坂井定雄氏が本欄に書かれた『朝日社説「反感をあおる風潮を憂う」を支持、でも、腰が引けていないか』(2019年9月18日付)の論の趣旨には私も大賛成で、昨今の週刊誌、新聞、テレビなどの反韓キャンペーンには怒りを禁じ得ない思いです。
そんな中で、月刊「文藝春秋」10月号を私も読んで、日本が反韓・嫌韓の憂うべき状況にどっぷりと浸っていることについて、改めて考えて見たいと思いました。だが、私がこの号を買ったのは、総力特集「日韓断絶 憤激と裏切りの朝鮮半島」のためではなく、村上春樹の「バイロイト日記」のためでした。
私はワーグナーのオペラが好きで、バイロイトにもこの20年間で5回足を運んでいます。村上春樹氏がバイロイトのオペラを見てどう書いているかに興味があったからでした。しかし、読んでがっかりでした。この作家らしい目というものをほとんど感じることがなかったからです。
私は元来、村上春樹のファンではありません。彼の作品は一種の風俗小説の範疇を出るものではないと思うからです。風俗小説が悪いというわけではありませんが…。
ところで、バイロイト・ワーグナー・フェスティヴァルは、ヒトラーがワーグナー・ファンであったことから、戦時下ナチスの思想的聖地となり、戦後はその歴史から決別するために、上演スタイルを180度転換し、指揮者や出演者、演出家などを世界各地から招き、ステージもオーバーなドイツ色を極力なくして、今では実験的、前衛的な舞台表現の場となっています。この方式はリヒャルトの孫のウィーラントが戦後、資金のない中でフェスティヴァルを再興した際に編み出したものだと言われています。
そして、現在ではこれが定着して世界で最もチケットが手に入りにくい音楽祭と言われるまでに発展したのです。フェスティヴァルのメインである大作『ニーベルンクの指環』は、終戦直後はウィーラントが抽象的な演出をしたのですが、1970年代にフランス人演出家パトリス・シェローが産業革命の時代に舞台を移し換えたことから、自由な演出が広まり、同時にナチス批判なども織り込まれる演出が自由になされるようになっています。
そんなフェスティヴァルの歴史を見ると、あの戦争に協力した芸術が戦後、どのように転換して社会に発信していくか、戦争への反省とその体験の継承、さらにいかにその精神を失わずに現代まで持続するかという点で、今だからこそ大いに考える意味があると思うのです。
こういう現況に対して、村上春樹氏がどういう見方をするかを期待したのですが、目立った意見はなかったように思ったのです。
総力特集「日韓断絶 憤激と裏切りの朝鮮半島」では、佐藤優氏は比較的客観的に現状を分析する姿勢を感じましたが、数学者の藤原正彦氏や前釜山総領事の道上尚文氏には、根底に反韓の姿勢が流れており、私には馴染めなかった。ことに道上氏は「日本側で心得ておいた方がよいと思うこと」として「第一に、オールジャパンでしっかり日本側の立場を発信し、説明すること」「第二には『国際スタンダードに即し、客観性のある姿勢』という日本の長所を維持すること」という。これには大いに疑問を抱きました。安倍政権の対韓政策をオールジャパンとしてみとめるというのだろうか。また、今の日本の対韓姿勢が国際スタンダードに即し、客観性があるというのだろうか。どのようにそれを証明するのかは書かれていない。
あえて言えば、このあとで触れるダルビッシュの意見に共感する私としては、こういう日本政府やこれを支持する人たち至上主義とも言える見方こそ批判すべきで、日本にはもっと多様な見方があることを自覚する必要があるように思います。
そして、道上氏はさらに、全米歴史学会会長グラック博士の「歴史は、民族の記憶に負けるな」をよく引用すると書く。「戦勝国も敗戦国もどの国も、自国中心の単純なストーリー、『民族の記憶』が前面に立ちやすいが、これを克服したところに歴史がある、との趣旨だ。自国中心を克服した、個性で開かれた歴史。これが国際スタンダードである」という。だが、戦後の日本の保守派には日本会議をはじめとして戦前回帰を願う人が目立つ。彼らこそが日本至上主義、自国中心主義を言ってきたようにも思うのです。そこで、この言葉を、私は道上氏にそっくり返したいと思います。
「民族の記憶」に固執しているのは日本の支配層をはじめとした保守派なのではないでしょうか。
ただ今月の文春では、思わぬ拾い物もありました。一つは保阪正康氏と原武史氏の対談「昭和天皇『拝謁記』は超一級資料か」です。NHKがお盆に特ダネ風に報じた田島道治の手記についての評価です。もちろん、これは仏文学者の加藤恭子氏が2003年「文藝春秋」7月号で発表しており、その後の彼女の研究も学会ではすでに知られていることです。それをさも特ダネのように装って報じた一種のフェイクニュースです。フェイクという言葉は使っていませんが、言っていることはNHKのそういう意図的な報道の仕方に対する批判です。おそらくその背景には政治的な意図があると思われますが、そこまでは明らかにしてはいません。
もう一つ。私が感心したのは鈴木忠平というスポーツ・ジャーナリストの「ダルビッシュ有『僕は日本へ提言を続ける』」です。
シカゴの球場でインタビューした内容の報告ですが、ダルビッシュが高校野球岩手大会で大船渡高の監督が決勝戦で佐々木朗希投手を出場させなかったことについて、張本勲がTBS日曜の番組で批判したのをはじめ、野球界から出すべきだったという声が広まったことに反論しているのである。いまの日本の高校野球が甲子園至上主義になっていることへの彼の批判には説得力がある。そして、ダルビッシュは、甲子園至上主義に100%近く染まってしまっていることは、選手本来の人生を歪めてしまっているともいう。甲子園で優勝し、プロ野球選手になるということにしか価値をおかないような風潮が支配しているのである。ダルビッシュは、球界がこのような形で一色に染まっていることに危機を感じているのだ。社会には多様な意見があるべきで、そのために彼は自分の考えを発言し続けるというのである。
このダルビッシュの考えは、まさにいまの日本の多様な価値観の欠如による、息詰まるような狭量な社会の現実に対する批判でもある。その意味で、日本を覆う嫌韓差別意識の問題にも通じるわけです。
週刊誌と違って、また一色の主張に塗り固め荒れた雑誌が多い中で、文藝春秋には、半藤一利氏らが残した経験の蓄積もあると考えたいと思うのです。
<藤野雅之氏の略歴>共同通信文化部長、京都支局長など経て、KK共同通信社取締役出版本部長。2002年退職。東京経済大学、明星大学で非常勤講師。1976年、沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊を呼びかけ、代表世話人として40年間続ける。著書「与那国島サトウキビ刈り援農隊 私的回想の30年」(ニライ社・2003年)
初出:「リベラル21」2019.9.26より許可を得て転載
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