本書は、教育者で文学研究者である東栄蔵(ひがし えいぞう)の最新著(2012年5月発行)であり、信州の教育や文化・文学に関わる30編の評論・随筆・講演録などが収録されている。全体は3部構成となっており、第1部は高校生への指導や講演、長野県国語国文学会での講演や紀要論文など8編から、第2部は著者が直接・間接に邂逅した9人の文化人に関する追想記から成り、第3部は信州の文学に関わる13編の文章から構成されており、2007年の著書『信州の近代文学を探る』のいわば続編となっている。以下に目次を掲げる。
Ⅰ
ほんとうの優しさとは何か
学園断想
高校生へ――精神の糧を培うために
長野ろう学校校歌をめぐって
教材としての新聞
女子高校生は戦争文学をどう読んだか
信州のある国語教師のつぶやき
ケリー旋風――占領下の信州教育
Ⅱ
『太郎山より愛をこめて』を編んで
『この道を往く――漂泊の教師赤羽王郎』を読む
美馬敏男との邂逅
息づかいがきこえる昭和史の証言
『忘れられた学校』と清野房太
百瀬慎太郎の短歌
坂口安吾と松代大本営
清水栄一――信州のメセナの先駆
木村熊二をめぐって
Ⅲ
一茶俳句の英訳をめぐって
相馬黒光著『黙移』を読む
水上 勉『有明物語』を読む
信州に疎開した林芙美子
愛と平和の詩人 大島博光
戦時下の信州の文学
文学に描かれたアジア太平洋戦争と信州
井出孫六『一九四五、ぼくは中学生だった』
加藤周一『ある晴れた日に』
久保田正文『冬のランプ』『少女』
吉行淳之介『湖への旅』
石川達三『暗い歎きの谷』
林 郁『満州・その幻の国ゆえに』
和田 登『悲しみの砦』
このような広範多岐にわたる内容を持つ本書を満遍なく紹介することは到底不可能なので、本稿では、評者が特に興味を惹かれた数編を中心に紹介したい。最初に、「信州のある国語教師のつぶやき」に依りながら、著者の略歴を紹介する。
東栄蔵は敗戦間もない1947年2月、反骨のジャーナリスト桐生悠々が主筆を務めた伝統に心惹かれて信濃毎日新聞社に入社、社会部や県政記者を経て文化部記者となり、作家や文化人の講演会などにしばしば同行取材した。1953年には坂口安吾・壇一雄を松代大本営地下壕に案内し、「これは太平洋戦争の巨大な負のモニュメントだ!」という安吾の感慨を引き出している。10年間の記者生活を送った後、自分が本当にやりたいことは教師の道だと考え、1957年に信濃毎日新聞社を退社し、高校の国語教員に転身する。定時制の分校を皮切りに、各地の高校で国語と同和教育を担当し、県教委の指導主事や高校長なども歴任した後、1982年には定年まで2年を残して高校長を退職し、その後は長野女子短期大学をはじめとする多くの大学で教鞭を執る一方、長野市民教養講座の運営委員会代表兼講師、長野県カルチャーセンター、松本中日文化センター等で講師として生涯教育にも携わり、一切の教職を退いた今日もなお信州の近代文学や人権教育の研究を続けている。
東が高校の国語教師として実際に行った教育実践の一端は、「女子高校生は戦争文学をどう読んだか」を読めば明らかになる。これは、1972年度からの3年間、小諸高校3年生の現代国語の担当教師として行った戦争文学教育に関する授業実践の記録である。教科書に収録されていた吉田満の「戦艦大和の最期」の学習を終えたあと、さらに著者が作成した戦争文学作品リストのなかから、生徒各自が読みたい作品を自由に1~2点選ばせ、感想文を提出させたうえで、それを元に討論を行うという方法が採られている。学習が進むにつれて、生徒一人ひとりが、戦争の持つ悲惨さに衝撃を受けつつも、その意味や原因を自らの頭で考え、それを自らの問題として捉え返していく様子が描かれている。「戦艦大和の最期」を読んだ生徒のなかには、天皇のために死ぬことが立派だという価値を信じこまされて死んでいった将兵に罪はなく、彼らは犠牲者であるとしながらも、「その死を賛美することは戦争の美化につながっていく」と批判した者もいた。また、大岡昇平の「野火」を読んだ生徒の一人は、「戦争の犠牲者である無名の兵士たちが、また比島人に対しては加害者でもあるという戦争のもつ複雑な意味が実感された。もう一度読んでもっとよく考えてみたいし、またもっといろいろな戦争文学もよんで戦争体験を継承することの意味を私なりに考えてみたい」と記している。ここに登場する高校生たちの生の声は、たとえ事実がどれほど悲惨で残酷なものであろうとも戦争の真実の姿を知りたいという希求に溢れている。ここには、本物の教育とはどういうものかが具体的に示されていると思う。このような教育実践が各地で続けられている限り、この国の未来にも希望は残されていよう。
東の教育観が最も端的に表れているのは、長野西高校2年生のホームルームでの講演記録である「高校生へ――精神の糧を培うために」であろう。東はまず、最近の若者の間で、権威に反発したり、批判したり、疑問を感じたり、不安になったり、正義感に燃えたり、涙を流したり、といった青春期特有の精神の振幅が少なくなっているのは、氾濫する情報の中で、主体的に考える力が衰え、思考が画一化し、個性や感性が希薄になっているからだ、と指摘する。ではどうすればいいのか、という問いに対して、東は2つの三角形という比喩で答える。ひとつは底辺は狭いが頂点が鋭角的に伸びている三角形で、もうひとつは底辺は広いけれど、頂点が低い三角形である。底辺の狭い三角形は上に向かって尖鋭的に伸びているが、強い風に当たる、つまり問題にぶつかると、ぐらぐらして傾き、成長が止まってしまう。底辺の広い三角形はなかなか頂点が伸びないように見えるが、難しい問題に出遭っても、それを跳ね返して個性的な生き方を伸ばしていくことができるという。そして、本当の力、生きた力を養うためには、底辺を広くすることが大事である、と東は主張する。そのためには、教科書以外の読書をしたり、いい出会いをすることが大事であると東は説く。そうすることで、自分の経験の中にない異質の経験を追体験したり、他の人からの影響を受けて、自分のものの見方が広がり、自分の問題をもっと多面的・弾力的に考えられるようになる。このような「精神の肥料」は、すぐに効き目が出るわけではないが、長い年月の間には必ず効果が表れる。ところが、そういうことをしないで、受験勉強にだけ没頭していると、鋭角的になるから試験の点数は上がるが、自己中心的で他人の気持ちのわからない人間になりやすく、挫折に弱い「脆弱な秀才」にしかなれない、と東は言うのである。
このような教育観を持つ東は、「いい出会いを探してもらいたい。いい出会いをしたり、いい本を読んだりして、個性を軸にして自分の底辺を広げていく。そういう試行のなかで自分の人生は自律的になり豊かになる。引け目を感じたりすることもないし、傲慢になることもないのです。それがまた、相手の立場に立ってものを考える感覚にもつながっていくのだと思います」というメッセージを送っている。
高校生に対する東のメッセージは、高校の生徒会誌に寄せた2つの随想「ほんとうの優しさとは何か」や「学園断想」の中にも窺える。前者では、津村信夫の散文詩「飯山」と杉きみ子の物語「ゆず」の解釈を通して、「ほんとうの優しさ」とは、「芯に強さをつつんで謙虚な実践をつづける」勇気と、「するどい想像力と知性」に裏付けられたものである、という結論を引き出し、「真実を発見できるような知性・・・そういう知性と想像力は津村信夫の詩「飯山」と杉きみ子の作品「ゆず」の解説を通してすでに述べてきた「ほんとうの優しさ」の基底において深くかかわっているものだ」と述べている。後者においては、輝かしい伝統を持つ同校のスケートクラブのたたかいに触れつつ、「人間のほんとうの価値は、肩書や金ではなくて、それぞれに自己のなかに潜んでいるものを自らの意志で、すなわちスケートクラブ員のように自己とのたたかいできり拓くところにこそあるのだ」という励ましの言葉を贈っている。
このようなリベラルな教育思想を持つ東が、大きな共感と深い尊敬の念を持ってその生涯を描きだした異色の教師が2人、本書に登場する。赤羽王郎と木村熊二である。
赤羽王郎は1911年、25歳のとき、信州の中津小学校に赴任して以後、1981年に95歳で没するまで70年近くにわたって様々な形で教育に関わり続けてきた人である。1919年、33歳のときに信州の教育界を追放されてからは朝鮮(京城)や鹿児島の離島、北京、岩手県花巻など各地を遍歴し、その間、勤務した学校は23校に及んだが、師範学校卒ではなく美術学校中退の学歴であったため、そのほとんどの学校で、代用教員・嘱託・教諭心得などとして勤務したが、王郎自身はそうした資格には少しも拘らず、常に堂々と所信を述べ、「名利得失を意に介さず」独創的な教育実践を行ったという。ひとつの学校での勤務期間は長くて2年、短くて1カ月という短期間であったが、どこでも子どもたちとすぐに親しくなり、児童生徒からは慕われたという。王郎の生涯を描いた今井信雄の『この道を往く――漂泊の教師赤羽王郎』を東は、「最近読んだ教育関係の著書のなかで、本書ほど私の心を深くとらえたものはなかった」と評している。
少年の日に天竜川の自然に親しみ、飯田中学時代には高山樗牛の『美学及び美術史』を読んで深く啓発されて東京美術学校に進学したものの、俗悪な気風と教師たちの陰湿な勢力争いに嫌気がさして中退した後、理想主義・人道主義の雑誌『白樺』に出会い、「自分を生かし他人を生かし、なお、そこに生き甲斐と歓びを持てるような仕事」を考えた末、「計り知れない創造の源泉ともいうべき子どものくにの人になる」ことを決意して教師の道を歩むことになる。最初に赴任した中津小学校では、被差別部落の子どもたちに対する差別の撤廃に奮闘する。1918年、32歳のときに赴任した埴科郡戸倉小学校では、仲間とともに形式的教案不要論・朝会廃止論などを職員会のたびに論議し、成績評価を甲乙から文章評価に切り替えさせ、授業においては修身教科書は徳目の羅列で生きた人間の息吹が感じられないとして取り扱わず、ユーゴーの『噫無情』を読み続けるなどした。また、歴史では神代は神話と事実の混同であると批判し、地理の教材に朝鮮が出てくると、虐げられた朝鮮民族に同情し、統治政治の非道と在朝邦人の悪虐ぶりを数え上げ、軍隊がいかに非人間的な集団であるかを説き、教室からは乃木大将の額を下ろしてトルストイやミレーの絵に掛け替えるなどの行為を行った。しかし、このようなラディカルで平等主義的で反権威主義的な教育は異端とされ、王郎は懲戒処分を受けて信州の教育界から追放されるに至る。東は、「これらの教育実践は、生徒たちの自主性や創意を培い、人道主義に立って真実とは何かを教えようとするものであり、形骸化と管理を学校から追放し学びの場を新鮮にする試み」であり、「名利得失を意に介さないヒューマンなものであったがゆえに、追放される王郎を教え子たちは心から慕ったのである」と述べている。
信州の教育界を追放されて朝鮮に渡った王郎は、京城(現ソウル)の学校では、朝鮮人生徒の立場に立つため、朝鮮人と同じ生活を続けることによって生徒の心を捉え、敗戦前後を過ごした花巻の看護学校では、生徒の生活環境を改善するため、公私のけじめをつけ、余暇の時間を確保し、図書室を設け、休日には読書会を開き、平日の夜は看護婦の社会的なあり方や生き方について話し合ったり、演劇やコーラスの指導を行ったりした。
しかし、王郎が最も長い年月を過ごしたのは鹿児島であり、しかもそこでの教育の大半は「奄美大島や甑島などの離島・僻地の教育」であり、「そこでの教育に後半生を賭け、その教育を実りあるものにし、そこにみずからの生きる証しとよろこびを見出したことを見落とすことはできない。これは、信州の中津小学校で被差別部落児童の側に立ち、さらに植民地時代の朝鮮人生徒の側に立って教育した王郎のヒューマニズムに、深くつながるものである」と東は述べている。これは、教育の原点は定時制にあると考えて定時制分校から教員生活をスタートし、校長としても、困難な課題のある地域高校の教育と生徒こそを大事にした東自身の姿勢と繋がっている。
しかし、王郎の生き方と教育理念は信州においては異端視されて追放されたのに対し、それが尊重され、自由な実践の場を与えられて花開いたのが鹿児島であったのはなぜなのか、と東は問い、「薩摩人は大きな提灯を皆して盛り立てるが、各人は自分の提灯を手にしていない。一方、信州人は、各自が小さな提灯をささげてはいるが、大きな提灯を作ることを知らない」という王郎自身の談話を紹介している。これはまた、信濃の風土と人間を愛するがゆえに、その閉鎖性を指摘する東の批評精神の現れでもあろう。
書き下ろしの論考「木村熊二をめぐって」では、島崎藤村の師であると同時に、小諸義塾の塾長として信州の教育史にユニークな一頁を刻んだ木村熊二の生涯を描き出している。
明治維新直後の1868年、友人の戸山正一からアメリカ留学の勧誘を受けた熊二は留学を決意し、1870年、25歳のとき渡米する。1882年までの足掛け13年に及ぶ滞米生活の中で、神学や哲学、生理学から病理学まで研究し、マスター・オブ・アーツの学位と牧師の資格を得て、82年に帰国する。帰国後、明治政府からの招聘を断り、東京市下谷教会牧師として布教する一方、高等商業学校・学習院・共立学校などで英語講師を務めている。男尊女卑の日本の現状を憂え、自由な女子教育の必要性を痛感していた熊二は1885年、40歳のとき私財を投げ打って修業年限5年の明治女学校を麹町に創立した。1889年には日本で最初の女子高等科も設立し、内村鑑三、巌本善治、北村透谷、島崎藤村といった錚々たる講師陣が教鞭をとり、羽仁もと子、野上弥生子、相馬黒光、山室機恵子など個性豊かな人材を輩出したが、高等科の火災などが原因となり、1908年に閉校となり、23年の歴史に幕を閉じた。
その一方で、熊二は1892年、明治女学校は巌本に託し、日本キリスト教会伝道委員会からの派遣によって、信州南佐久郡野沢に移住し、キリスト教の伝道に努めた。翌93年、小諸町町会議員で青少年運動の指導をしていた小山太郎の懇請により、小諸義塾を開設した。熊二は共立学校の教え子である島崎藤村を国語と英語の教師として招聘したほか、井出静(塾頭:漢文・書道)、鮫島晋(数学・理科)、渡辺寿(国史・地理)、丸山晩霞(美術)といった錚々たる講師陣を招聘し、特色ある自由教育・英才教育を行った。1903年には信州初の女学校である女子学習舎を設立したほか、農具の改良、桜桃や苺の栽培、缶詰製造などを奨励し、地域の産業開発にも貢献した。しかし、小諸町が小諸義塾を廃して乙種小諸商工学校を設置する方針を決定したことや、井出静塾頭の死去などが重なり、1906年に小諸義塾は閉塾に追い込まれ、13年間の歴史に幕を閉じ、熊二も長野を去った。晩年はおおむね不遇のうちに過ごしたというが、明治政府の招聘をすべて断り、出世には目もくれず信州への道を選んだ熊二の小諸義塾について、その「先進的教育が、明治期の佐久地方に果たした教育的意義は、信州教育史のなかに特筆すべきものであると思う」と東は記している。
以上、本書『信州の教育・文化を問う』の中から、主に教育論を中心に評者がとりわけ感銘を受けた論考をいくつか紹介した。これらの論考に見られるようなリベラルで子どもの個性と自主性・自律性を尊重する著者の教育思想に私は心から共鳴し、その教育実践に深い敬意を覚える。他方で私は本稿では、著者・東の信州の近代文学研究者としての側面をほとんど紹介することができなかった。その点は読者にお詫びするとともに、是非本書を(できれば『信州の近代文学を探る』とともに)手に取って頂ければと念願する次第である。
◆書誌情報:東 栄蔵『信州の教育・文化を問う』(文藝出版、2012年5月4日発行)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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