著者はロシア経済を専門とする気鋭の碩学である。他方、著者は「官僚の腐敗」に対しても強い関心を寄せており、別著『民意と政治の断絶はなぜ起きた』、『官僚の世界史』などをものにして、民主主義が官僚によって支配されていることに一貫して批判の刃を向けている。腐敗の定義について著者は言う。「腐敗は私的目的をかなえるための、受けいれられた規準から逸脱した公務員の行為」。「私的な観点からみた金銭的ないし地位上の利得のために、公的役割という、形式上の義務から逸脱する行為」。そして本書では、近代官僚制については「目的を定めて一定の論路的規則に沿う目的合理性に突き動かされた上意下達制」と定義して、それは主権国家だけでなく、会社にも存在する、と主張する。さらには、広義の官僚を前提にすると、官僚は官公庁だけでなく、大企業などにもうようよいると断定する。そして、著者はそうした日本の広義・狭義の官僚は目を覆いたくなるほどにまで腐敗しきっていると見ている。
本書は以上のような視角から日本の官僚制を中心に、ひろく世界の官僚制一般をも射程に入れて、官僚の腐敗について論じたものである。構成は以下の4章からなっている。
第1章:1300年つづく官僚支配
第2章:井の中の蛙 日本の官僚
第3章:官僚腐敗の背景
第4章:新しい反腐敗政策に向けて
本書を手短に要約すると、先ず、第1章では、日本の官僚制が大宝律令以降、明治維新によって律令制が廃止されるまで続いていたことが挙げられる。基本的には日本が律令制国家であって、それが明治以降近代官僚制にとって代わられ現在に至ったとしている。
第2章では、内閣人事局が設置されて以降、人事権を政府に握られたため、官僚は政治家の意向を気にし、顔色をうかがうようになったとし、この政治家が三流であるから、著者は官僚が四流に成り下がったとみている。
第3章では、日本の官僚の腐敗は「強いられた腐敗」が大半であると断定する。他方、日本は民主主義が不得意だとして、日本の国民の大部分が国の民に過ぎず、目をつぶされて国に服従しているとみる。そこで個人、すなわち著者のいう「単独者」の必要性が求められてくる。
第4章では、信認関係(フィデュシャリー)が強調される。これは、受認者が裁量権を持ち、受認者が信託違反をしないかぎり、受益者には発言権がなく、受認者は受益者の利益をはからなければならないとするものである。これを官僚への関係として適用しろと著者は主張する。最後に官僚支配の打破については、選挙の義務化や内部告発者の保護などが指摘される。
本書は新書版ながら官僚の腐敗について論じ、通り一遍の批判に終わらず、内容の凝縮した密度の高い論議に終始し、読み応え十分である。たとえば原子力発電所を「核発電所」と言い換えるなど著者一流の批判精神の横溢を読み取ることができる。そして著者がつとに主張するのは、現状の日本の官僚が置かれている状態や、官僚が自分たちに都合の悪い事実を国民に正しく伝えていないことなどを、学者やマスメディアが真正面から取り上げていない事実である。本書は著者によるこのもどかしさを吐露したものとなっている。したがい、本書は単に官僚の腐敗についてだけ書かれたものでなく、状況一般にたいする現代の御用学者、マスメディアのあり方を鋭く批判する書となってもいる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion8074:181011〕