アメリカ大統領選挙、中国共産党大会と続いた政権の審判、あるいは交代劇に続いて日本の選挙だ。かつてアメリカ大統領選は「チエンジ」を掲げるオバマの登場で湧いた。再選されたオバマには前回のような輝きも期待もない。中国共産党大会は新指導部を選んだがその手続きも内容も不透明で不安が付いて回る。ずるずると人気だけが後退して何処まで持つかと懸念されていた野田政権は解散に打って出た。三年前に期待の中で成立した民主党への政権交代は無残な結果に終わった。自民党の復権が予測されるがそこには期待はない。石原や橋下らの画策する第三極結集の動きにも何か動かされるものはない。
民主党政権の三年間は期待が失望に変わって行く過程だった。当初から不安や懸念がなかったわけではない。だが、それなりのことは…という期待はあった。この三年間の民主党政権の所業は何だったのだろうか。彼らは政権の座についた途端に、アメリカや官僚やメディアという既得権益を墨守しようとするところから反撃にあいまともに闘うこともできずに敗北したということだ。民主党の変節はそれを示すものだ。公約を反故にして恥じないのはその証明である。また、政権の座にあれば否応なしに迫られて事柄に稚拙な政治しかできなかったということだ。その最たるものが、東日本大震災や原発震災の復旧や復興への対処だった。進まぬ復興と出鱈目な復興予算の使いかた、また、福島第一原発事故に対する対応などを見れば頭をかしげざるを得なかった。揚句の果てが党を分裂に導いただけの消費増税法案の強行であった。野田政権の消費増税法案は官僚にそそのかされてやっただけで果たして民主党政権の内部でどれだけのメンバーが政治的意義を感じてのことだったのか。そういう疑念がある。
ふりかえれば政権交代時にかかげた公約《政権が実現したいとした政治構想》を民主党の面々がどれだけ身に付いたものにしていたのだかだが、それがただ口当たりのいい選挙用のコピーに過ぎなかったということだろう。この公約を実現しようとすれば当然出てくる反撃に何もできずにお門違いのことに狂奔したのだ。それは民主党の中枢をなす面々が「やりたいことー政治ビジョンや構想」を持っていなかったことを暴露している。民主党が政権交代時に掲げた」選挙公約は本当に試されたわけではいまでも通用すると思う。その意味で少なからぬ人たちがそれを原点として今度の選挙に臨もうとしていることを評価している。羊頭狗肉の類とでも言うべき政治グループが横行しているが、目を凝らしみるべきところを外さなければ、今、選ぶべきものも見えてくる。
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