朝鮮王妃殺害事件の調査補遺

著者: 醍醐 聡 だいごさとし : 元東京大学教授/NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同代表

朝鮮王妃殺害事件の調査補遺

朝鮮王妃殺害事件~逆の立場だったら?~

 NHKが『坂の上の雲』をドラマ化して放送することに警鐘を鳴らす運動に昨秋から参加する中で、日本の近現代史に関する知見の浅さを痛感し、原作が対象にした日清・日露戦争期の日朝関係史を調べてきた。その中で詳しく調べたいと思ったのは皇后閔妃(明成皇后)殺害事件である。多くの日本人がそうであるように、私も今まで日清戦争の終結直後にこのような事件が起こったことを知らなかった。かりに、日本の皇后が皇居内の皇后の寝室に乱入した韓国人兵士に切り殺されたとしたら、国を上げて大騒動になり、日韓関係は国交断絶にまで発展しかねない緊迫した状況になるに違いない。立場が逆だとこうも情報・関心が非対称になるのかと考え込んでしまった。

今も続く水掛け論への逃避

 このたび高文研から出版された中塚明・安川寿之輔・醍醐聰『NHKドラマ「坂の上の雲」の歴史認識を問う』で、私は「いま、『坂の上の雲』を制作・放送するNHKの社会的責任」というタイトルの最後の章を分担執筆した。そこでは、日本は日清・日露戦争をフェアに戦ったというドラマのナレーションや関口夏央氏の解説に対する反論として、①王妃閔妃殺害事件と、②旅順虐殺事件を取り上げる予定だったが、朝鮮王妃殺害事件については日朝関係現代史の研究のパイオニアである中塚明さんが同書で詳しく解説しておられる(110~116ページ)ので重複を避けた。

 ところで、この事件については、角田房子『閔妃暗殺』1988年、新潮社;金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年、高文研、といった優れた先行研究がある。いずれも精力的な資料調査と関係者への聞き取り調査に基づいてまとめられた書物である。これらの研究をとおして、歴史上稀な残虐行為が当時の朝鮮公使・三浦梧桜を首謀者とする日本兵の犯行であることが確定的事実となっている。にもかかわらず、NHK出版が昨年刊行した『NHKスペシャルドラマ 歴史ハンドブック』では「閔妃に不満を持つ開化派武装組織によって景福宮にて暗殺され、その遺体は武装組織による焼却された」(17ページ)と記されている。これだと国内の反対派(反露派)によって殺害されたということになる。

 さらに、今年の2月12日付の『毎日新聞』に掲載された「質問 なるほどドリ」でも、<100年前の『日韓併合』今も両国間で問題なの?>という見出しでこの事件を取り上げ、次のような問答を記している。

A.・・・・1895年の「閔妃暗殺」事件があります。李朝内部の親露派である閔妃が殺され、それ以降、李朝は日本に近づいていきました。実行犯が日本人か、韓国人かなどを巡って、小説やノンフィクション、テレビドラマなどで、今もさまざまな意見や主張が出されています。

Q. 真実の解明は、やはり難しいのかな。

A. 決定的証拠はないようです。・・・・・

 こうした朝鮮内部犯行説や真相不明説に対し、中塚さんは前掲書(113ページ)のなかで、事件の2日後の1895(明治28)年10月10日に三浦梧桜が西園寺外務大臣臨時代理に宛てたつぎのような電報(『日本外交文書』第28巻第1冊所収)を引用し、真っ向から反論している。

・・・・・過激のことは総て朝鮮人にてこれを行はわしめ、日本人はただその声援をなすまでにて手を下さざる約束なりしも、実際に臨んで朝鮮人躊躇してその働き充分ならざりし前、時機を失はんことを恐れ日本人の中にて手を下せし者ありと聞けり、もっとも右等の事実は内外人に対し厳重に秘密に致し置きたれども、その場に朝鮮人居りし由なれば漏れ聞きしことなきを防ぐ可からず・・・・・。朝鮮政府よりは日本人は殺害等乱暴の挙動は一つも無かりしとの証明書を取り置きたり、・・・・・この二件は外国人に対し水掛論の辞柄となす考へなり」

 つまり、①もともとは閔妃殺害を朝鮮人に行わせ、日本人は直接には手を下さない計画だった。しかし、いざとなると朝鮮人が実行を躊躇ったので時機を逃さないよう数名の日本人が殺害に及んだと聞いている。②この件は極秘とし、朝鮮政府からは日本人が殺害に関与していないという証明書を取った。③外国人に対しては水掛け論に持ち込むことにした、というのである。

 NHK出版の内部犯行説や毎日新聞記事の犯人不詳説は、少し調べれば真相を判断するに足る資料を得られるにもかかわらず、それらから目を背けて、事件の首謀者が事件直後に画策した真相隠ぺい工作を性懲りもなく受け継いでいるのである。

「一瞬電光刺老狐」~実行犯が残した肥前刀の鞘に記された碑文~

左の写真は福岡県の櫛田神社の氏子・藤勝顕が同神社に寄贈し、保管されている肥前刀である。この刀は江戸時代の16世紀に忠吉という職人が殺傷用に製造したといわれるが、刀の鞘には「一瞬電光刺老狐 夢庵勤議」と刻まれている。「狐」というのは三浦梧桜が閔妃のことを「女狐」と呼び、閔妃暗殺計画に「狐狩り」という暗号を付けていたことに由来するといわれている(高大勝『伊藤博文と朝鮮』2001年、社会評論社、118ページ)。また、「夢庵」とは藤勝顕の号である。高氏は藤の第二刀が王妃を絶命させたと記しているが、これについては断定するに足る証拠は得られていない。しかし、藤勝顕が閔妃殺害に関わった一人であることは間違いない。

 西日本新聞社編集委員の嶋村初吉氏は「島村初吉のブログ」の2010年1月4日付の記事「日韓の光と影 近代の博多と朝鮮」2の中で藤は政治結社「玄洋社」のメンバーで櫛田神社の氏子であったこと、藤に関わる史跡が福岡市博多区に2か所――一つは臨済宗妙心寺派・聖福寺の節信院の子安観世音菩薩像、もう一つは櫛田神社に藤が奉納したとされる肥前刀――あると記したのち、次のように書いている。

http://www.journalist-net.com/shimamura/2010/01/post-19.html

 何故、子安観世音菩薩像と一緒に刀も節信院に納めていないか。暗殺に使われたとされる刀は穢れたもので、仏教では受け入れられない。そのような禁則から、藤勝顕は櫛田神社に納めたとされる。櫛田神社に残る「寄付台長」には、藤勝顕が奉納したと記録されているのである(1995年9月12日付け朝日新聞より)。

 子安観音菩薩像は、製作を依頼したのは藤勝顕で、「閔妃を切った際の顔が忘れられない。供養したい」(同、朝日新聞)といわれるが、藤勝顕の妻の母親が夫の行為に驚き、供養を申し出たといわれる説もある。「国士と朝鮮王宮に乗り込み、何の罪もない人を斬り、王妃を殺した事は、私情に於いて忍べず」と。

 次に、黒竜会編『東亜先覚志士記伝』1977年、原書房、『明治百年史叢書』所収、下巻では、藤勝顕について、次のように記している。

号は夢庵。勝敬の三男として安政六年十二月六日福岡春吉瓦町口に生まれ、幼名は規矩太郎、後ち勝顕と改めた。・・・・・・

明治二十八年十月八日の閔妃事件には其の事に参画し、中村楯雄と共に最も重要な役割を果たしたと云われた。〔事件後〕一時広島の獄に投ぜられ、無罪出獄の後ち郷里福岡に帰ったが、韓国政府は彼と中村の首に賞金一万円を懸けて之を獲んことを謀り、二回も福岡に於いて刺客に襲われたと云ふ。・・・・・其の修道に縁ある聖福寺山内節信院に荘厳なる子安観音を鋳造安置したことは往年の遭難者を追福供養する発願に出でたるものであった。又た博多の産土神たる櫛田神社に忠吉の銘刀一振を奉納し、「之れ韓王妃を斬って爾後埋木となったものなり」との旨を記し、当年の詠歌一首を添へた。

朝鮮にて二十八年十月八日の夜

入闕の時

我愛でし太刀こそけふはうれしけれすめら御国のために尽しつ

藤勝顕 九拝

叱正

棒鞘一振 目釘穴一

一.忠吉ノ太刀 長二尺三寸 全長三尺

目方 二百五匁

銘ニ肥前国住人忠吉作八字

鞘ニ一瞬電光刺老狐

夢庵勤識

・・・・・

 こうした解説あるいは当人の述懐には誇張なり自己顕示による虚飾があるかも知れないが、藤が閔妃殺害に直接関わった一人であることが動かせない事実であることを示す資料といえよう。

 なお、朝鮮の『中央日報』は今年の3月26日の紙面に「明成皇后殺害『肥前刀』の返還 日本の神社に要求へ」と題する記事を載せ、その中で、海外に流出した朝鮮王室文化財に関する国民の関心が高まる中、26日に「肥前刀還収委員会」が発足し、「神社に犯行道具の肥前刀が保管されているというのは民族的自尊心が許さない」という同委員会のヘムン僧侶の発言を伝えるとともに、還収委員会が櫛田神社に対し、刀を韓国に引き渡すか廃棄するよう求める声明を発表すると記している。

 武士道気どりで「自分が殺った」と公言し、犯行に使ったという刀を顕示した上で、自らが愛しんできた刀で王妃を切り殺したことを「すめら御国のために尽しつ」と自画自賛する人物がいる中で、いまだに朝鮮人の仕業と言い募るのはどういう魂胆なのか?

消された明治天皇の発言

 上記の金文子さんの著書を読んでいくと、三浦梧桜『観樹将軍回顧録』(政教社、1925年)の中に閔妃殺害事件に関する明治天皇の発言が記されているのに注目したくだりがある。すなわち、広島地裁において証拠不十分で無罪放免され、東京に立ち寄った三浦梧桜のもとに天皇から米田侍従が派遣された折、三浦と次のようなやりとりが交わされたという。

我輩は先ず、

「お上には大変ご心配遊ばしたことであろう。誠に相済まぬことであった。」と挨拶すると、

「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時,遣る時には遣るナと云ふお言葉であった。」と答へ、更に、

「今夜お訪ねしたのは、外でもない。実はアレが煮ても焼いても食えぬ大院君を、ベトベトにして使って行ったが、コレには何か特約でもあったことか、ソレを聞いて来いと申すことで。ソレでお訪ねした。」とのことである。

 ところが、金子さんによると、この『観樹将軍回顧録』が1988年に中公文庫から出版された際、下線部分が消えていたという。そこで、私も真偽を確かめようと政教社版と中公文庫版を突き合わせてみることにした。このうち、政教社版は未見であるが、近くの公共図書館から借り出した中公文庫の該当箇所を見ると、確かに下線の箇所が見当たらなかった。また、後段の「実はアレ・・・・」の下線箇所も見当たらなかった。閔妃殺害事件と大院君を利用した朝鮮支配に関する明治天皇の注目すべき発言が消されたとしか考えられないが、史実の隠ぺいと言われてもやむを得ない重大な改ざんである。

初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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