電脳社会主義は可能性か、それとも新たな絶望の種か?
中国を中心に、アメリカ、日本、そして東アジア諸地域の関係を冷徹に観察し続け、その成果を次々と公開してきた著者の最新作に、わたしは、二つの大きな衝撃を受けた。
第一。習近平の率いる中国が、いま目指しているのは、電脳社会主義(digital Leninism)ではないかという著者の問題提起。これは鋭く、かつ重い。いまから80~90年前に、ノイラートやランゲが計画的な社会主義経済の可能性を主張したのに対して、ミーゼスやハイエクは市場も価格も存在しない経済では、需給を計算するのは無理だから、計画経済は不可能と断じた。この経済計算論争は、共産党の支配体制の解体とともに、計画・統制経済から資本主義・市場経済へ移行したロシア・中東欧圏の現実だけでなく、中国やヴェトナムでも共産党支配のもとで市場経済(≒資本主義)的な要素を大幅に導入した経済改革が試みられて、近年の急成長に結び付いている現実の前に、計画経済不可能派の勝利が確定したものと暗黙のうちに考えられてきた。しかし、著者は、現在の中国が目指しているのは、情報技術・人工知能を活用した新たな計画経済の可能性ではないのかという大胆な指摘をする。
ジョージ・オーウェル『1984年』(1949年刊行)は、経済活動や公的情報だけでなく、諸個人の行動や思考すらも統制された「未来社会」を描くことで、人びとにスターリニズムの恐怖を教えたが、いかんせん、そこでは、情報・行動・思考を統制しうる技術的な基盤がリアルには描かれていなかった。しかし、今世紀に入って、日本では、夭折した作家の伊藤計劃が『ハーモニー』や『虐殺器官』によってリアルタイムの管理社会の可能性を、オーウェルよりもはるかにアクチュアルに描いた。また、法哲学の分野でも、人格・自由・自律といった近代の虚構を軽々と乗り越えて、「人格亡きあとのリベラリズム」たる功利主義リベラリズムが可能ないし必要であることを論証する書物が現れた(安藤馨『統治と功利』2007年)。
それでも、わたしは、そうした即時監視・管理社会はまだ文字の上の物語であろうと高を括っていたのだが、矢吹氏の観察と予測によると、習近平はそこに王手を掛けつつあるという。かつてなら、計画的な社会主義経済に新たな可能性が生まれつつあることは、期待を込めて受け留められたかもしれない。しかし、わたしは、ソ連や文革の末路だけでなく、ユーゴスラヴィアやカンボジアの悲惨な失敗も見た後で、大きくて強い規範や理想を具現化しようとする試みには、拭いがたく拒否感を感ずる。確かに、そう感じはするのだが、矢吹氏の中国に関する予測は大概当たっていることを考慮するなら、この電脳社会主義という、決して、明るくも耳に心地好くもなく、夢や希望に満ち溢れているわけではない可能性――新たな人間操作技術と統治技術による「千年王国」という悪夢の可能性――を考慮しなければ、これから先の世界は理解できないだろうと思い当たった。これだけでも、立ち直れないほどの衝撃だが、いま一つも、勝るとも劣らぬ大きな衝撃であった。それは、簡単にいうなら、近年の日本の中国ウォッチャー(外務省の担当部局、中国研究者、中国評論家、中国専門のジャーナリズム等々)の衰退と堕落の態である。矢吹氏のこの書物の後半は専ら、そうした中国ウォチャーがいかにおのれの願望と思い込みだけで、中国を見、論じてきたかを暴くことに費やされている。ここで衝撃的なのは、この衰退堕落ぶりを暴露する矢吹氏に、特別な秘密の情報源があるわけではなく(少なくとも本書では一切そうした情報は用いていない)、中国が公開し、世界中誰でも接することのできる情報のみで、矢吹氏の批判の論がなされていることである。つまり、逆に言うなら、日本の「中国ウォッチャー」と呼ばれる人びと、それで飯を食っている方々は、公開情報に基づく分析(諜報用語でいうところの「オシント」(OSINT, Open Source Intelligence) すら満足にできていなかったということが、矢吹氏によって暴露されたのである。こんな体たらくで、擡頭著しい中国と対等に付き合えるはずがない。矢吹氏の警鐘はまことに苛烈な舌鋒でなされるが、日本に住むわたしたちが、いま、どのように貧弱で、一方的な情報の下で、物事を考えざるをえないのかに否応なく気付かされた。決して、明るく、幸福な気分になる書物ではないが(少なくともわたしにとっては)、本書を読まずに、中国も日本も冷静には語れないと感じた。冷静な議論を望む方には必読の書の一つだと思う。(筆者「霞の知」)
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