活動家仲間がデュッセルドルフ駐在の辞令を拒否して身分保全の訴訟を起こした。旧態依然とした会社だったが、さすがに辞令一本で従業員を海外に出すのを躊躇わざるを得なくなった。そこで駐在員公募制が出てきた。表向きは公募制。実質は上長からお前応募しろという話がきて、応募してというのが会社が描いた筋書きだった。
思慮の類がここまでないのかと呆れてしまうのだが、描いた筋書きとは違う筋書きが出てきたときに、どうやって自分たちが描いた筋書きを、誰が見ても一見公明正大であるように残して、他の雑草のような筋書きを消し去るのかについて何も考えていなかった。当事者ではないから具体的には分からない。ただ起きたことから判断する限り、そうとでも考えなければ辻褄が合わない。
応募資格や選考過程に関する規定もなしで公募したから、海外に行ってみたいというだけの人たちまでが応募してきた。職歴や年齢に関係なく誰にでも応募資格があるから応募されれば会社としては受けざるを得ない。それまでは関係者の都合-本社にいなくてもいい人材で、海外に出してもなんとでもしてくるだろうと思える人を派遣してきただけだった。時には棄民政策のような考えで駐在に出してきたから、選考方法や評価体系など思いつく人もいなかったろう。これが戦前からの歴史ある一部上場の、かつては名門と謳われた工作機械メーカで七十年代の中ごろの話だから呆れる。
上司に押されて応募してきた人たちはいい。人材として大きく外れることのない人たちで、組織として駐在に出す、個人として駐在にでる準備をしてから派遣される。問題は海外に行ってみたいという程度で応募してきた人たちをどうやって篩いにかけて落とすかがはっきりしない。しょうがないからということでもないだろうが、人手不足で応援者の派遣を要求している米国支社に応援に出して、米国支社に駐在適不適を評価させようというだらしのない話。受け入れる方はたまったもんじゃない。ましてやその人たちの日常の世話を一人で背負わされている者の身になって考えたことあるのかと怒鳴りたくなる。
海外拠点で何名もの応援者を必要としていたのも、受け入れる最低限の能力を持っていたのも米国支社のニューヨーク本社だけだった。優秀な次期駐在員候補に混じって、この人だけは日本の工場でゆっくりやっていた方が会社のためという以上にご本人のためという人たちが応援に来た。人としては真面目でおとなしくていい人たち。人はいいのだが暗愚ではないにしても緩すぎる。話は要を得ないし、動きまでが緩慢としている。部隊の一員としてなら頭数にはなるが、知らない土地で英語で、それも一人で出たとこ勝負のフィールドサービスなどありえない。何にしてもエネルギーレベルが低すぎる。
真面目なのだろう、米国に長期出張だということで地元の歯医者に行って気になる歯という歯を全て治療してきた。それを治療と呼ぶのは治療?した歯医者だけではないかといいたくなるもの凄さだった。
日常生活に関すること、病院や医者に歯医者、ちょっとした買い物から学校や車の修理でも下宿の大家に相談すればよかった。分からないことは町のあちこちにいる知り合いに聞いてアドバイスしてくれた。New Hyde Park、決して豊かではないイタリア系が多く住んでいる町で大家の親戚もあちこちにいた。マンハッタンの夜遊びなら“扇”のマスターに相談すれば表に出てこないことまで分かる。応援者から応援者へ口伝えで何時の間にやら、昼のことでも夜のことでも、会社には言えないことでも何かあったら、あいつに聞けばいいという話になっていた。
治療してきた歯が痛むということで大家に歯医者を紹介してもらって連れて行った。歯医者が歯の常態をX線写真で撮って二人に説明してくれた-正しくは便利屋が間に入って応援者に通訳した。X線写真を見て驚いた。素人でも分かる。クラウン(かぶせ物)というクラウン全てが大きすぎてキノコの傘ようになっている。神経を抜いた穴に異物が入ったままでその上にキノコのようなクラウン。全部治療してきたつもりが全部弄り壊してきたと言った方があっていた。
全体の説明を細々と聞いて、今日の治療についてまた細々。。。歯医者、職業柄丁寧に説明しなければならないのは分かる。特にアメリカでは医療事故でも起こそうものなら、とんでもない賠償を請求されかねない。最近、日本でも医者や歯医者が説明するようになったが、日本では訴訟になるようなことはまずないから、説明しましたという形ながらで終わる。言葉の不自由な日本人にはアメリカでの説明は細かすぎて疲れる。
今日は緊急処置を優先して、まず化膿している奥歯のクラウンを外して、膿を出して。。。応援者だけが診察室に入っていった。何分もしないうちに診察室に呼ばれた。言葉が通じない。何を言っているのか分からないが、ものすごく痛がっているようなので通訳してくれ。診察台の横に立って、「どうした?」「二人がかりで手を突っ込んで歯茎を押されて膿を。。。、痛くて。」頬に涙の後が乾ききっていなかった。歯医者に聞いたら、まだ膿を押し出している途中で、もうちょっとかかる。そう伝えたら、涙声で「もうちょっと、やさしくやってもらえないかな。。。」「もうちょっとだから頑張れ」と言って、歯医者と看護婦が続きを始めた。うめき声のような泣き声のようなのを聞きながら、「頑張れ」としかいいようがなかった。
「この次はちょっと切開しなければならない。」「出血が多いかもしれない。治療が終わってから一時間くらい脇のベッドで仮眠してもらうことにしたい」「仮眠すると胃の動きが止まってしまうから朝食抜きできて欲しい」と言われた。
明日の朝歯医者という前の晩夕飯に出かけた。明日歯医者ということでもうビビッている。分かる気がする。この間膿を押し出されたときのありよう、大きな外国人二人に大きく開けた口に手を入れられて、拷問のようだった。明日の朝、朝飯食えないから今晩力いっぱい食べとかなきゃとダメだぞと、冗談半分にいいながら、明日は頑張ろうなって元気づけた。別れ際に、朝飯食うなよ。切開のあと止血のために小一時間寝てなきゃならないからな。分かったな、朝飯食うなよ。
朝、会社が用意したアパートに迎えに行って、歯医者に向かっている途中で聞いた。「朝飯食ってないよな」「メシは食ってないけどパンは食べた。食べないと昼までに腹がすいちゃう。」おいおい一体何考えてんだ、バカやろうと怒鳴りたくなった。呆れたヤツで朝飯の飯は米のことで、パンは朝飯じゃないと思っている。朝飯といえば、それが米だろうが、パンだろうがコーンフレークやドーナッツでも、そばでも饅頭でもなんでも朝飯だろうがって言っても遅い。それは天然ボケと言うより天然漫才とでも呼んだ方が合っている。ここまでくると呆れるだけで腹も立たない。
歯医者に行って、こいつBreakfast食っちゃいましたって言ったら、しょうがない、仮眠するための薬は使えないけど、横になって止血をしてもらうしかないなって。
治療してきた歯という歯を全て治療し直さなければならないという話になった。出張手当を当てても足りない。でもそのまま放っておけばいつ化膿して一騒ぎになるか分からない。会社が用意した旅行保険もそこまではカバーしていない。しょうがないなら会社負担で治療を進めることになった。なったはいいが通院の度に通訳とアッシーのサービスは?それもはみ出し駐在員の業務の一環なのか?誰もかれもが、それを当たり前と思っている節があった。情けないことに冗談じゃないって言えなかった。おかげで便利屋として経験だけは積ませて頂けた。
こんなのが応募して駐在にでてきたら、それこそ何が起きるか分からない。会社も説得したのか、本人も悟ったのか分からないが駐在には出なかった。ところが駐在にでるということで体当たりして結婚した女房の方は収まらない。何年もしないうちに離婚したと聞いている。
駐在ということで女の方から結婚というのが珍しくなかった。駐在中に一時帰国してお見合いして、駐在していることに惹かれて結婚という感じの人たちまでいた。新婦のご両親の心配までが聞こえてきた。何時までも駐在している訳でもあるまいし、そんなんで将来なんとかなるんかな。結婚ってのそんなもんじゃないだろうと分かったような分からないような。いずれにしても未知のというか自分には関係ない、遠い世界だった。
願わくは、朝飯がなんなのか分からないような人たちも遠い世界であって欲しかった。走り回る便利屋でしかないにしても、最低限の常識の範疇で走り回るまでで勘弁してくれと言いたかった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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