スタディルーム 2017年12月17日「 呪術 としてのマルクス主義? ー 甘田幸弘氏が問いかけたこと」〈 杉野実〉 への回答を試みてみたい。 まず、紹介された拙サイト「 マルクス主義は現代の呪詛宗教である」を説明させてもらうと、 約3年間運営してきたがプロバイダーがホームページサービスを終了したために閉鎖を余儀なくされた。 他のホームページサービスに移転する予定はなかったのであるが、 今回、 紹介され評論されたのを機にブログ上に論文をアップすることにした 。 紹介された論文の前半部分はほぼアップしたが 、後半の歴史分析に関してはこれから徐々にアップしていく予定である。
この論文の前半は「資本論批判」を中心とした 理論部であり、後半はロシア革命、ソ連体制形成に関する歴史分析である。ブログの中では「マルクス主義の解剖学」が理論部と歴史分析の一部に「スターリン主義の形成」が歴史分析と全体主義論に当てられている。杉野氏の評価は理論部は概ね肯定的に、歴史分析と全体主義論には批判的、否定的である。理論部の概要はブログの論文を読んでいただくとして、ここでは批判された歴史分析と全体主義論を中心に反論を試みてみたい。ただし、理論部にも呪術的な説明 に対して、多少の疑問符が付けられているので最初にそれに言及してみたい。
思考と論理の齟齬について
〉「資本家の能力が労働者に移転されるとする呪術的な説明」と甘田は説明しているが、「社会状況をかえれば人々の心理状態をかえることができる」という考えこそ「物から心へむかう『裏返しの呪術』」だと筆者は考える。
この辺りの問題についてであるが 、私は 能力転移を呪術として説明しているが 、これはある論理的な捉え方である 。そして、力点はむしろ能力の増幅にあると考えている。これらを総合して「呪詛の論理 」「呪詛宗教」としてとらえているのだが、これはやや過剰な表現であることは承知している 。これはよくマルクス主義が救済宗教との類似として論じられていることへの差別化を図る意味もある 。これらはマルクスが呪詛宗教なるものを意識的に生み出そうとしたという意味ではない 。もちろん、マルクスは主観的には科学を考えていると思っていたはずである。
イデオロギー性に関して、杉野氏の方がマルクスの思考過程を描写する上ではより的確であろう。 杉野氏の捉え方がイデオロギー一般論に近く、私の捉え方は個別的、特異的なマルクス主義のイデオロギー構造を示しているのである。両者はどちらが正しいのか、という問題ではなく一つの層を成しており 、一体化しているのである。マルクス主義においては実際の思考と(本論における)論理の隔たりがあまりにも大きいので絶えずこのような問題が生じてくる。
一つの事例を挙げてみると、「共産主義者、マルクス主義者は身体労働と頭脳労働の完全な兼任ができると考えている 」と、このように言った場合、共産主義者が実際に意識的に完全な兼任を考えているという意味ではない。「完全な兼任はできるはずだ!」と、意識的に考えている共産主義者はおそらく一人もいないだろう。これはある客観的、論理的視点から見た表現なのである。 このように実際の思考と論理との齟齬が絶えず生じてくる。このことに留意しないと混乱が生じてくるのである。
社会主義経済計算論争とロシア革命
杉野氏からの社会主義経済計算論争に関わる問題が触れられていない、という指摘に対して答えてみたい。 まず、私の関心は全く逆のところにあった。それは、「なぜ、これほどまでに大半の共産主義者は社会主義経済計算の問題を無視することができるのか」ということである。 また、社会主義経済計算論争そのものに関してはほとんど結論のでていることであるし、 私にその具体的細部を論じる力はないということもある。 やはり本質的には 能力問題、 情報伝達、情報処理、意思決定の効率の問題だということになるだろう。 ハイエクは能力問題を強調することはなかったが「 中央当局は計画経済に必要な情報を全て知ることができない 」ということに表れている。
社会主義経済計算論争の歴史についても私はよく知っているわけではないので確かなことは言えないが 、ロシア革命との関係ではある程度理解しているつもりである 。最も重要なことは次のことであろう。ボリシェヴィキは社会主義経済計算論争の対象となった計画経済を目的として革命を起こしたわけではない、ということである。 ボリシェヴィキの革命の目的は 、言うまでもなく唯物史観におけるプロレタリアート独裁から共産主義社会に向かうためのものである。本論における完全な兼任を実現することなのである。
プロレタリアート独裁は経済の分野では当然、労働者自主管理となる。その結果どうなったか ー経済は壊滅的機能不全状態となり、ボリシェヴィキはその状態に対応を迫られることになった。労働者が好き勝手に部品を製造しても全体を統制する頭脳労働がなければ、それは何もしていないよりも悪い状態になる。もちろん、その時はボリシェヴィキも労働者も身体労働と頭脳労働の完全な兼任が必要などとは全く考えていなかったのである。その完全な兼任の不可能性を証明したのが本論である。このままではボリシェヴィキもロシア社会も破滅してしまう。そこで急遽、官僚やブルジョワ専門家が再登用され、上意下達式の厳しい指令経済が始まった。それが社会主義経済計算論争の対象となる計画的指令的経済が構築されていく端緒なのである。それが始まったのは革命からわずか5ヶ月後のことである。すなわち、本来のプロレタリアート独裁から共産主義社会に向かう試みがなされたのは、革命後わずか5ヶ月間に過ぎない。そして、それは二度と試されることはなかったのである。
一度、計画経済が構築されてしまえば、プロレタリアート独裁など入り込む余地は全くなくなる。だから、トロツキーは計画経済の構築を始めた当事者でありながら、プロレタリアート独裁に未練を持ち続け、スターリンに追われた後、「労働者による第2革命」などと言い出したのである。すなわち、ソ連の計画経済とは最初からの目的ではなく、唯物史観の文字通りの実践が失敗に終わり、緊急避難した状態だということである。
唯物史観の社会主義と計画経済の社会主義
ここでどうしても社会主義という用語の定義の曖昧さを問題にしなくてはならない。これは非常に多義的であり、様々な使われ方をしている。そして定義が曖昧なまま使われ続け、混乱をきたしているように思えるのである。ここで問題にしたいのは、唯物史観における社会主義と計画経済における社会主義という用語の使われ方である。唯物史観においては共産主義革命が起こり、プロレタリアートが 独裁する過渡期があり、それから無階級社会である共産主義社会へ至るということになっている。ところがマルクスは共産主義社会の前段階として社会主義の段階がある、とも言っている。これがまた曖昧であり抽象的である。プロレタリアート独裁とこの社会主義社会との関係もどうなっているのかよくわからない。しかし、共産主義社会の前段階ということは無階級社会への志向を持っていることは明らかである。一方、計画経済においても社会主義という言葉が使われているが、こちらは中央当局による計画的指令的経済であり賃金の平等や完全雇用を重視しているだろう。しかし、唯物史観の社会主義とは決定的に異なる点がある。計画経済はそれ自体において、無階級社会への志向性を持ってはいない。むしろ中央当局の統制による、ということは階級制は固定化、強化されさえするだろう。つまり、唯物史観の社会主義と計画経済の社会主義は別物とみなした方がよい。
ところが、多くの犠牲を伴い達成された革命が実は失敗して緊急避難した経済が計画経済だ、ということをボリシェヴィキは決して認めることができない。そのようなことを認めれば自らが破滅してしまうだろう。「共産主義社会への試みは失敗しました。今の計画経済は緊急避難したものです」などとボリシェヴィキが言うはずはないのである。そして、好都合なことに唯物史観の共産主義社会の前段階として社会主義社会があり、計画経済も社会主義とみなされている。そこで唯物史観の社会主義を計画経済の社会主義にすり替えたのである。そしてこれが共産主義社会に向かう前段階の社会であると宣伝したのであり、世界はそれを真に受けてきたのである。
だから、ソ連の社会主義計画経済を唯物史観からの逸脱とみなす論調は至る所に現れてくる。ソ連= 国家資本主義論などもその一つである。大半の共産主義者が社会主義経済計算の問題に無関心になれるのもこれが理由である。つまり、自分達は失敗しない、自分たちがやれば完全な兼任を達成できる、共産主義社会への道を歩むことができると考えているのである。
計画経済は全体主義に導くか?
この辺りの杉野氏の理解はやや正確さに欠けており、唯物史観の社会主義と計画経済の社会主義との混同が見られる。私の論文で計画経済が全体主義に導いたと解釈しているが、私は計画経済が全体主義に導くとは言っていない。そう言ったのはハイエクであり、むしろ私はそれに疑問を呈しているのである。論文中ではわずかしか触れなかった問題であるので詳しく論じてみたい。
歴史上、全体主義体制下においてしか計画経済は長期にわたって存続することはなかった。それは一体化しているように見えるのだが、 計画経済はあくまで経済体制、すなわち土台であり、上部構造とは分けて考えなければならないだろう。上部構造と計画経済の関係はあまり考察されてこなかったように思われる。唯物史観の革命を実行に移したような上部構造と別の上部構造を考えることは、十分可能である。
例えば、現代ではAIが長足の進歩を遂げている。このAIを活用した計画経済が考えられたとしよう。この計画経済を社会構成員の大多数の合意を得て実行に移す、というような場合である。そして、その計画経済を継続するのはある段階で投票によって決定する。すなわち、このような民主的手続きを踏んだ計画経済なら全体主義に至ることはないと考えられる。もちろん、このような民主主義的計画経済は歴史上存在しないし、これからも実現する可能性は低いと思われるが、想定することは十分可能なのである。
ハイエクは計画経済は経済のみならず文化的側面や個人の内面まで統制しようとする、それが全体主義を産み出すのであると言ったが、これは卵が先か鶏が先か的な議論になってしまう。ロシア革命の推移は明らかに計画経済が形成される以前にボリシェヴィキ独裁権力が確立されていたのであり、唯物史観の社会主義は計画経済の社会主義にすり替えられることにより、全体主義に向かったというのが私の考えである。完全な兼任の不可能性から労働者自主管理は必ず破綻し、革命の目的を最小限達成させるために、すなわち「資本主義を否定する」「高度産業社会を成立させる」この条件を満たすのは計画的指令的経済以外にはないと思われる。私の結論としては唯物史観が全体主義に導くのであり、計画経済それ自体が全体主義に導くとは言えない、ということである。
アポトーシス全体主義論批判への反論
ここから杉野氏の批判への本格的な反論を始めてみたい。「イデオロギー超有機体と社会主義論」以降に様々な批判が述べられているが、論点が複雑なので各論と総論に分けて反論していくことにする 。
まず、歴史分析に関してアポトーシスの用語が出てくることが唐突であり、違和感が拭えないということであるが、歴史分析に関していきなりアポトーシス全体主義論に言及しているのは、私からすれば唐突である。歴史分析は論文全体の6割くらいは占める。アポトーシス全体主義論はその一番最後にくるものである。そこに行くまでは ロシア革命前後の分析から多くの段階を経てたどり着いている。杉野氏の批判はその中間の段階を飛ばしてしまっている。人間の粛清を性急に非難している、というのだが、私からすれば性急な非難とは程遠い論理的な積み重ねをしてきたつもりである。さらに、これらは非難をしているのではなく単に事実を述べているだけである。これは杉野氏の主観的な印象が強く出ているのではないだろうか。
ところで、アポトーシスも、超有機体も、すこぶる左翼的な概念、用語である。超有機体というのは実存主義哲学者で、共産主義者でもあったサルトルが使っていたようである。(もちろん私とは意味が違うと思うが)アポトーシスは私が使うかなり前に、マルクス主義思想家であるいいだももがその著作の中で使っていた。それは唯物史観に即した、国家権力の社会による再吸収というような意味で使われていたのである。この場合、国家権力がアポトーシスされるものになるわけである。おそらく、杉野氏はこのような使われ方なら問題ないが、全体主義の犠牲になって個人が抹殺されることの意味でアポトーシスなる用語が用いられることには違和感が拭えない、ということになるのだろう。
唯物史観の目指す共産主義社会がすなわちグローバルブレインである。しかし、完全な兼任が達成できなければイデオロギー超有機体に反転する。すなわち、イデオロギー超有機体そのものが負の存在なのである。このアポトーシスは超有機体にとってのアポトーシスなのであり、そのアポトーシスが負のアポトーシスになるのは当然のことなのである。前半の理論部で杉野氏は完全な兼任は不可能であることを認めている。それならば、この論理的関係をどう考えるのか、ということが問題になってくるだろう。違和感が拭えないというのは主観的印象でしかなく、論理的にどこが問題なのかということでなければ批判にならないと思う。
〉「イデオロギー遂行の主体」が、「自分の意志とは無関係に」そういう動きにしたがわされるといった、まさにマルクス的「疎外」に準ずる論理展開がなされているところには、疑問をいだかざるをえない。
まさにマルクス的「疎外」に準ずる論理展開がなされているところ、というのはまさにその通りなのである。この論文はマルクスに批判的な論調で貫かれているように見えるが、マルクスの業績に多くを負っている。そのひとつが資本主義の「疎外」を生み出すメカニズムの解明であり、それと同じ手法で現存した社会主義体制の「疎外」を解明するのである。ただし、ハイエクがしたような計画経済からの説明はその構成要素の一つではあるが 、経済よりも主に政治イデオロギーからの解明を目指している。資本主義の運動法則とはまた違った意味での共産主義の運動法則が生じる。そのことによる権力の中心化作用のメカニズムの解明なのである。
しかし、そのことに疑問を抱くというのはどのような意味においてなのだろうか。マルクスの資本主義の疎外の解明がそもそも疑問だということなのだろうか?それともそれが資本主義に適用されるのは正当であるが、 社会主義、共産主義に適用されるのは問題だということなのだろうか?もし、後者であるならばイデオロギー的に偏向していることになるだろう。
アポトーシス全体主義論のイデオロギー超有機体論は、社会主義計画経済の非合理性、行き詰まりを説明するためのものではない。前にも述べたように、計画経済それ自体は全体主義に導くとは言い切れない。また、計画経済の非合理性に関して、ハイエクらがしてきた仕事に付け加えるものがそれほどあるとは思えない。イデオロギー超有機体論は唯物史観の極限的遂行がどのような状況に行き着くのか、ということを説明した高度に抽象的な理論なのである。究極的疎外の克服が究極の疎外を生み出す、という逆説のメカニズムの解明なのである。私としては難解なアポトーシス全体主義論よりも、まずはロシア革命初期の歴史分析に論文の理論を活用してもらえたらと考えている。
杉野批判の根本的疑問点
杉野氏の批判の最も根本的な疑問点について述べてみたい。本論の構成は前半が理論部であり、後半が歴史分析である。もちろん、両方が独立したものではなく、前半の理論に基づいて後半の歴史分析がなされている。これは完全に一体化したものである。前半の理論が独自なものであれば当然、歴史分析も独自なものになるだろう。杉野氏は前半の理論を独自性を持ったものとして肯定的に評価している。ところが、歴史分析に関してはそのことに全く言及していない。前半の議論がまるで存在しなかったかのように振る舞っている。これは非常に不可解である。
歴史分析の中心を社会主義経済計算論争に持って行こうとしているが、本論の論点の中心はそこにあるわけではない。もちろん、関係はしているが中心的な課題ではないのである。また、通俗右翼云々というのはイデオロギー的言明であり、論理的な批判には全くなっていない。
この論文は一つの長い鎖のようになっている。Aから必然的にBが導き出され、Bから必然的にCが導き出され、Cから必然的にDが導き出される、というように。そして最後にZに至る。もちろん、このように単線的で単純なものではないのだが・・・Aに相当するものが資本論における頭脳労働形態価値捨象であり、 Zに相当するものがアポトーシス全体主義論である。しかし、 AからZが導き出されるといえば、まるでわけのわからない戯言のように見えるだろう。杉野氏はAを認めている。そして、 Zを否定しようとすれば、この論理の鎖のどこが繋がっていないか、ということを具体的に示さなければならないのである。社会主義経済計算論争が取り上げられていないという指摘は、本来あるべき鎖が存在しない、という意味に受け取れるのでそれなりに答えることができるが、イデオロギー的な言明には答えようがないのである。
さらに言うと、この論文は生物学的事実に基づいているために、 基本的な論理は 左翼、右翼といった思想的、イデオロギー的立場の影響を受けない。もし、偏向しているならば論駁できるようになっているのである。
ソ連史のリアリティー
〉社会主義「建設」が成功しないのは「敵」のせいだとされたという古典的説明とは別に、「イデオロギー超有機体」の形成がめざされたとことさらにいうことに、はたしてどれほどの意味があるのか。
以上の文から見えてくるのは、歴史分析の領域では杉野氏と私とでは問題意識が大きく違うということである。杉野氏は社会主義経済計算の問題に関心があり、私はそれよりも全体主義形成の要因に関心がある。問題意識のある程度の共有がないと議論するのは難しいかもしれない。
アーレントが言うように、全体主義はそれまでの専制政治とは根本的に異なる。体制に従わないものは抹殺されるが 、全体主義では従うものも抹殺されたのである。その敵が敵ではなく本当の味方であり、その味方が敵の役割を演じさせられ粛清されていったのである。さらに驚くべきはロシアの伝統では暴君に対する暗殺は常に起こっていたのに、スターリンには暗殺未遂はおろか暗殺計画すら一件も見いだされない、という事実なのである。見世物裁判での暗殺計画疑惑などは、全て捏造であることは今では明らかである。
「ソ連極秘資料集 大粛清への道」という大部の資料集がある。この本の紹介文には「 20世紀最大の謎を解く衝撃の資料集」とある。古典的説明で満足がいくようなら、20世紀最大の謎などとは言われないだろう。
〉甘田はそのあと、「非現実的な想定から出発した社会主義が、現実に機能するようになるために無理をする」との理路から「イデオロギー超有機体」論をとなえたが、それは彼らしからぬ「通俗右翼」的議論にもつながるものになった。
繰り返しになるが、まずこの社会主義の定義が曖昧である。唯物史観の社会主義と計画経済の社会主義とは根本的に異なる。さらに「 無理をするとの理路」だが、このような議論でいつも感じるのはソ連の革命の現実に対する無関心さなのである。レーニンとボリシェヴィキは、失敗したら自分たちは破滅するという覚悟のもと独裁権力を獲得し、いかなる強制力も厭わず革命を推進してきたのである 。この事態の深刻さは単に計画経済の問題だけではない。計画経済が多少改善されれば、事態が好転するというものでもない。「通俗右翼」的議論と言うが、スターリン体制形成に関して杉野氏自身はどのように考えているのかまるでわからない。どうも、リアルなソ連史を語ること自体が「通俗右翼」的議論だと言っているような気がするのだが。
〉しかし残念なことには、自身がまた「共産主義にくし」の感情にとらわれた甘田は、社会主義が悲惨な全体主義をうみだすという結論をみちびくために、「各人の思考内容が厳格にコントロールされる」という、いかにもマルクス的な仮定を採用してしまった。
私が単に感情的に論理を推し進め、最初に結論ありきでマルクス的な仮定を採用したということだが、これも実に不可解なことだ。前半の理論を杉野氏は独自性を持ったものとしてかなり評価している。その理論に基づいて歴史分析を推し進めた結果、マルクスが分析したようなイデオロギーによる拘束があることを発見したのである。これは決して、最初に結論ありきで考えたことではない。また、イデオロギーの拘束がある、という捉え方が否定の論拠になるわけでもない。むしろ、杉野氏の方が最初に否定ありきで考えているのではないだろうか 。問題なのはあくまで内容であり、そこに踏み込んだ批判がなされていないのは残念である。
〉「疎外の解消を原理的に優先する経済システムは、非効率性を原理的にかかえこまざるをえない」(吉原2006)という認識が彼にはない。
この文の意味はいまひとつわからないのだが、「疎外」一般の解消の方策が何も講じられていない、ということなのだろうか。もし、そうだとすればそれはこの論文の目的ではない。それはまた別に考えていかなければならないことである。その意味でもこれに直接答えているわけではないが、私なりの経済に関する理論を後で示してみたい。杉野氏の批判に対する様々な反論を試みてきたが、杉野氏の理論部の理解は正確であり、私の論文をこのように評価し紹介してくださったことは、私にとって大きな前進である。杉野氏には感謝している次第である。
情報経済成長論
今回の論文を書く過程で派生的に発見したことがある。それに基づいて私なりの 経済成長論を論じてみたい。もしかしたらこれが1番重大な問題かもしれない。それは一言で言うと次のことである。
経済成長は無限に可能である。
もちろん、これは理論上は、という意味であるが。主に経済成長と資源エネルギー問題、環境問題との関係で考察していきたい。デフレーションによる経済成長率0パーセントは、社会の衰滅を意味することが明らかになってきた。さらに、マイナスの経済成長率は社会の破滅を意味するだろう。これは環境にも深刻な事態をもたらすことは明らかである。一例を挙げれば、原発の放射性廃棄物の管理をしていくためには高いコストがかかる。経済成長がマイナスになればその管理すら難しくなるだろう。経済水準が低くなれば、以前の社会の状態に戻るわけではない。一度、生成された放射性廃棄物は決してなくならないのである。それ以外にも 膨大な量の化学物質が生成されてある。これらが環境中に放出されれば深刻な事態になる。これらを管理するためには、その情報は絶対に失われてはならないのであり、それ相当のコストがかかるだろう。もはや後戻りは効かないのである。もちろん、資本主義社会とは別のかつての社会主義社会を考えることもできない。現存した社会主義体制では資本主義国よりも深刻な公害問題、環境破壊が起こったことはよく知られている。
ところが経済成長が続くとどうなるか。 このことには非常にネガティブなイメージがつきまとっているように思われる。つまり、経済成長するとは資源、エネルギーの消費量が絶え間なく増大することを意味する。ところが、地球環境は有限であり資源も有限である。さらに資源、エネルギー消費は地球環境のエントロピーを増大させる。つまり、公害問題や環境破壊をもたらすのである。経済成長の行き着く先は、地球規模の破局である。このような意識的、無意識的な認識が広く行き渡ってるように見える。これは深刻な袋小路である。我々は非常に危険な迷いの中にいる、と言えるのではないだろうか。現実にはどれかの立場に立たなければならない。世界の趨勢は経済成長維持であることは間違いないが、どの陣営も敵対する陣営からの批判、攻撃を免れることはできない。
資本論批判を考察する過程で、この袋小路から脱出する道筋を発見したと考えているので、そのことを詳しく論じていきたい。 経済成長は無限に可能である。このように聞いた瞬間、反射的に何を馬鹿なことを言っているのか、と感じるのではないだろうか。そうだとすれば、それこそがマルクスの呪縛であることを示してみたい。マルクス経済学の中で使用価値は商品身体を持ったモノである。すなわち、それは必ず物質形態を持ったものになるわけである。それは必ず資源、エネルギーを消費するものとなる。それが資本主義の運動法則の中で拡大再生産されていく。エントロピーを抑制するには余計なコストがかかるので、利潤を最大化したい資本家は抑制する方向には動かない。かくして、資源、エネルギーは浪費され環境破壊の方向に進んでしまう。資本主義初期の無制約な段階では、このようなことが深刻な事態をもたらしていたのである。もちろん、労働者の状態も悲惨なものであった。それ以後、様々な改善の動きがあったが、根本的な問題が解決されたとは言い難い。すなわち、このようなことが資本主義の経済成長だ、という認識である。
「マルクス主義の解剖学 第1章 資本論批判」の中で論じたことは、使用価値は商品身体を持ったモノだけでなく、間接使用価値としての情報も存在する、ということである。さらに分類が難しいが、両方の要素を持ったサービス労働も含まれるだろう。ここで重要なのは、間接使用価値としての情報を完全に分離、独立し定位することである。そして情報は次のことが言える。
資源は有限だが、情報は無限である。
そして、交換価値の一方である貨幣価値もある特殊な情報であり、これも無限に増大させることができる。情報と情報が交換される限り、資源、エネルギー消費は極めてわずかですみ、それは無限に増大させていくことができると考えてよいのである。身近な例で言えば、一万円札が10万円札になり、100万円札になり、1億円札になっても0を加えて印刷すればよいだけである。間接使用価値としての情報も、最近のITの飛躍的な進歩によって極めて大量、かつ迅速に伝達処理できるようになっている。
もちろん、今まで通りの商品身体を持った使用価値がなくなることはありえないが、間接使用価値との比率は絶えず小さくなってきている。これは身体労働よりも頭脳労働の比率が大きくなってきていることを意味している。つまり、使用価値を商品身体を持ったモノに限定すると、経済成長において資源、エネルギー消費は不可避的に増大していく、ということしか出てこない。しかし、間接使用価値の情報による経済成長は十分に可能なのである。現実には使用価値であるモノと間接使用価値である情報の相関関係は非常に複雑なものであり、見えにくいものであるが、このように理論的に分離することにより明確に理解できるようになるのである。
そして、重要なことは間接使用価値である情報の価値ベクトルを資源、エネルギー問題、環境問題を改善する方向に持っていくことである。省資源、省エネルギー、リサイクル性、耐久性、安全性、環境負荷の少ない方向へ、というように。そのための情報、技術、様々なシステムを構築していくことである。(その代表的な例がLEDなどである)そのことにより資源エネルギーの生産がマイナスになっても、それを上回る間接使用価値がもたらされれば良いのである。そうすれば全体の経済成長は維持される。かなり理想論のようだが、これらはすでに一部は現実になっていると思われる。また当然、福祉、医療、介護、その他様々なサービス労働も重視されなければならないだろう。このように間接使用価値である情報の価値ベクトルが、どのような方向に向かうかが非常に重要である。それがうまくいけば、 経済成長をすればするほど資源、エネルギー消費は減少していき、地球環境をより良い方向に維持できるだろう。これから世界は資源、エネルギー消費は減少の方向に向かい、それでいながら経済成長をし続けることになる、と予測できる。そして、これらのことは一部の専門家だけの問題ではなく、広く一般に認識されることが重要である。
〉「疎外の解消を原理的に優先する経済システムは、非効率性を原理的にかかえこまざるをえない」
疎外はどうでもよいから効率性のみを優先させる経済システムというのはもちろん論外だが、疎外の解消を原理的に優先する経済システムというのも、もう一方の極端なような気がする。効率は経済にとっての生命線である。あまり非効率だと経済として成り立たない恐れがある。これまでの情報経済成長論で示されたような経済システム、社会というのは、疎外の解消を原理的に優先するとまでは言えないが、それを目指す者にとってより自由度の高い経済活動をもたらすだろう。そして、何よりもそれによって効率を犠牲にしないということである。もちろん、非営利組織やボランティアも重要なことではあるが、プロも必要なことは明らかなのである。その両者のバランス、多様性を持つことが重要ではないだろうか。疎外の解消そのものが間接使用価値となり、経済成長の中に組み込まれるということである。以上のように情報を間接使用価値とすることにより、コペルニクス的転回が可能になる。これがマルクス経済学の範疇に入るかどうかは分からないが、マルクスの業績の延長線上にあることは間違いないのである。
参照文献
杉野実 (2017) 「呪術としてのマルクス主義?―甘田幸弘氏が問いかけたこと」
https://chikyuza.net/archives/79276
甘田幸弘 (2014) 「マルクス主義は現代の呪詛宗教である」
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study962:180416〕