時、王権など至高な主体と個々の主体の重ね合わせが起る」という論理で説明していたが、満雄の場合、ただ国民が国体や天皇に主体を投影するだけでなく、兵士が、自らを無にして国家に捧げる選択をしていることをとりあげ、やはりバタイユに則り、「みずからが生まれながら潜在的に持っている自由や主権性を意志的に投げ打つことで、逆説的に、そこでふるわれる個人の主体の至高性が立ち現れているのではないだろうか」と説明している。
こうしたありようは、「われらの内部(うち)なる言葉をよぶ海鷲は/天皇(かみ)の御歌(みうた)をむねに/天と海に/散華して/死滅なく。/光りの言葉となり/われらをよぶ。/あゝ天皇(かみ)のために心狂ふものの大いなる/崇高(たか)き言葉の/天と海にみちて美(かな)し」というフレーズを含む「海鷲」において顕著である。
鳥居は、吉本隆明が、満雄について「戦争を肯定し、自己の死滅を肯定しようとした人々の内部の暗闘をあきらかに象徴」していると評価したことにふれているが、ここにはまさしく、そうした人々の「内部の暗闘」についてのひとつの仮説が示されているといってよいだろう。
2評者自身の視座
以上が本書の概略だが、ここで、この本を書評するにあたっての、私自身の視座を記しておこう。
人間とその他者である機械/動物とのインターフェースを追いながら、モダニズム詩と戦争詩に切り込むその論のすばらしさ、そして、戦争詩における主体を、バタイユ、クリステヴァ、デリダを参照しながら論じるその手法のみごとさに大いに刺激を受けながら、同時に、私自身は、この著作で言及がほとんどなかったドゥルーズ+ガタリの論を重ねて読んでもいた(帯文もそれを誘っていた)。
とりわけ、モダニズム詩に見られた、人間の機械/動物との関わりは、ドゥルーズ+ガタリの「生成変化」という概念と親和性が高い議論であり、本書を読むときの鍵になる考え方だと思った。この「生成変化」という概念の定義をドゥルーズの『批評と臨床』から引こう。
生成変化とは、ある形態(同一化、模倣、ミメーシス)に到達することではない。そうではなく、それは、人がもはや一人の女、一匹の動物、あるいは一つの分子とみずからを区別し得なくなるような近接のゾーン、識別不可能性あるいは非差異化のゾーンを見出すことなのだ。
これは、動物に即していえば、人は、ある動物に同一化しているわけでも、模倣しているわけでもなく、ある動物に限界まで近づくことで、内側からその動物に向かって変容し、その動物と自らを区別し得なくなるようなゾーンを作り出すということである。
ドゥルーズはこの概念によって、人が動物に同一化するのでも、動物を模倣するのでもなくて、動物に極限まで近接することによって、人と動物の<間>に何か新しいものが生成する事態を指しているのである。
一方、鳥居の動物表象(と機械表象)についての考えは、以下の部分によく出ている。
動物や機械といった人間ではないものは、人間の比喩となることもできるが、同時に、言葉を持たず、その内面を推し量れないことから、必然的に物質的な厚みが生じている。その意味の不透明さが、解釈に様々な幅を持たせ、また意味になる前、言葉として分節化される以前の情動や、人間の世界でいうことを禁じられている情動、まだ制度の中に存在していない存在感覚をも湛えることを可能にしている。
鳥居の動物表象(や機械表象)についての考えは、「生成変化」のように、「なる」という契機は目立たないが、単なる比喩ではなく、人間が動物(や機械)に接近することで見えてくる何か、人間と動物(や機械)の<間>でこそ見出される何かが問題になっていることがわかる。人間と「人間ではないもの」との<間>が問題になっているという点で、生成変化の概念と近いものがあると私は考える。
この他、動物への生成変化という概念は、「あらゆる生成変化はマイナー性への生成変化である」という彼らの言葉が示すように、「この宇宙における尺度」としての「人間(男性)」という「マジョリティ(メジャー性)」からの逃走を意味する。動物は数の上ではマジョリティだが、「支配の前提」である「人間」という「尺度」に照らすと特異でありマイナーである。その意味で、動物への生成変化はマイナー性への生成変化であり、マジョリティからの逃走なのである。さらに、それが逃走線上の出来事であるという意味では、生成変化には、自己破壊の要素が潜在しているということにも注意しておきたい。ドゥルーズ+ガタリは、逃走線が自己破壊の線、死滅の線に転じる危険を潜在化させた一種の創造であることを、表現を変えながら繰り返し書いているのである。
こうした視座について、鳥居は特段言及しているわけではない。しかしこれらは第7章で述べるように1920年代から1930年代半ばまでのモダニズムの詩にこの動物表象がおびただしく出現するも、太平洋戦争期にそれが急速に収束するというという事態そのものとダイレクトに関わる視座であり、鳥居の論と密接にかかわるのではないかと、私は考えているのである。しかし、まずは鳥居の論を、順を追って見ていきたい。
3モダニズム詩人と生成変化
では、具体的に詩人の仕事をみてみよう。
まず、左川ちか。
昆虫が電流のやうな速度で繁殖した。/地殻の腫物をなめつくした。//美麗な衣装を裏返へして、都会の夜は女のやうに眠った。//私はいま殻を乾す。/鱗のやうな皮膚は金属のやうに冷たいのである。//顔半分を塗りつぶしたこの秘密をたれもしつてはゐないのだ。//夜は、盗まれた表情を自由に回転さす痣のある女を有頂天にする。(「昆虫」)
鳥居は、ちかが公的に初めて発表したこの詩について、「昆虫とは、まず外と内を隔てるインターフェースにある仮面を象徴するもの」で、「美しく煌めくが、ひんやりと冷たく無機質で、うかつに触れれば痺れる「電流のやうな」性質を持って」おり、その役割は「みずからを保護するための鎧であって、他者の視線を鏡のような光沢で跳ね返しがなら自足する」ところにあった、と解釈している。「自足性という点では、男性を誘惑するためよりはむしろ、女性の自立や自己の自由と結びついていた洋装とも共通している」とも言っている。
ちかは、当時、詩人として、たとえば与謝野晶子のように女性性と同一化し「わたし」という一人称で思うままに語ることはできず、だからといって家制度をはみ出したところに個人としての居場所はないので、「わたし」とは語り出せないでいた。流通する「女性性」とは一体化できず、かといって、「わたし」としても語り出せないちかが内面を託したもの、それが昆虫表象だったというのである。つまり、モダニズム詩も、昆虫表象も、時代の制約で、ジェンダー規範に強く縛られて生きざるを得なかったちかが、そこから逃れる手段だったということになる。
であるならば、ちかの昆虫表象は、支配的なジェンダー規範から逃れて作中主体が動物になっているという意味で、ドゥルーズ+ガタリの言う、マジョリティ(尺度としての「人間(男性)」)からの逃走としての「動物への生成変化」のみごとな例になっていると考えられる。一見すると、昆虫は比喩のようにも見える(鳥居は昆虫とは仮面を象徴するものだと書いている)が、「私はいま殻を乾す/鱗のやうな皮膚は金属のやうに冷たいのである」というフレーズもある。作中主体は昆虫に「なって」いる。昆虫と自己を区別し得なくなるようなゾーンを形成している。まさに、「生成変化」の例であると考えられる。
付言するならば、個人的には、「昆虫」と同時に発表された「馬は山をかけ下りて発狂した」から始まる「青い馬」の馬の表象にもそれを見たい。詳述はしないが、翻訳詩でひとかたならぬ協力をえていた恋人伊藤整との関係で何らかの内的危機に陥っていたと推測される(翌月伊藤整は結婚している)ちかが、書くことでその危機を脱しえたことがこの詩から読み取れるからである。「私は二階から飛び降りずに済んだのだ」とあるから、作中主体はいったん馬になって発狂したうえでそれを死なせ、自身は生き延びた、ということなのだろう。先に述べた、逃走線は自己破壊の線すれすれに生成するというドゥルーズ+ガタリの理論を想起させるところでもある。
その二年後「私は人に捨てられた」(「緑」)と書いたちか。「人間ではないもの」になる作中主体、つまり馬になり、昆虫になる作中主体を十分意識していたと思われる。その意味では、むしろちかは「人(人間(男性))を捨てた」のだといってよい。ちかにとって書くこととは、まさに動物になることだったと考えられるのである。
上田敏雄や萩原恭次郎についても、彼らの機械は、人間を疎外するものというよりは、むしろ、新しい感覚の主体を生み出すものとしてとらえられていて、人間と機械のインターフェースには、何か肯定的なものが生じていることがわかる。その危機に瀕した主体のありかたが、マジョリティからの逃走を促し、そうした機械に「なる」ことを招いているように見受けられ、機械への生成変化ととらえてよいように思った。
とりわけ恭次郎については、新時代のテクノロジーであり、かつ「国家の統制を内側からゆるがす装置」でもあるラジオの群衆を意識させるような、「暗夜を行け!音もなく!」「百万匹の狼になれ!」という詩があり、文字通り動物への生成変化に匹敵するものを現出させていたことは強調しておきたい。
4高村光太郎における動物表象の反転
また、戦争詩のところで問題になった高村光太郎においても、1920年代の白熊の表象は、今見たものとはやや印象が異なるものの、やはりこうした「動物への生成変化」の例だと考えることができるように思う。
ザラメのような雪の残ってゐる吹きさらしのブロンクス パアクに、/彼は日本人(ジャップ)らしい唖のやうな顔をして/せつかくの日曜を白熊の檻の前に立ってゐる。/白熊も黙って時時彼を見る。//…中略…//真正直な平たい額とうすくれなゐの貪欲な唇と、/すばらしい腕力を匿した白皚皚(はくがいがい)の四肢胴体と、/さうして小さな異邦人的な燐火の眼と。//彼は柵にもたれて寒風に耳をうたれ、/蕭條たる魂の氷原に/故しらぬたのしい壮烈の心を燃やす。//白熊という奴はつひに人に馴れず、/内に凄じい本能の十字架を負はされて、/紐育の郊外にひとり北洋の息吹をふく。//教養主義的温情のいやらしさは彼の周囲に満ちる。/息のつまる程ありがたい基督教的唯物主義は/夢みる者なる一日本人(ジャップ)を殺さうとする。//白熊も黙って時時彼を見る。/一週間目に初めてオウライの声を聞かず、/彼も沈黙に洗はれて厖大な白熊の前に立ち尽くす。(「白熊」)
自らをジャップと呼ぶ彼が、白熊に、内側から外へと湧き出る素晴らしい肉体の力と、内へと籠るある種の心理的息苦しさを見て、自らと重ね合わせていることがわかる。しかし、同時に、彼は「唖」であり、「立ち尽くす」しかない者でもある。鳥居は、この詩について「動物は完全に光太郎と同化せず、かといって完全な他者でもない。同質性と異質性について省察する場所として維持されている」ことに注意を促しているが、まさしく、生成変化とは、同一化でも模倣でもなく、二つのものの遭遇によって(部分的に)新しいものが生成することを意味する。鳥居の説明では、「なる」というより「観察主体」としての面が出ているが、動物は完全には光太郎と同化していないのだが、他者でもない、と言っている。実際、上掲の詩から、内側から湧き出る肉体の力と心理的な息苦しさにおいて、光太郎は部分的に動物になり、動物は光太郎になっている様が窺える。自他を区別し得ないゾーンが一部生成しているのである。それゆえ、まさしくこの表象は、ニューヨーク滞在において人種問題に揺れていた光太郎の、動物というマイナーなものへの生成変化の例として考えることが可能である。
後の後期猛獣篇では、聖なる動物に自身が「同一化」してしまうので、また戦時下では、敵を動物と「同一化して排除して」しまい全体主義にからめとられてしまうので、「白熊」とは様相が異なってしまっているが、こうしたありようについても、ドゥルーズ+ガタリの理論に、対応する議論があることを注記しておきたい。
彼らが、欲望の二つの極として「中央集権の組織体を備給」する「ファシズム的パラノイア的な型あるいは極」と、「欲望の逃走線」をたどる「革命的分裂者的な型あるいは極」に分けたことはよく知られている(かつて「パラノ」と「スキゾ」の二極を表す語が流行語になったこともある)が、ここで重要なことは、そうした分類もさることながら、同時に彼らが「無意識は、錯乱の二つの極の一方から他方へと、驚くべき振動を繰り返している」と指摘していることである。つまり、ここでマイナーなものへの逃走線の、ファシズムへの反転が問題化されているのである。鳥居が、光太郎について、「もし「白熊」などの作品に見られたように「他者との相克の場に踏みとどまっていたなら、愛国主義へ回収されなかった可能性もあるかもしれない」と指摘していることは、このことと無関係ではないように思われる。
5大江満雄における動物表象と機械表象の反転
一方、大江満雄の機械表象も、初期は、「血が流れ、呼吸もする機械」として表象しており、自身もその一人であるところの工場労働者が「機械への生成変化」をとげている、と考えられるものであった。
しかし、1940年に現れた動物表象「鷲」は、微妙な表象である。1940年とは、日本軍が北部仏印に進駐した年でもある。諸説ある中で鳥居が見出すのは、当時一般に流通し、満雄が明示してもいた「日本兵」という意味に加えて、「自由なる羽搏き」によって規範(イデオロギー)を超えていくもの、という意味での鷲である。ちなみに、瀬尾は「自らが国家や規範性を超えていると考えるこの放恣な内面性は、帝国主義への移行期に国民国家の秩序から脱落して都市群衆となり、不定の個として恣意へ、放縦へと向かった人々の精神のあり方として普遍的なものでした」としているが、鳥居は、それを意識する形で、鷲という表象を、詩人なり兵士なりが「自由なる羽搏き」をして「あらゆる規範性を超えて(逃れて)いく」ものであり「「自我を投影する場所」であったと捉えるのである。
だとすれば、詩人は、そして兵士は、「鷲」に「なって」いる。つまり、瀬尾の見解を踏まえても、規範から逃れていく逃走線上で動物(鷲)への生成変化が生じているといってよい。だが、その先にあったものはといえば、天皇であり、国体であった。満雄の機械表象も肉体性がはぎ取られた超越的なものへと変貌していき、「ファシズム的パラノイア的な型あるいは極」への反転が起っていることがわかる。「鷲」は、まさしくドゥルーズ+ガタリのいう、動物への生成変化という逃走線の、ファシズムへの反転を体現する表象なのである。
いみじくも、鳥居は、満雄の「規範を超えていくもの」としての「鷲」とは、光太郎の「猛獣」と同様、彼らが「「国体」へと呑み込まれていく前の前駆イメージ」となっていたと書いている。ファシズムが逃走線上で成立することを如実に示した表現になっているといえるだろう。
もっとも、鳥居は、この鷲の表象が「規範から逃れて自由に飛翔する」だけでなく「他の生き物に暴力をふるい食べることのできる、支配力を及ぼす生き物」であるという特徴をもつことにも注目し、それらの点において、この表象が「至高な存在の特徴を分け持っている」とし、バタイユの至高性との結びつきを示唆している。確かに、この表象自体に至高の主体への契機が潜んでいたようにも見える。
実際、この鷲は、同じ「動物への生成変化」といっても、ちかの昆虫表象とは異なった表象のようにも見えるのは確かである。一方、恭次郎の狼の表象については、彼が1938年に突如日本の帝国主義を肯定するような作品を書いたことを想起してみても、微妙ではあるが、ひょっとすると似通ったところがあったのかもしれない…等々と思いあたるものがないわけではない。しかし、これはドゥルーズ+ガタリの議論ではない。表象そのものにファシズムへの契機が潜んでいたとは彼らは考えない。生成変化を生む逃走線がファシズムに反転する可能性を示唆するのみである。ここに現れているのは、ドゥルーズ+ガタリ的な反転の視点とバタイユによる至高の主体の理論の差異と関係するものなのかもしれない。
これ以外にも、細かいことを言えば、光太郎と満雄の動物表象にも差異があって、前者が全体主義国家を体現しているとすれば、後者は、ファシズムを体現し、その差異は詩にも反映しているという印象を受ける。というのは、ドゥルーズ+ガタリは、逃走線のファシズムへの反転を問題化した『アンチ・オイディプス』においては全体主義とファシズムを特に区別していないが、『千のプラトー』においては、「全体主義国家が可能なかぎりあらゆる逃走線をふさごうとするのに対して、ファシズムのほうは強度の逃走線上で成立し、この逃走線を純然たる破滅と破滅の線に変えてしまう」と書いているからである。しかし、この点については、私自身の能力の限界ゆえ、詳述はしない。
ともあれ、満雄については、その機械に対する考え方が、次第に超越的なものへと変化し、「戦いは日本とアメリカという国家間ではなく「機械と機械との」間に繰り広げられている」として、「国家を超えた場所に存在する機械」という概念を打ち出すようになっていくことも、ドゥルーズ+ガタリの戦争機械を思わせ、興味深いところである。
6金子光晴の時局に抵抗する主体
では、戦時下、時局に抵抗する詩を書き得た金子光晴についてはどうであろうか。動物表象は、戦時下に多く表れたが、社会批判を担う寓話的存在だった。鳥居は、「光晴の戦時下の作品は、寓話的に動物表象を用いて当時の社会における権力体勢を批判・風刺するものという側面が色濃く、権力との関係で獣の表象を扱うデリダの議論は、その作品を読み解く上で適合性が大きい」としており、納得の議論を展開している。これに動物への生成変化という視点を介在させることもできるのかもしれないが、しかし、光晴の場合、詩よりも、彼の現実の主体のありようこそが、ドゥルーズ+ガタリ的かもしれない。
というのは、戦時下に時局に抵抗しうるような詩を書いたという意味で、強靭な自我をもった詩人という角度から語られることが多かった光晴だが、昨今は、むしろ「主体のなさ」や「融通無碍さ」などの点から論じられることが増えてきたことを鳥居が指摘しているからである。
鳥居は、妻美千代が、光晴との間に子供が生まれた後も、様々な男性と恋愛を繰り返し、自身も作家として一家を支える、「日本的な女性の型を逸脱する」存在であって、そんな美千代との関係で、光晴は、男/女の序列意識から解放され、人間が互いにとって他者でいるしかないという認識を深めることとなっただろうし、さらに「コキュ」という弱者の立場に置かれたことも、被抑圧者の視点を育てただろうとする小林富久子の仕事を紹介し、そこから、光晴が、「境界的思考」の持ち主、つまり、「男/女」「中心集団/部外者」などの対立物間に位置し、「双方の限界を批判しつつも、そのいずれも排除しない立場をとる者」だったとする小林の説を採用している。
また、野村喜和夫の議論からは、クリステヴァを用いて、アブジェクトの棄却によって主体を確立するアブジェクシオンにおいて、アブジェクトの棄却よりも、むしろアブジェクトの一部へと同一化する傾向があったという説を採用しており、両者の説から、おぞましいもの(母)を排除して自らを清浄なものして確立する、マジョリティの男性的主体とは異なったありようをしていたと考えることが可能である。
このように、光晴にあっては、「間」にいること、そしてアブジェクトを棄却するよりも、むしろアブジェクトになることが選ばれており、強靭な主体ではなく、むしろそうした主体から逃れていこうとする態度が顕著だったという点で、つまり、マジョリティからの逃走線上で「人間ではないもの」になって生きたという点で、ドゥルーズ+ガタリの思想を、部分的にほうふつとさせるものであった。ただ、「いかなる血統も純粋を保つことができず、/いかなる美も陳腐となり、/頽破し、精神を失ひ、おもてばかりを塗り立てて、むなしい残骸を彩る。/思想も、自由も、モラルも、愛も、/すべて、老いざるものはなく、/また、腐爛し、朽ちはててゆかないものはない。」(「大腐爛頌」)というような光晴のビジョン、つまり、超越者がおらず、すべてが腐敗する物質と融合し、それでいて腐敗の中にも生命を求めるような、単なる無常観を超えた過剰なもののあるビジョンは、他の誰にも似ていない、光晴独自のものだったといえるかもしれない。
7ドゥルーズ+ガタリの視点から見えること
このように本書は、管見の限りでもドゥルーズ+ガタリの理論への参照が有効な箇所を多々含んでいる。整理すれば、以下5点にまとめられる。
第一に、鳥居がモダニズム詩人にみた「人間ではないもの」の表象は、ドゥルーズ+ガタリのいう「生成変化」に相当するということ。そのようにみなすことで、そうした表象の出現が、都市化や機械化など社会構造の再編が進む中、危機にゆらぐ主体による「マジョリティからの逃走」(尺度としての「人間(男性)」からの逃走)を意味したということが言える。そして、それゆえにこそ、すべてをマジョリティに回収してしまう国家主義の台頭とともに、「人間ではないものの表象」が急速に収束したのは必然であったということが言える。
第二に、それならばなぜ、戦争期に「鷲」や「聖獣」のような動物表象が現れたかが問題になるが、これは、逃走線上の「人間ではないもの」への生成変化は、ファシズムへの反転の危機を常にはらんでいるとドゥルーズ+ガタリが書いていることを想起すればよいだろう。鳥居は、ファシズムの主体をバタイユの「至高性」についての議論との関わりで論じており、本書の中でも白眉をなす議論を提出していると思うが、一方で、鳥居自身は、ドゥルーズ+ガタリ的な「反転」(生成変化する逃走線がファシズムに転化する)の視点をもって書いているように読める。しかし、理論として用いたバタイユ自身には、そうした反転の視点は弱いように見える。というより、バタイユの至高性の議論に、主体形成のダイナミズムとしての反転の契機はあるが、ドゥルーズ+ガタリが言う「反転」とは異なるように見えるのである。
本書を読んで、バタイユの論理はファシズムの主体形成をよく説明していると思ったが、鳥居の描く、モダニズム詩人に象徴的に見られる、1920年代から30年代にかけての主体形成から、光太郎、満雄などの戦争詩に見られる国体に巻き込まれていった主体への変遷という、本書を貫く大きな流れについては、個人的には、ドゥルーズ+ガタリのほうが有効な説明であるように思えた。というより、こうした時代の流れの中で「人間ではないもの」の表象が「反転」することに重きを置く鳥居の説明に添っているように思えた。
第三に、先に言及した、ドゥルーズ+ガタリが『千のプラトー』で示唆したファシズムと全体主義の違いと本書の分析とはどう関係するかについてである。鳥居は(評者もだが)、光太郎の聖なる獣と満雄の鷲を国体に巻き込まれていったという意味で、両者を何度か同一視しているが、おそらくここには差異がある。同じ国体に巻き込まれながら、光太郎と満雄には思想の上でも詩の内容においても差異がある。というより、第1章でも見たが、鳥居の両者の描き方にその差異がすでに具体的にあらわれているといってよい。それゆえ、その差異を説明する概念が必要とされているように思うが、しかし、先に書いたようにそれを論じることは私の能力を超える。
第四に、満雄が戦時下で、「戦いは日本とアメリカという国家間ではなく「機械と機械との」間に繰り広げられている」として、「国家を超えた場所に存在する機械」という概念を打ち出すようになっていくのは、ドゥルーズ+ガタリの戦争機械を思わせるということ。しかし、これも詳細を論じることは私の能力を超える。
第五に、光晴の、常に境界に位置し、アブジェクトを棄却するというよりもむしろアブジェクトに「なる」あり方、強靭な主体というより融通無碍な主体のあり方は、光晴を国体へと絡めとられることから免れさせたが、それは、マジョリティからの逃走線上を「人間ではないもの」になって生きるという意味で、ドゥルーズ+ガタリの主体像を部分的に想起させるものであったということ。
以上、ドゥルーズ+ガタリを導入することで見えるものをまとめてみた。鳥居の分析と併せて本格的に論じれば、議論に幅が出るように思う。
8その他、覚え書き
このほか、あと二点ほど、気になったことを簡単に言及しておこう。
ひとつは、光晴が戦時下で国体に吸収されることを免れたのは、超越的なものがなかったことによるという鳥居の説であるが、おおむね正しいと思う。しかし、たとえば、この本であげられている詩人の中でも、モダニズム詩人上田は、その詩作において超越的契機がとりわけ大きかったと思われるが、戦時下では沈黙し、翼賛詩を書かずにすんでいる。それゆえ、むしろ、超越性というよりは、鳥居が超越性と並列させている「至高の主体」がないこと、あるいは「至高の主体」と距離を取るすべを知っていたことにこそ、その理由は求められるのではないだろうかと私は考えている。
それはまた、鳥居が光太郎に見た、「自分の主体に吸収できない異質な要素を汚れとして取り除き、自己を純潔なものとして保とうとする傾向」とは真反対なありかたをしたことも関わっているだろうと思われる。
しかし、端的に言って、第6章で見たように、光晴は、妻との関係などでマジョリティの男性とは異なる主体形成をしていた形跡があることから、彼がマジョリティというものを常に疑わざるを得ない地点に立たされていたことが大きいのではないかと個人的には考えている。
もうひとつは、左川ちかのところで問題になったミューズの問題である。男性作家が、何の問題もなく永遠の女性をミューズとして詩作の中心に据えて作中主体を立ち上げることができるのに対し、女性詩人はそうはいかなかった理由として、男性にとって詩の霊感源である女性像は、女性にとっては「自らに課されたジェンダーであるため欲望の対象とはなり得ず、むしろ規範として拘束してくるその女性性を、何らかの形で死に至らしめるところに、詩の出発点があった」からだとしている部分についてである。
ここでとりあげられた女性のモダニズム詩人についていえばそのとおりなのだが、そもそも女性は女性を欲望の対象とすることができるし、女性にとって書くことは、先行する女性作家の足取りを意識して書くことでもあろう。与謝野晶子のように女性性に同一化した形では書けなくても、歴史上存在した、流通する女性性の外にある女性的なるものを書く仕事は可能であり、それをミューズと呼ぶかどうかは別として、女性的なるものとの関わりで主体を立ち上げることは原理的には可能なのではないだろうか。ただ、時代の制約で、先行する詩人がほとんどいないため、そうした仕事が難しく(ただし、ちかは翻訳詩の領域でその仕事をなしたと考えられる)、そしてたとえそのようにして主体が立ちあげられたとしてもそれを受け入れる場所がほとんどなかったということなのだと私は考えている。
9終わりに
ともあれ、本書は稀に見る力作である。一冊を通してそれぞれの主体が投げかけてくるもの過剰さと著者の独自の分析に、大いに学ばせてもらったし、大いに感銘も受けた。一方、心のざわつきを覚えたところもある。とりわけ、戦時下の満雄の主体のありようを論じたところはそうだ。この書物は、私たちの内に眠る危うい何かを抉り出し、安寧に読了することを許さないものがあるのである。それゆえ、今後、何を書くにしろ、繰り返し本書に立ち戻ることになるであろう、そんな確信を抱いたことを記して、この書評を終えることにしたい。
(2023年2月10日)
初出:「宇波彰現代哲学研究所」https://uicp.blog.fc2.com/blog-entry-390.html より許可を得て掲載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12807:230211〕