1.本書の構成
本書は、比較経済体制論、ユーゴスラヴィア地域研究については世界レベルの専門家である著者が、ソ連型集権的社会主義・ユーゴスラヴィア型自主管理社会主義の成立と崩壊を総括した最近の論文集である。多くの社会主義経済研究者が、1990年前後のソ連・東南欧社会主義の崩壊以来、比較的に寡黙であったのに対し、著者は、この20年間に本書を含めて4冊の単著を公にしている。それだけ、著者は、いわゆる社会主義の崩壊をも包摂するような理論を以前からもっていたこと、さらに崩壊の現場を実地に検証して自己の理論的スタンスに確信をもっていることを示すものであろう。
評者自身は、諸社会主義のなかではユーゴスラヴィア型自主管理社会主義に親近感をもち、1986年秋に1か月程セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニアを移動しながら、講演会やシンポジウムに参加したことがある。ベオグラードで「日本的経営」に関する話をしたとき、最初に出た質問が「日本では企業が倒産したときにはどうするのか?」というものだったので、労働者自主管理企業の倒産が多いのかという不安はもったが、まさか数年後に体制崩壊にまで至るとは思っていなかった。1992年にスロベニアとクロアチアが独立して連邦解体が決定的になったときでさえ、評者は、解体の主因は民族問題にあり、自主管理社会主義自体にはなかったのではないかと考えていた。今から考えると、評者の不明を恥じるほかないが、著者の岩田氏は、自主管理社会主義自体にも解体の要因があり、民族問題は同根で、解体を促進するという観点を早くからもっていたようなので、この点一つをとっても、著者の慧眼には敬服せざるをえない。
最初に、「まえがき」と「あとがき」を除く本書の目次構成を掲げておこう(副題は省略、カッコ内は雑誌等に最初に発表された年)。
第1章 思想的総括の社会主義論(2007年)
第2章 経済社会を見るために(1995年)
第3章 自主管理社会主義期の諸民族主義(2004年)
第4章 ユーゴスラヴィア内戦の歴史と現実(2005年)
第5章 旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の欧米的諸要因(2006年)
第6章 旧ユーゴスラヴィア多民族戦争再論(2007年)
第7章 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ多民族内戦の深層(2005年)
第8章 バルカンにおける民族・歴史・文明の葛藤(2009年)
第9章 映画「カルラのリスト」と映画「サラエボの花」をめぐって(2008年)
第10章 コシトニツァ政権発足後のユーゴ情勢(2000年)
第11章 方法論的民族主義を私はすすめる(2001年)
第12章 社会主義体制成立と崩壊の根拠(2002年)
第13章 原体験から導かれた内村・社会主義論の射程(2009年)
補論 ロシア・東欧の階級形成闘争(2007年)
以上の構成において、第1章、第2章、第12章、第13章は、比較経済体制の経済理論、
第3章から第10章までと補論は、ユーゴスラヴィアの成立と内戦による崩壊の現状分析、第11章は、地域研究を行う場合の著者の文明史観を示したものといってよかろう。
2.本書のキーワードと主要内容
本書の内容の検討に入る前に、本書における著者特有のキーワードをいくつか紹介しておこう。まず、書名の「二〇世紀崩壊」は、1990年前後におけるソ連・東南欧の「党社会主義」の崩壊を指している。ソ連では、「プロレタリア独裁」を「共産党(共産主義者同盟を含む)独裁」に単純化する乱暴な解釈が有力であったのだが、この解釈は、スターリンの弾圧に抗したユーゴスラヴィア共産主義者同盟でも採用されていた。ソ連の中央集権的計画経済に対する自主管理社会主義は、いかにも草の根的・自生的印象を与えるが、実は、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の一党支配を通じて提供されたのである。「二〇世紀崩壊」は、このような一党支配的独裁がシステムを柔軟に管理・運営する力を失って自壊したことを含意している。
書名の副題の「日本異論派の言立(ことだ)て」は、ソ連・東南欧社会主義の崩壊を「東欧市民革命」と称し、ユーゴスラヴィア戦争を市民派・文明派対非市民派・非文明派の抗争と描く欧米日の良識的・常識的市民派への異議申立てを意味している。1990年代から21世紀10年代に及ぶ20年間のユーゴスラヴィア戦争の実情をみれば、民族・宗教問題をはじめ、欧米諸国の利害、各国における階級形成闘争の利害が複雑に絡み合い、とても市民派対非市民派といったものに単純化できないことがわかる。欧米日の良識や常識は、この戦争をむしろ自省の糧とすべきだとの意味で著者は異議申立てをしたのであろう。
本書のもうワンセットの重要なキーワードは、自由(liberty)・平等(equality)・友愛(fraternity)である。著者によれば、資本主義、社会主義を問わず、どのような社会の構成原理(理念)も、自由・平等・友愛であって、その比重の相違によって社会の特質は区別される。自由資本主義では自由原理が大きな比重を占め、集権的計画経済社会主義では平等原理が大きな比重を占め、自主管理社会主義では友愛原理が大きな比重を占める。とくに注意すべきは、著者のいう友愛概念であって、これは単なる友情(friendship)や博愛(humanity)とは違って、同胞愛、きょうだい愛であり、容易にナショナリズムに転化しうるものなのである。
さて、以上のような著者のキーワードを押さえたうえで、まず、著者の比較経済体制論の経済理論的立脚点からみていくことにしよう。著者は、価値、所有制、経済メカニズム、経営管理方式、分配様式、人間類型、社会問題、人間関係、社会構造、政治的決定等14の
次元から諸社会を分類して、個体主義(M)・全体主義(P)・団体主義Cの三つに分け、それぞれの代表国を英米、旧ソ連、旧ユーゴスラヴィアとする(36ページ)。もとより個体主義のMは市場(market)を意味し、全体主義のPは計画(plan)を意味し、団体主義のCは協同(cooperation)を意味する。ここで興味を惹くのは、著者によれば、これまでの歴史的観察および経済理論的推理から、100%M経済、100%P経済、100%C経済は維持可能性をもたず、たとえば個体主義におけるMの範囲は80%以内、全体主義におけるPの範囲は60%以内、団体主義におけるCの範囲は40%以内といった限界をもつことである。これを著者は、MとPとCをそれぞれ頂点とする次のような三角形で示している(37ページ)。
この図から見てとれるように、三角形のだいたい中間領域のabcgfの五角形内が経済平常機能領域で、アメリカはややM寄り、日本はややC寄りではあるが、いちおうこの平常機能領域内に収まっている。しかし、ソ連崩壊により、Mにとっての影であるPの牽制力を見失うようになれば、アメリカもMに近づき過ぎる崩壊領域に入るとして、1992年の時点で著者は次のように言っていた。「資本主義が有頂天になり、影の意味を全く忘却するならば、資本主義経済体制の大油断恐慌を招き寄せる可能性なきにしもあらずであろう」(窓社編集部編『批評「左翼の滅び方について」』(4ページ、本書36ページ)。実際、新自由主義的グローバリゼーションの席巻は、サブプライム・ローン金融危機を契機として2008~09年世界経済恐慌を結果した。もちろん、恐慌は必ずしも崩壊ではないが、従来型の経済システムでは機能しえないことを示す徴候にほかならない。この点をみても、著者の卓見は明らかであろう。
次に、ユーゴスラヴィアの成立と内戦による崩壊に関する著者の現状(歴史)分析を紹介しよう。この部分は、本書のなかでも多くの分量を占め、内容的にも白眉をなすものでもある。
1990年代から21世紀10年代にわたるユーゴスラヴィア内戦・多民族戦争を、著者は、1912-13年の第一次、第二次バルカン戦争、第一次大戦期及び第二次大戦期の第三次、第四次バルカン戦争に続く第五次バルカン戦争ともいっている。約100年の間に5回の内戦を経験するということは、それだけ戦争の火種には事欠かなかったということ、しかもその火種が深層においては持続していたということを意味するものであろう。
第二次大戦後、1945年11月にクロアチア人コミュニストのヨシプ・ブロズ・チトーを首班とするユーゴスラヴィア連邦人民共和国が成立し、当初はソ連型の集権的国有化・農業集団化をめざすのであるが、ソ連との合弁企業の設立等をめぐってスターリンと対立し、1948年にはスターリン主導のコミンフォルムから除名され、1949年からはソ連圏から経済封鎖を受けるに至る。これに対してチトーは、急速に西側に接近して東側からの軍事的侵攻を牽制するとともに、国内的には分権化をすすめ、国有を社会有に改め、1950年には企業に労働者自主管理制度を導入し、国名も1963年新憲法ではユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国と改めるのである。こうして1940年代後半から80年代末までの約40年間は、ユーゴスラヴィアにとって、多少の軋轢や混乱はあったものの、20世紀のなかではもっとも平和な一時期であったといってよい。
この時期、「ユーゴスラヴィアと言う連邦国家に『友愛と団結』させていた二つの接着剤」(45~46ページ)は、著者によれば、自主管理社会主義と非同盟外交であったという。実際、1961年9月には、第一回非同盟諸国首脳会議がチトーのホストのもとにベオグラードで開催されている。参加国は、アジアの7か国、アフリカの17か国、そしてヨーロッパからはユーゴスラヴィア1国であった。ユーゴスラヴィアが非同盟主義のリーダー的役割を果たしたことは、東西双方を牽制することによって、自己の安全保障をはかり、東西双方から経済援助を取り付けることによって、ユーゴスラヴィアのメリットになったばかりではない。「非同盟政策がユーゴスラヴィアにとって有した意味は、国内の諸民族それぞれに歴史的・宗教的・文明的適性に合った意義ある新任務を配分して、ユーゴスラヴィア社会主義総体の前進に貢献させる所にもあった。・・・多民族性、多宗教性、そして多文明性は、民族主義や宗教的原理を超越するユーゴスラヴィア社会主義が非同盟政策を展開する上で相乗的にプラスとなり、かくして諸民族の『友愛と団結』を実質的なものにしていた」(43~44ページ)。
ところが、1990年前後のソ連・東欧社会主義の崩壊は、このような非同盟政策を無意味とした。イスラム諸国に過分な比重をおいてきた非同盟政策は、非イスラム(非ムスリム)系諸民族に反発をもたらすようになり、これを契機に民族主義、伝統、宗教が不死鳥の如く蘇ってきたのである。
他方、自主管理社会主義の方はどのような問題を抱えていたか。自主管理企業間や企業内部の調整や協議が順調に行われ、生産性や所得が満足すべきテンポで上昇している間は、 友愛と信頼の雰囲気に満ち、さしあたり問題はない。調整や協議の不調、それによる非効率や停滞が続くと、友愛は敵対に、信頼は不信に転化する。ソ連のような集権的社会主義の場合は、危機と停滞に陥ったときには、上(中央)から派遣されてきた責任者を追放し、最終的にはシステムを解体することによって一段落する。しかし、自主管理社会主義の場合、生身の人間同士の敵対・不信は、簡単には解消されず、後遺症として残留・沈殿する。「相互不信・相互不和は、直接には諸民族の差や諸宗教の差と係わる所がないとしても、諸民族・多宗教社会において連邦国家の解体や各民族共和国の分離・独立のような万人が深刻な当事者とならざるを得ないような非常事態が発生すると、民族間・宗教間の倍化された相互不信・相互不和に瞬時に転化する』(127ぺージ)。かくして、多民族連邦国家の「接着剤」であった非同盟主義と自主管理社会主義は、悪循環的に反対に作用し、ユーゴスラヴィアの連邦の解体に導いたのである。
1990年代から21世紀10年代に至るスロベニア戦争、クロアチア戦争、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦争、コソヴォ戦争は、まさに同胞殺し的な残酷な戦争で、しかもNATOによるセルビア空爆を含むものであり、欧米日の良識ないし常識では、悪玉は大セルビア主義のスロヴォダン・ミロシェヴィッチ元大統領ということになっている。
しかし、本書は、事態はそれほど単純ではなく、100年来の複雑な民族問題に加えて、独立や人道を名目とした欧米による巧妙な介入と工作があったことを明らかにしている。この点を詳細に記述していることが本書の重要な貢献であるが、そのすべてを紹介することは不可能なので、そのいくつかをとりあげよう。
① カーター政権時の国家安全保障問題補佐官だったブレジンスキーは、1978年8月、スウェーデンのウプサラ市で開催された第11回世界社会学者大会(5000人超参加)直前に一定数のアメリカ人参加者を集め、アメリカの対ユーゴスラヴィア戦略については次のようにレクチュアした。(ⅰ)共産主義の「天敵」である分離主義的・民族主義的諸勢力を援助する。(ⅱ)ユーゴスラヴィアにおける反共産主義闘争においてマスメディア、映画製作、翻訳活動など文化的・イデオロギー領域に浸透すべきである。(ⅲ)ユーゴスラヴィアの対外債務増大は、将来、経済的・政治的圧力手段として用いることができるので、対ユーゴスラヴィア新規信用供与は続けるべきだ。(ⅳ)ユーゴスラヴィアにおける様々な異論派グループ(左右を問わず)をシステマティックに支援すべきだ。(ⅴ)チトーの死後は、ユーゴスラヴィアにおける「軟化」に向けて組織的に取り組むべきだ。その場合、民族間関係が主要ファクターである。ユーゴスラヴィア人民軍は外敵には強いが、内敵には弱い(141~143ページ)。
② 著者は、クロアチア人経済学者で、セルビア民族主義にもクロアチア民族主義にも抵抗したユーゴスラヴィア主義者ブランコ・ホルヴァト(1928~2003年)の最後の著書『我々はいかなる国家を有しているか、いかなる国家を必要としているのか?』(2002年)からユーゴスラヴィア解体・再資本主義化の「五つのペテン」を紹介している。(ⅰ)1991年の転換に関する諸法律によって私有化が宣言され、それを名目として自主管理諸企業の全般的国有化が実行された。自主管理企業は、経営を目的とする私的諸市民の連合であって、すでに私的に管理されていた。私有化と称して自主管理諸企業を国有化したのが第一のペテンである。(ⅱ)国有化は、市民達から企業を管理する権利を奪うために行われた。これが第二のペテンである。(ⅲ)更に市場経済が宣言された。すでにそれが存在しているというのに。「転換」の名目で粗野な反市場的・行政的国家干渉が行われ、自主管理企業は禁止され、成功していた市場的自主管理多国籍企業は解体された。これが第三のペテンである。(ⅳ)国家が社会有資本をすべて手中に収めた後に、強盗男爵的プロセスを通じて自分たちの追従者達に分配し、私有化を完成させた。これが、第四のペテンである。銀行、ホテル、公益事業等もっとも蓄積力のある部分が外資に売却され、その仕事に外国人コンサルタント達が従事している。我々は生産設備を創り上げたが、それを管理するすべを知らないかの如くである。これが第五のペテンであるが、最後のペテンではない(132~135ページ)。
③ 2008年2月のコソヴォ独立をもってユーゴスラヴィア解体は完了する。もともとコソヴォは、セルビアの一自治州に過ぎず、住民の多数はアルバニア人ではあったが、中世セルビア正教会の最重要な教会や修道院が数多く存在し、セルビア人にとって文化的にも歴史的にも聖地であったために、セルビアにはその領有にこだわる事情があった。そのセルビアにコソヴォ独立を認めさせる決定的な力となったのは、1999年3月24日から始まったNATO軍による78日間の空爆であった。常識的には、セルビアによるコソヴォ・アルバニア人の虐殺を止めさせるために、アメリカを中心とするNATO軍が頑迷固陋なミロシェヴィッチ政権に懲罰を加えたということになっている。しかし、空爆前、1999年2月6日から23日までに行われた欧米側とセルビアとの最終交渉では、政治的な解決文書ではセルビアはギリギリのところで受け入れるところまで来ていた。ところが、交渉の最終日になって「付属文書B」なるものがセルビアに突き付けられた。それは「NATO軍はコソヴォに入るだけではなく、新ユーゴの領域に自由に入り、あらゆる施設・便宜を自由に使用でき、そこで起こるかも知れないNATO軍の事故、犯罪は一切免責され、また、NATO軍は全ての金銭的義務から解放される。新ユーゴのどこにでも野営でき、民間の家庭にも自由に泊まれる」(174ページ)といったものであった。これは、コソヴォはむろん、新ユーゴ(セルビアとモンテネグロ)全体がNATO軍の占領下におかれることに等しい。これには、さすがのプラグマティストでもあるミロシェヴィッチも同意できない。おそらくアメリカは、ミロシェヴィッチが受け入れ難い条件を突き付けることによって空爆を実行し、アメリカ主導のユーゴスラヴィア解体に持ち込みたかったのであろうし、事実、そのとおりになったのである。
最後に、第11章に示されている著者の「方法論的民族主義」という文明史観にも簡単に触れておこう。著者の文明史観は、福沢諭吉の「脱亜入欧」な欧米文明絶対史観から自由になり、東洋文明からも学ぶべきは学んで、一挙にグローバリズムやコスモポリタニズムに走るのではなく、諸ナショナリズムの連帯・相互了解を追求しようという点にある。この論脈で、著者は、『民が代』という第二連を付けてという条件付きながら『君が代』も肯定するし、元号にも文化があるといって拒否しない。欧米一辺倒の市民派や伝統的左翼とは異なる著者独自のスタンスが示されている。
3.本書をめぐる論点
労働者自主管理社会主義のモデル国であった旧ユーゴスラヴィアの成立と解体は、政治経済理論的にも、歴史学的にも、また思想史的にもきわめて重要な主題である。その重要性は、旧ユーゴスラヴィアの人口的・領土面積的比重をはるかに超えるものである。この大きな主題に著者が独自の理論的枠組みをもって挑戦し、多くの原史料を渉猟し、現地の当事者にインタビューを重ねながら、ユーゴスラヴィア自主管理社会主義の成立と解体の基本像を明らかにしたことは、敬服のほかない。とくに前節で詳しく紹介したように、欧米日の良識派・常識派的イデオロギーを払拭して、1990年代から21世紀10年代に及ぶユーゴスラヴィア内戦の実相を分析・記述している部分は、他の類書には見られないものであり、学界と、著者の好む言葉を使えば「常民」社会への貴重な貢献であるといってよい。
しかし、著者の比較経済体制論的枠組みといわゆる方法論的民族主義には、議論の余地があるように思われるので、若干の問題を提起し、著者のご教示を乞うことにしたい。
著者の比較経済体制論的枠組みを端的に示しているのは、前述の図1(37ページ)に示されているような自由(liberty)、平等(equality)、友愛(fraternity)を三極とする三角形である。この図では自由、市場、個体主義が一体化されてMと表示され、平等、計画、全体主義がPと表示され、友愛、協議、連帯主義がCと表示されているが、 本書29ページの同様な図1-3では、より単純にL(自由)、E(平等)、F(友愛)を三極とする三角形が描かれている。
いうまでもなく、自由、平等、友愛は、18世紀フランス大革命のスローガンであり、同時に達成することを目指す価値目標であった。もちろん、当時の時代的制約から、たとえば「平等」は、成人男性間のみの平等を意味していたといった欠陥を有していたが、それらを補正すれば、自由、平等、友愛は、今日の経済社会においてもかなりの普遍的意義をもつ価値目標といえよう。
著者も自由、平等、友愛の価値的意義を否定しないのであるが、同一平面上に自由、平等、友愛を三極とする三角形を描くと、三者の間には一種のトレード・オフの関係が成立することになる。つまり、つまり、自由度を増やせば平等度は減少し、友愛度を増やせば、自由度は減少し、平等度を増やせば友愛度は減少するといった具合である。確かに、自由をM(市場)で代表させ、平等をP(計画)で代表させ、友愛をC(協議)で代表させれば、MとPの間、MとCの間、PとCの間に一種のトレード・オフ関係、ないし代替関係が成立することは、ユーゴスラヴィアの経験からも言えることであろう。
しかし、本来の自由の反対極は、平等や友愛ではなく、専制・独裁であろう。同様に平等の反対極は、不平等・格差であって、市場や協議ではない。著者のいう友愛は、同胞愛・ナショナリズムを含めているので、その反対極を見出すのは難しいが、あえていえば、抗争・民族間戦争ということになろうか。ポランニーもいうように、資本主義以前には、友愛(贈与や互酬)が市場や計画の代わりをしていたのだから、友愛と市場、友愛と計画の代替関係は否定しえないが、反対極にあるわけではない。評者には、著者は友愛のなかに「諸ナショナリズムの連帯性、相互了解」(243ページ)を含めているように解されるのであるが、そうだとすれば、友愛の反対極にあるのは、抗争、排外主義であろう。
以上のように自由・平等・友愛をそれぞれ次元を異にする三次元のものとして理解してよければ、それらを三極とする三角形を描く代わりに、次のような立体構造をモデルにすることができるように思われる。すなわち、縦軸の上部極(プラス)には自由、縦軸の下部極(マイナス)には独裁、横軸の右側極(プラス)には平等、横軸の左側極(マイナス)には不平等、両軸の交叉点を通る垂線の上部極(プラス)には友愛、垂線の下部極(マイナス)には抗争があるような立体がそれである。
このモデルからみれば、チトー体制下のユーゴスラヴィアは、独裁、平等、友愛の層にあり、チトー後の内戦下のユーゴスラヴィアは、独裁、不平等、抗争の層にあり、今後は、現状をいかにして自由・平等・友愛の世界に変えていくかが問題になろう。そしてこのような考え方は、著者の結論とそう違っていない。環境問題一つを考慮しても、100%自由な世界はありえない。個人の個性差・能力差を考えれば、ジニ係数ゼロの世界もありえないだろう。現況のような高度な生産力と65億の人口を擁する地球経済が、友愛だけで維持されるとは考えられない。かなりな程度の自由、相互に許容できる程度の平等、社会から排除される人間を作り出さない友愛。これらの相互の折り合いをつける程度が高くなればなるほど、地球市民(常民)の満足は増大するだろう。この点では、著者と評者の間にはほとんど意見の対立はないように思われる。
最後に、著者の方法論的民族主義についても意見を述べておこう。これに示されている著者の文明史観は、基本的には文化多様性論である。グローバリゼーションのなかで、文化も単一なものに収斂していくという考え方もあったが、事実はむしろ逆であった。生物多様性を維持することに意味がある以上に、文化多様性を維持することには意味があろう。この限りでは、評者も著者の文化多様性論に同感である。
しかし、文化のなかには、民族はもちろん宗教的・歴史的(慣習的)要素もあり、政治文化、企業文化という語があるように社会経済的要素もある。それらの多くは歴史や宗教や言語の差から生ずる単なる相違であって、この多様性は尊重されねばならない。だが、文化のなかにも、人権(命)尊重とか男女平等とか人間平等といったような普遍的原理が存在するし、存在しなければならないのではないであろうか。その場合、人権(命)や平等に反する文化には批判が加えられて然るべきであるし、これを多様な文化の一つとして維持し続ける必要もないように思われる。著者のいう方法論的民族主義が、民族がこれまで受け継いできたあらゆるものを保守することを勧めるかのようにも読みとれたので、これが、評者の誤解であれば幸いである。
(本書は、2010年7月にお茶の水書房から発行された。)
(初出)『政経研究』96号(2011年6月刊)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study401:110719〕