図書館の蔵書に『ユーラシア諸民族群島』を見つけて借りてきた。これぞ日本語という藤村信のかたりにほれぼれしながら、読みはじめた。端的な分かりやすい文章が続いているだけだから、つい上っ面で読み進めてしまう。上滑りしないように注意しながら、何を言わんとしているのか確認すべく、しばしGoogleで調べながらになる。三百ページほどの本なのに、二週間たっても半分しか読めなかった。毎日トルコ語に数時間使っていることも災いしてのことだが、あまりの遅読に呆れかえった。
十年ほど前から、読んだ本の気になる個所は、後日参照するときのためにWordに書き写している。本の状態ではページをめくりながら該当箇所探しに四苦八苦するが、電子データならキーワードで簡単に検索できる。いつもなら読み終わってから、ここはと思う個所を書き写すことにしているが、ときには何ページにもわって書き写さなければならないこころがいやというほどでてくることがある。あまりに多くて、読み終ってから、ぶっとおしの書き写し作業になる。
『ユーラシア諸民族群島』、読むのを中断して書き写してはみたが、どうにも多すぎる。貸し出しを二週間延長しても読み切れなかった。日をおいて、また借り出すか?貸出期間は二週間。また貸出延長するのか?延長したとして、書き写す作業まで含めると、四週間では終わりそうもない。どうしたものかと考えた。
引っ越しの度に読み終わった本を処分してきて、もう本はできるだけ買わないようにしている。処分するのは、なんか自分の歴史の、たとえ一部にしても切り捨てるような気になる。
アマゾンに入って古本を探したら、程度のいいものは二千円もするのに驚いた。あれこれ評価と値段を見て行って、これはお買い物だと思うのを見つけた。背は歪んでいるが、外装も版面も綺麗で折りこみなければ書き込みもないという。それがたったの一四〇円だった。二五〇円ほどの送料の方が高い。もとは箱に入っていたのか、薄い薄茶色バカ―まで皺ひとつなくかかっていた。まるで出版社か卸業者の倉庫の隅に忘れられていたかようで、誰かの手が入っていたようには見えない。
図書館で借りて来る本の中には半世紀も前に出版されたものもあって、どことなく黴臭くてまいってしまうことがある。届いた本は、今まで経験した臭さとはちょっと違う、お香の親戚のような、それでもやっぱりカビの類なのかと思わせるものがほのかに漂って来た。一四〇円で、新刊と見間違える状態なんだから、文句は言えない。
まあ、ちょっとした匂いでしかないが、気にはなる。それ以上に読みはじめて、ここも書き写すのか、ここもかと思うと、読むのも遅くなってくる。どうしたものかと考えた末、本には申し訳ないが、ばらすことにした。
ご存知の方もいらっしゃるだろうが、本をばらしてPDFファイルにしてデータをメールで送ってくれるサービスがある。ファイルは個人で使用するもので、他人に渡したりWebに掲載するのはご法度。家庭用のプリンタにも、コピーを取る要領で画像データ化する機能がついているが、十ページや二十ページならいざしらず、百ページにもなるとフィーダがなければ手間をくってしょうがない。ならば、その作業専門のサービス業ということで始まったビジネスだろう。特にソフトウェア関係の本には五百ぺージなんて大著もざらにある。とてもじゃないが持ち歩ける代物じゃない。そんな本を読む人のほとんどがソフトウェアエンジニアで、多くはいつもノートPCを抱えている。電子ファイルならメモリーは食っても物理的にがさばることもない。クラウドに置いてしまえば、メモリを気にすることもないし、出先でスマホやタブレットでも読める。狭いマンションで置き場にこまるようなことから解放されて、引っ越しで処分することなくなる。カビの匂いで喉をやられてなんてこともなくなる。
本をばらしてPDFファイルにするサービスを提供するスキャンピーという会社がある。ホームページでオプションを確認して注文した。PDF化にざっと八〇円、OCRオプションが八十円程。両方合わせても二百円もしない。スキャンピーは下記urlからどうぞ。
箱代もいれて本の郵送に四百円もかかった。郵送料が一番高い。なぜOCRオプション?と思う人もいるだろう。OCR化されていれば、いつものワードファイルと同じ要領でコピペできる。これがなければ、PDFファイルをみながら書き写しという泥臭い、疲れる作業をしなければならない。
横着せずに手打ちで書き写せば、いいじゃないかという人もいると思う。短いものならそれで構わないが、量が多くなるとそうもいってられない。『ユーラシア諸民族群島』から手打ちで書き写した一部を下記にコピーしておく。これと似たようなものが十や二十じゃきかない。時間がもったいないし、腱鞘炎の悪化も気になる。
P84
十三世紀の初頭、ジンギス汗の第三子ウゲディ(太宗)の時代、黄金氏族による世界制覇の事業ははじめられ、ジンギス汗の孫バツウ(抜都)がロシアに到達したのは一二三六年です。モンゴルの軍隊はキエフを陥れ、モスクワを攻略して、キプチャク汗国を樹立します。
モンゴルの軍隊はヴォルガ河を渡ってから向かうところ敵はなく、それまでロシアの地に分立して互いにせめぎ合うスラブの諸侯公を蹴散らして、支配を確立してから、ロシアの運命は西方ヨーロッパの運命と逆の方向に進化しはじめます。西方ヨーロッパがルネサンスの開花を準備するとき、モンゴルの支配はロシアの文化と社会の相貌を孤独と暗鬱の方向へ転換させました。
……
キプチャク汗国のなかにあまたいるロシア君侯のなかから、やがて、モスクワ大公の称号を許されたイワン一世(一三〇四-一三五〇)がモスクワ王朝の創始者として登場します。世界の歴史をながめると、おおくの独立国家と王朝の創始者は外敵の覇権や侵入に対してあえて反抗し、これを退けることによってその正統性をかちとるとういうのが通例ですが、ロシアの場合は違います。モスクワ大公はモンゴルの君主に対して起ちあがる変逆者として登場したのではなくて、君主の意を体して、君主にもっともよく隷従する「太守」としてその権威を高めたのです。
最初の大公はしばしばイワン・カリターの異名で呼ばれるが、カリターとは中世のころ、腰に下げた銭袋をさしています。モンゴル君主に代わって領民から貢納をとりたてる徴税人をつとめ、君主に二心ある有力な競争者のスラブ諸侯を討ち従え、周辺の諸公国に対して威令を布いて、モンゴル帝国の安泰をはかりました。
マルクスは「ロシアの最初の王朝の創始者が模範的は奴隷であったことはロシアの運命をも定めた」と書いています。「カリターの政治を一言でいえば、簒奪者となった奴隷のマキャベリズムであった」として、「モスクワ大公国の君主たちはそれ〔モンゴルータタールの軛〕から解放されたあとも、奴隷の固有の一部分をとどめて支配者としてふるまいつづけた」と、書きます。
ロシアはまずモンゴルの軍事力によって、つづいてはモンゴルの国家イデオロギーによって二重に制服されたといえます。
ヴェルナドスキー教授の『ロシア史』(一九四四年)は、モンゴル支配がロシアにのこした永続的な遺産をつぎのように要約します。
モンゴル国家の支配とは、個人のグループに寄せる全面的な服従、まず部族への服従、ついで部族をつうじて国家への服従の原理の上になりたっていた。時代の経過するにつれて、この原理はロシア人のなかにも深く刻印されるようになっていった。このようにして、万人が「身分の」差別なく、国家に全面的に献身するというシステムはつくられていった。モンゴル人の思想の影響をうけて。ロシア国家は〔臣民の〕全面的な奉仕と服従を基礎として成長した。社会のあらゆる階級の成員が一員洩らさず国家機構の一部をなすのである。とどのつまり、これらの思想は特殊な形態の国家的社会主義をロシアのなかにつくりだしたとしてよいであろう。
政治の理論はその後、モスクワ大公国において、ロマノフ朝のロシア帝国においても、もっと完備した内容になっていくのだが、国家に対して〔民草が挙げて〕奉献するという思想の根柢は、タタール支配の時代にロシア人にうえつけられたものです。
イワン三世(大帝)(一四四〇-一五〇五)の君臨するモスクワ大公国は、一四八〇年、モンゴル支配から解放と独立を宣言します。しかし、あたらしく生まれたロシアは、モンゴル帝国の以前、キエフに誕生した最初のロシア(ルーシ)国家とは似ても似つかぬ相貌の国家となってしまいました。
東方キリスト教を導入してビザンツの文化に近く、西方ヨーロッパの諸王国におけるよりも水準の高い人文主義を誇ったキエフ朝とは異なって、十五世紀のモスクワに出現したのは、頂上部から底辺にいたるまで、もとより奴隷も含めて、国家の成員のことごとくが大公国の君主へよせる無条件の奉公と献身を義務づけられた超集権社会でした。イワン三世は全ロシアの皇帝となり、モスクワは第三のローマとなります。大公に反対することは大公を裏切るのみならず、神とロシアを裏切ることです。イワン三世はビザンツの最後の皇帝の姪ソフィアと再婚することによって皇帝専制のビザンツ思想をも導入しますが、それはモンゴル帝国のイデオロギーの土壌にうまくかなった接ぎ木のようです。モンゴル君主のもたらした政治の思想と体系はモスクワ大公国に継承され、さらに磨き上げられました。
専制と奴隷とは、ロシア人がその民族的結合と生存をはかるために支払わなければならなかった歴史的代価でさえありました。
専制と奴隷は雷帝イワン四世(一五三〇―一五四八)の治世をつうじて制度化されました。軍国主義日本におけると同様に、「蒼生(天皇)の赤子であり、四海洽(あまねく)皇土ならざるはなし」のイデオロギーは完成しました。
p.s.
<電子書籍図書館>
図書館も古い本の扱いには苦労されていると思う。古い本になると、紙が酸化してパリパリした感じになって、丁寧にページをめくっていてもポロっと欠けるんじゃないかと怖くなることがある。蔵書は増える一方だろうし、そろそろ電子ファイルにして貸し出しするようにすればいいのにと思っている。まあ出版業界の都合もあるだろうし、そう簡単にはいかないだろうけど、そろそろ将来の図書館のありようを考えるときだろう。アメリカではいくつも大学の図書館も電子化が進んでいるし、電子書籍専門の図書館もある。おかげで世界中どこからでも借り出せるようになった。よくしられている一つにOpen Libraryがある。GoogleでOpen Libraryと入力して検索すれば出てくる。日本語で紹介している人までいる。
2022/12/6
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12798:230208〕