樺美智子さんの「死の真相」 (60年安保の裏側で) ―60年安保闘争50周年

はじめに

二〇一〇年四月某日、長崎暢子(旧姓・榎本)先生に会いました。五十年前、安保デモで樺美智子さんと一緒に国会に突入した3名の東大女子学生の一人です。
東大教授(現代史・インド史)を経て、いま龍谷大学の教授です。
長崎先生から僕に会いたいと、広大名誉教授の金田晋先生(国会突入時の東大文学
部学友会委員長)とご一緒でした。金田先生の伝言で、五十年前の「安保騒動の樺美智子の死」を、心の奥から突き上げる思いで、僕もお聞きしたいことがある!と思いました。
一九六〇年六月の『安保』は、樺美智子さんの死に燃え上がった日本を目の前に、時のアメリカ大統領・アイゼンハウワーが直前まで予定していた来日を中止し、ヒロヒト天皇との面会もキャンセルして、急遽マニラから帰国するという国際的事件でした。
日本の現代史の中でも特筆する大きな事件です。『安保五十年』と言うべきいま、樺美智子さんの闇につつまれたままであった「死の真相」が、もう一度語られてよいのではないでしょうか。

:樺美智子さんの死を知らされて

旧制・広島高等学校を卒業して、被爆の経験を持つ僕は一九七七年広島共立病院長として赴任し、被爆者医療を病院医療の重要な柱の一つにして三十年余取り組んできました。しかし岡山大卒(一九五三年)そしてインターン後の約略九年、東京・代々木病院で内科医師・丸屋博として超多忙といっていい日々を送っていました。
一九六〇年六月十六日、午後も病室の回診をやっと済ませた頃であったろう。中田友也副院長が院長室で僕を待っているという。当時、院長の佐藤猛夫先生は中華医学会の招きで中国に行っておられて留守でした。院長室には中田友也先生と、僕は始めてお目にかかる参議院議員の坂本昭氏(佐藤院長と一高・東大医学部の同級生、高知県選出)が、待っていて、厳しい表情で一冊の大学ノートを差し出されました。
「昨日十五日夜、国会構内で東大生の樺美智子さんが死んだ。今朝、慶応大学法医学で司法解剖が行われたばかりで、中舘教授のプロトコール(口述筆記)がここにある。一語も漏らさずに記録してある。これを伝研(伝染病研究所)の草野先生に読んでもらって樺美智子さんの死因をまとめてもらいたい」と。当時僕は代々木病院に勤めながら、週二回、伝染病研究所の草野信雄先生のところへ病理解剖の勉強をさせてもらいに通っていました。
アメリカと日本の間で、安保条約の歪がつぎつぎと明るみに出る中で、日本中の世論が十年目の改定の時期を迎えて沸騰していました。永田町、国会周辺は「安保反対!改定を許すな!」と連日万余の民衆が取り囲み、昼夜を超えてデモが続いていました。僕もその前日は午後早めに仕事を済ませて国会前での道幅一杯のフランスデモに参加しました。
院長室ではじめて会う医師である坂本参議院議員は、国民救援会の会長でもあり、十五日夜社会党議員として真っ先にこの事件を知ったという。十六日の司法解剖に同級生の佐藤院長と一緒に立ち会う予定で代々木病院に来たのだが佐藤院長が留守だったので、急遽中田副院長が同行した。了解を得て二人は慶応の法医学解剖室で中舘教授の樺美智子さんの解剖所見を、一言も漏らさず記録した、そのノートである。
解剖所見は、身長・体重の計測からはじまり、所定の手続きに従って慎重に進められる。中舘教授の一言一言が記録され、のちの写真撮影、顕微鏡所見などと併せて鑑定書がまとめられる。坂本・中田両先生も、大学の記録係とは別に、進められるメスの行方を見つめるとともに教授の口述を記録した。僕に託されたのがそのノートである。
当時僕は病理学の勉強のために、週二回午前、芝白金台の伝染病研究所・草野信夫先生の教室に通っていた。草野先生もまた、坂本議員、佐藤院長らと、東大で同級生であった。草野先生は広島へ原爆が投下された直後、東大の救援班の一員として広島に駆けつけ、病理学者として原爆症の解明に大いに力量を発揮された。一九五三年六月、ウイ―ンで開催された国際医師会議で、日本代表として草野先生が始めて報告した「原爆症」(Atomic Bomb Injuries)は、その悲惨な医学的所見を、冷徹な病理学者の目を通して記録されたもので、参加者に強い衝撃を与えた。今日なお、草野信夫著の『原爆症』が、原爆にかかわる医書の原点とされている所以である。(余談であるが、アメリカは占領直後原爆に関する一切の資料を-解剖資料も含めて-本国に持ち帰り、日本での研究・調査のすべてを禁止した。一九七三年五月にアメリカ軍が接収した広島・長崎の被曝資料の返還式があってようやく帰ってきた。草野先生は解剖のプレパラート標本を密かに持ち帰っておられたのだ。)
坂本・中田両先生の記録ノートと解剖現場での意見交換などを、お聞きした範囲で伝えて、草野先生の解剖学者としての見解を語ってもらった。ぬいぐるみの熊のような人なつこい、そしてやや怖い感じの草野先生は、しばらくじっと僕を見据えてゆっくりと意見を述べられた。僕はこれをメモして樺さんの死因をまとめた。

① 死体の血液が暗赤色流動性であり、
② 肺臓、脾臓、腎臓などの実質臓器にうっ血があり、
③ 皮膚、漿膜下、粘膜下、などに多数の溢血点がみとめられ、これらが窒息死によって起こったもの(窒息死の三徴候)であることは疑いのないところである。
④ さらに窒息死の所見以外には、膵臓頭部の激しい出血、
⑤ および前頸部筋肉内の出血性扼痕があった。
特に中舘教授や助刀の中山助手も驚かせたという、膵臓頭部の激しい出血については、僕も慶応大学・法医学教室を訪ねて臓器そのものを見せてもらっている。これは樺さんの腹部に固い鈍器での強い衝撃が、膵臓頭部を脊柱との間に挟んでの外傷性出血で、途中で見学にこられた東大の上野教授もこの出血を見て、仲舘教授に無言でうなずきながら腹を強く突く所作をし、しばらくして退室して行かれたと、中田・坂本先生の話であった。その後も綿密な解剖所見が続けられて、彼女の頸部筋肉内に扼痕が見つかった。通常であればこの程度の扼痕で窒息を起こすなどは考えられないが、樺さんは膵臓の挫滅出血ですでに重症の状態であって、さらに追い討ちをかけるようなノド仏の両側の扼痕が、手で頚を絞められたことが、彼女の直接の死因となった、と。
解剖の手順に従って書き続けられている口述筆記(プロトコール)を、草野先生は
諄々と僕に説明してくれた。僕は先生の言葉を書き取りながら、当夜の状況を、そして樺さんの死因の重大さをあらためて思わざるを得なかった。そして翌日、慶応大法医学教室を訪ねて樺さんの残された臓器を見せてもらい、改めて彼女の冥福を祈った。
樺さんは腹部に(警棒様の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵臓頭部出血と、さら
に扼頚による窒息で死亡した、という結論をまとめた。

死因発表と検察の対応
樺美智子さんの死について、樺さんご両親から直接に会って「美智子の死の真相を明らかにしてほしい」と、代々木病院の医局で丁重に頼まれた。僕が彼女の死因をまとめて参議院議員の坂本昭氏(当時、国民救援会会長)にわたし、それを国民救援会は公式に発表した。当日の朝日新聞の記事を借ります。
樺さんの死因「ヤク死の疑い」
樺美智子さんの司法解剖に立ち会った参議院議員坂本昭氏、代々木病院副院長中田友也氏は二十一日夕「樺さん死因は窒息であり、ヤク死の疑いが強い」と参議院会館で記者団に中間発表した。両医博の発表は樺さんが死ぬまでの状況や、加害者については一言も触れていない。両医博は樺家の知人として、慶大教授中館久平医博の執刀する解剖に終始立会い、その所見をまとめたものである。
発表によると、両医博は、次の理由で結論を出したと言う。
① まぶたの裏の大きな出血ハンや、肺臓のうっ血など体内各所に窒息死の徴候がある。窒息の原因はノドボトケの両側に筋肉内出血があり、特に右側がひどいので右手による扼死の可能性がいちばん強い。胸を圧迫されたための窒息ということは立証する所見がない。
② すい臓出血がある。きわめて珍しい症例で、比較的面積がせまく、かつ固い鈍体が強く作用した結果と認められるが、出血量が五・六〇立方㌢という少量で、かつ、すい蔵の外へあふれ出ていないので、これが死因とは考えられない。(‘60.6.22、朝日新聞)

社会党「警視総監らを告発」―殺人、職権乱用で日本社会党不当弾圧対策特別委員会(委員長木原津与志代議士)は二十三日、小倉謙警視総監、伊林長松警視庁第四機動隊長、岡村端同第七方面隊長と六・一五統一行動の当時,衆院南通用門付近にいた機動隊全員を殺人、職権乱用、傷害罪で東京地検に起訴した。告発状によると、六月十五日午後五時頃、南通用門付近にいた請願中の学生数百人に警棒をふるって暴行、東大生樺美智子(二二)さんをなぐったりけったりして倒したうえ、首を押さえつけ腹を強圧、結果として窒息死させた。また学生、学者、一般市民数百人に暴行、障害を加えたと言うもの。(‘60.6.24、朝日新聞)

関連して検察庁から「根拠のない『虐殺』」であることのパンフレットが配られていることが、朝日新聞の同じ紙面の記事に載せられている。

幾日か遅れて、司法解剖をした慶応大学の中舘教授からの鑑定書が提出されました。『鈍器で腹部を突かれ膵臓挫滅出血、首を絞められた(頚部扼こん反応)』というこの第一次鑑定書は、検察の受け取るところとならなくて書き直しを迫られました(当時、慶大法医の解剖の助刀を勤めた中山浄先生から、逐一連絡がありました)。訂正鑑定書では上記の死因に「人なだれによる胸腹部圧迫」が加えられたと知らされました。この「人なだれによる胸腹部の圧迫が窒息の原因」は六月十五日,樺さんの死体を検察局で検視した監察医務院医師・渡辺富雄氏の「監察医意見書」として検察当局に提出されていたものでした。なお追記すれば渡辺監察医は慶応大学の司法解剖には立ち会っていません。
この第二次の中館鑑定書は検察局の受け取るところとなりましたが、当局はこの内容に不満で、東大・法医学・上野教授へ「再鑑定」の依頼をしました。上野教授からは「人なだれによる圧迫死・内臓臓出血も窒息による」としたようです。この上野再鑑定書によって、鑑定書は公表されないまま社会党の告訴はとりさげられ、樺美智子さんの死の真相は闇に葬られたこととなりました。法医学会ではその後幾年か、その論争「胸腹部の圧迫窒息で内臓臓器にどのような出血が起こるか」が続きました。しかしそのことは閉ざされた一学会のなかでの論争のひとつで、広く国民の耳目に触れることはありませんでした。
検察局は、中館、上野、いずれの鑑定書も公表しないと言うことで幕引きを図りましたが、坂本・中田両先生は国民救援会からの「死因の発表」について触れたうえ、「朝日ジャーナル、’60.8.21号」に『樺美智子さんの死因をめぐって』との論文で、上野鑑定書の公表を求めています。朝日ジャーナルはさっそく翌週(八月二八日号)に、同文の表題『樺美智子さんの死因』として上野教授の反論-「窒息によって身体各所の出血、脾臓への出血も起こる。」ことを載せていましたし。内容は窒息によって小さな溢血様の出血の起こることは周知のことだが、絞頚による窒息の場合も脾臓に高度の出血があった例がある。窒息による死亡の場合、東大の解剖例を再調査したところ内臓出血を認めたものが三十~四十%あったとして「人なだれによる窒息死」で膵臓頭部の出血も起こりうることを記載していました。しかし正式の法医学鑑定書は、両者のいずれもいまだ公表はされていません。

かくされた「死因」

「死体は語る」という言葉があります。司法解剖にしろ、病気の原因を探る病理解剖にしろ、解剖台の死体はその「死」に至る前にその人の身体に何が起こったのかをもっとも雄弁に語っているものです。
僕が受け取った樺美智子さんのプロトコールは,彼女が警棒様の固い鈍器で上腹部を激しく突かれて、脊柱と間にはさまれて挫傷して出血したことを示しています。
「人なだれ」は、デモの後方で起きており、当夜「人なだれによる死」が、彼女ただ一人であって、そのために骨折など怪我をしたりした学生のあったことは聞いた事がありません。一人の学生が「死」に至るような「はげしい人なだれ」は、あったのでしょうか?
六月十五日の当夜、出動した第四機動隊と、「安保反対」をシュプレヒコールしながらの素手の学生たちと、衝突があったのです。坂本昭参議院議員も、障害を受けた彼女の当夜の位置が何処にあったのか、何とか確認したいと、しきりに言って居られました。僕自身は当夜の国会の状況を知りませんでしたので、そのことはずっと心の奥に滞ったままでした。
当時、東大文学部学友会委員長として、全学連の幾百人かと一緒に国会に請願デモの指揮をとった金田晋氏が広島大学で教鞭をふるっておられて、いまは名誉教授、そして請われて下関市:東亜大学総合人間・文化学部長になっておられることを知りました。僕は「広島文学」の稲田公子さんに紹介を受け、突然のお手紙を差し上げました。
「六十年安保」の樺美智子さんの死に至る状況を少しでも明らかにしたいと思ったのでした。僕が金田先生に差し上げた手紙の一字一字を覚えていませんが、折り返し先生からお返事をいただきました。

拝復、お便りと同封されていた「現代詩手帖」連載の御文を拝読しました。何度も読ませていただきました。こんなに近いところに、私のほとんど封印してきた青春を、有無を言わさず引きずり出される方がおろうとは、驚きでした。
樺美智子は今でも私の友人です。「死者はいつまでも若い」今でもあのときの顔が浮かんできます。六月十五日夜、国会議事堂南通用門から追い出された直後、死者は文学部の学生らしい、樺さんらしい。警察病院に行くように、というレポが入りました。私は当時東大文学部学友会委員長でした。彼女と同学分の学生を連れて、警察が用意した車で警察病院に駆けつけました。遺体のある部屋に通されて、私は樺さんであることを確認しました。
・・・中略・・・
前日の六月十四日午後、銀杏並木沿いの三四郎池側にあるアーケードのうえの文学部階段教室で学生大会を開催し、国会突入を決議しました。といっても出席者は50名にたらず、大会は定足数に達せず、正式には有志決議ということでした。私の前の期の学友会副委員長であった樺さんは四月からは卒業論文の準備をしていましたが、それでもデモや集会にはよく顔を出してくれました。
学生大会では、反対の意見も出ました。樺さんは階段教室の一番上に座っていて、決議したときは拍手をしてくれました。翌朝出発時にはスラックス姿で、文学部のアーケード下の集合場所に来てくれていました。その時のさわやかな顔が今でも思い出されます。その日がどうなるか、僕にも読めませんでした。思いだけがすすんでいたように思います。朝、桂寿一文学部長は私を学部長室に呼ばれて「君たちの気持ちはわかるが、身体に気をつけるように。国会突入の方針と聞くが、無茶をせぬように」という訓辞を受けました。文学部には女子学生がずいぶんいましたが、国会近くにきたとき、三名だけがデモの隊列に加わっていました。外側は男子学生が、中に女子学生が入りました。しかしそのような配慮も、南通用門を突破して、内部で集会を開き、機動隊に押し返される中で、何の意味があったでしょうか。
御庄先生のお手紙を拝読。私自身、樺さんはデモの隊列の崩れるナダレの中で圧死したという当局の説明に、そうだったかもしれないと,なかば思い込みはじめていました。もちろん、私たちも坂本議員などの国民救援会の、死因は警棒で突かれたことにあるという報告は受けていましたが、しかし当局の発表もそうかな?と思わせるような状況はありました。御庄先生のきわめて正確な記述を読み、今更ながらに歴史の隠蔽、捏造ということに、憤りを感じています。それに当局の発表に流されていった自分自身が、樺さんの無念をしっかりと受け止めていなかったことを恥じています。
私自身も、先生にぜひお会いして、いろいろなお話を伺いたいと思います。

(二〇〇〇年十一月八日)
四十年後の二〇〇〇年暮十二月二十二日、機会を得てお会いすることができました。“六十年六月十五日“その夜、実際にどのようなことが起こったのか? 率直にお尋ねしました。後日その状況をお手紙にいただいたのでこれも転載します。

あけましておめでとうございます。下関でお年賀と詩集、それに拙文についてのご感想を含めた書信を拝受しました。ご返礼が遅れたことを、お許しください。
1)用件のほうから、記します。六十年六月十五日は、寒くて震えていたことを記憶しています。雨模様でした。服が濡れていました。それが放水車の水であったのか、雨であったのか、汗であったのか、記憶は区別を拒んでいるようです。お昼に東大文学部の部隊は法文二号館のアーケード下に集まり大学全体で気勢を上げて、国会議事堂に向かいました。国会議事堂南通用門までは近づくことが出来ましたが、門はしっかり閉ざされ、門の内側には装甲車が後ろ向けに置かれていました。明治、中央と東大の部隊が南通用門をロープで引っ張って倒し、装甲車を引きずり出し、隊伍を整えて、中に入っていきました。そのとき、文学部は東大部隊の先頭でしたが、三人の女子学生がこの隊伍に加わっていました。私は委員長でしたので、隊列を確認し、女子学生三人は機動隊からの攻撃から守るため、スクラムは八人か十人の隊列だったと思いますが、その中央に入ってもらいました。三人は、樺美智子さん、榎本暢子さん(のちに長崎姓、東大名誉教授、近代インド史、特にセポイの乱の研究者)、福田瑞枝さん(のちに黒田姓、夫の黒田氏はヴェトナム戦争の報道で活躍したジャーナリスト)です。榎本、福田両名も頭部を負傷、一時病院に入院しました。その三人以外にも、文学部には、教育学部もそうですが,多くの女子学生がいました。彼女らは隊列の外にいながら、歩道を占拠していてくれていました。
彼女らのうちで大学院に進学した者以外、そのあととくに交流があるわけではありませんが、卒業後、労働省に勤めた女性は30年近く後に、突然便りをくれ、研修所で自分が教えている高校卒の人物の哲学論文に論評をしてもらえないかと言ってきました。在野にあってすばらしい哲学者との交流がはじまり、今も続いています。そのような信頼関係は、私たちにあったようです。
・ ・・中略・・・
先日「そごう」でお会いしたとき、舌足らずでしたが、時間について、カフカの時間についての話が出ました。時間が過去から未来にただ流れてゆく、昨日の次に今日があって、次に明日が来る、そんなふうに進行するものでない、もしそうだとすれば、今という時はなんと貧素で抽象的なものなのか。聖アウグスチヌスは今の3相、つまり記憶としての今(過去)、予期・期待としての今(将来)、そして紛れもなくここに立っているという今が重層に豊かな今を形成していることを語りました。
それにしても、先生の記憶としての今、その中に六月十五日をしっかり根付かせておられること、心の底からうれしく思いました。私もまた先生との出会いによって、四十年前を今に呼び戻そうとしています。・・・後略・・・

(〇一年一月一三日)

四十年、長い間抱き続けていた疑問が、やっと、ややあかるみに出たことを感じましたが、いつか樺さんの友人として一緒に国会構内に入り、その夜の乱闘に巻き込まれたと思われる二人の友人、榎本暢子さん、福田瑞枝さんにお会いして、その夜の状況を直接お聞きしたいものだと思っていました。
機会を得ず、いつのまにか歳月が過ぎましたが、10年後の今年、思いがけず「長崎暢子(榎本暢子)さんに会える」ということで、僕の思いは一挙に五十年をさかのぼった、といっていいでしょう。
日時を打ち合わせ、金田先生が同道して直接広島共立病院へこられるといわれます。僕は虚心にお迎えしたいと思いました。

「樺美智子の死」の真相

五十年前、樺美智子さんの死について、僕が直接かかわっていることは、坂本参議院議員や中田先生の「死因について」の発表のとき、必ずご一緒していたのでよく知られていたことでした。ご両親、樺俊雄(当時・中央大教授)ご夫妻が代々木病院の医局に僕を訪ねてこられて、「美智子の死の真相を明らかにしてほしい!」と、こころから頼まれました。彼女の「死」が、「人ナダレによるもの」という風説のなかで、アイマイにされようとしている頃でした。
樺さんの「死」が、当夜の学生と機動隊の激しく接触する中で、国会構内の何処で起こったことなのか?事実は一つしかないのでしょう。何とかその事実を知りたいものだと、手探りをしていた頃だったでしょうか、坂本議員が朝日新聞の記事を持ってきました。
元警部補が入水自殺
デモ隊警備でノイローゼ?
安保改定反対闘争の警備に出動、激しいデモ隊とのやりとりにノイローゼ気味で辞表を出した警視庁の警官が、(七月)九日朝、水死体(自殺)で見つかるという事件が起こった。東京・小松川署警ら第二係長の岡田理警部補(三三)…略…は六月十三日「部下の指導監督の能力を失った」との理由で辞表を出し、去る五日辞職が認められたが六日に家出、九日朝、板橋区志村船渡町2-56戸田橋上流の荒川で水死体となって発見された。警視庁と同署では現職者でないとして、詳しくいわないが、六月中はほとんど連日行われた全学連などの安保改定反対闘争の警備に出動しているうち疲労と精神的な悩みから、ノイローゼになっていたという。自殺の原因もそこにあるのではないかといっている。
なお岡田警部補は去る十月警視庁交通二課から小松川署に転出、安保改定闘争中に第七方面本部構成の警備隊小隊長として第四機動隊に編入され警備に当たっていた。・・・ (‘60年7月9日・朝日新聞・夕刊)

当時「PTSD(外傷性ストレス障害)」という言葉は一般的ではなかったが、一九六〇年代後半からのヴェトナム戦争から帰還した米兵にこの障害が起こった。事故や犯罪、災害といった衝撃的な出来事に巻き込まれた個人を襲う深刻な精神障害の一つで、不安障害などに比べると、自殺企図などの問題行動が多い、とされている。
第四機動隊は当夜、国会突入の学生たちと正面衝突をした機動隊であった。坂本議員は「岡田警部補は、小隊長として事件の目撃者であったのではないか。彼の日常を調べてもらったが、近所の人たちとの付き合いもよく、誠実な人で、柔道の高段者であった。七月はじめに辞職が決まり、翌日家出、三日後には水死というが、水死はおかしい。荒川の船頭組合に問い合わせても、その日、水死者があったことはないという。口封じに消されたのではないか。」と言っていました。謎のある事件であった。「PTSD」での自殺であったか、坂本議員の疑問が正しいのか、今となってはこれも闇の中といわざるを得ない。

金田先生と長崎先生が本年(二〇一〇年)四月八日、広島共立病院へ僕を訪ねてこられた。
病院の応接室で、僕の知る「樺美智子の死」のことを、長崎先生に話した。長崎先生は当日、樺さん、福田さんと女性三人,学友会のメンバーに囲まれて国会構内に入った。その後がどのように混乱したか、確かなことは「警棒で腹を、胸を突かれ、頭を殴られてほとんど朦朧状態になったこと、救急車で運ばれる途中で気がついて、そのまま病院に搬入されたこと、すぐ前にいた樺さんがどうなったのか全くわかりませんでした」などと話された。その後の取り調べのときに「自分の当夜の写真を見せられて、確認をさせられたこと、その写真は当夜たくさんの写真が撮られていて、そのうちの私だけを取り出して見せられたこと」などを話された。福田さんも警棒で突かれ、頭を殴られて入院したという。樺さんもほとんど同じ状況であったろう。写真が機動隊側から撮影される位置は、すぐ前面が警備隊ということだ。「それにしても樺さんのお父さんお母さん、とても親しくしていただいていたことで、警棒に突かれた胸とこころが数年経っても痛みました」と。
「最初は隊列の後方へ、とスクラムを組んでいましたが、国会突入後、衝突してからは僕らははがされ、はがされして、どのような状況になったのか、僕にもわかりません」と、金田先生は言う。当然であったろう。いつのまにか樺さんたちは警備隊との衝突の前面に出されていたのだろう。

数日後、長崎先生から、お茶菓子とお便りをいただいた。
「昨日は長年の望みであった先生にお会いでき、本当に胸の晴れる思いでした」(十年四月十日)と。

さらに旬日後金田先生からもお便りがあった。
「・・・先日は長崎暢子(旧姓・榎本)と連れ立っておうかがいし、私どもにつながった樺美智子について、それぞれの思いを語り合えたこと、楽しい一日でした。六十年安保は、戦後日本の政治・経済・文化の大きな節目であったことを、今更ながらに思い返しています。6月15日はその象徴的な事件で、樺さんは、いつも私たちの間で生きているように思います。お送りいただいた写真は、今度の出会いのかけがえのない証となりましょう・・・」(’10年五月四日)

五十年前、検察側は国会構内の警備隊の目前で起こったことをあたかもデモ隊の後方の列で起こった「人ナダレによる」とはやばやと断定し、その後は司法解剖の行われた法医学鑑定書を、再鑑定など学問解釈上の裁をとりながら、虚偽、隠蔽、捏造といったあらゆる手段を用いて、己に都合のよい結論を自ら仕立てた。樺美智子さんの死はこうして隠蔽され、不問に伏せられたのである。長崎暢子さんにお会いして、当夜の実情を聞かせてもらって、僕は検察権力の、巧みな隠蔽、捏造の事実を今更ながら、鳥肌の立つ思いで振り返っている。
安保改定時の『核密約』も、やっと白日の下に晒された。
六十年安保から五十年、樺美智子さんの司法解剖に立ち会って『死の真相』を知る人は、今はただ僕一人が残されているのでしょうか。僕は樺俊雄先生ご夫妻の「美智子の死の真相を!」というご依頼にやっと応えることができたと思う。
「歴史の流れ」が、音を立てて足元から聞こえてきます。

終わりに

六十年安保から五十年です。
五十年前のこの時間に、僕は樺さんの『死』を知らされました。
それから彼女の「死の真相」を尋ねて、うかうかと五十年が過ぎました。
見渡せば、彼女の「死の真相」を知る人は、もう一人も残っていません。
記憶を奮い起こして、書きました。
一人の少女の死―Nさんに会って

御庄 博実

一人の少女の死を追って

僕は長い年月 霧の中を歩き続けていた

あの夕 死んだ東大女子学生と

肩を組んで国会に突入した

Nさんと始めて会った

五十年が過ぎている。

判然としなければならぬはずの

過去の歴史の歩みについてさえ

何も明らかにしようとしない

それがあたかも善意であるかのような

あいまいさの中ですごしてきた

責任を取るべき人 証拠の資料

僕たちの国の戦後史

いま俎上に 腐臭を晒している。

五十年前六月 国会の前庭で

一人の東大女子学生が死んだ

警防様の鈍器で 激しく腹部を突かれ

膵臓頭部が挫滅 内出血

慶応大法医教室で見た血に染まった膵臓

ほとんど瀕死の少女の

のど笛に更に薄い扼痕があった

首を絞められたとどめの痕だ

少女は殺されたのだ。

大きな歴史の曲がり角であった

アメリカ大統領がマニラから日本への

訪日を中止した瞬間であった

岸信介首相にも 天皇にも会わず

アイゼンハウワーは九年後に亡くなったが

改定された安保は今も生きつづけている

少女の死―2

少女の死はアイクの訪日を止めた

だが彼女の死の真相は闇に隠されたまま。

彼女と肩を組んで国会に突入したNさん

私も警棒で胸を 腹を突かれ 頭を殴られ

ほとんど意識もうろうとなりました

救急車で病院に運ばれるとき気がつきました

その後幾年か 十幾年か

警棒で突かれた胸が痛みました

五十年後のいまも

警棒で突かれた心が痛みます

遠い日の思い出を

昨日のことのように話す 黒い瞳

真実が語られなければならないのに

いつもこうなのだ

一人の少女の死が

いまもあいまいのままなのだ

真相をだらだらと先延ばしにして

こんなふるさとでいいのだろうか

僕はいまも 深い霧の中に立たされている

※   一人の少女の死・・六十年安保、国会構内で樺美智子死す

補遣・六十年安保

一九六〇年五月一九日、岸信介自民党内閣による衆議院での強行採決、参議院での議論をへないままの同二十三日の自然成立と、その後の日本外交に大きく影響する条約にしては、異例なかたちで成立した「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。簡単に言えば米ソの対立がはげしい時代、アメリカの対アジア戦略にのっとったアメリカ主導の軍事同盟であったといえるだろう。一〇年間は異議申し立てができない代物であった。(十年後の一九七〇年、もはや六十年時のような大衆デモはなかった)

第六条にいわく。

日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

しかも、右の基地内は、治外法権となって日本の行政は及ばない。

この安保条約締結に反対するデモは、次第に燃えさかり、国会周辺を連日埋め尽くすこととなる。(六月一五~一六日は約十万人)

戦時下の空襲・飢餓の痛手による体験がなおなまなましいなかで、アメリカ一方に与し、その戦略に巻きこまれることはごめんだ、という素朴な感情が、多くの人びとをデモへ駆り立てたといえるだろう。

明治以後、日本が外国と軍事同盟をむすんだのは二回。日英同盟(一九〇二年)と、日独伊三国同盟(一九四〇年)。前者は日露戦争、後者は米英ほかの連合軍との戦争へと雪崩れていった。軍事同盟の危険を肌で人びとは感じとったのではあるまいか。

だから、連日、国会を埋めるデモに対し、岸首相が、「声なき声は自分たちを支持している」と語ったとき、早速に、声なき声というプラカードを作ってデモに行くものがあらわれ、これといった組織のない人びとがそのプラカードの後ろに付いて、みるみる膨れ上がっていく現象も起きたのだった。

そのようななかで、学生たちが立ち上がり、そこに二十三歳、東大文学部国史科学生の樺美智子もいたわけである。

彼女の遺稿集『人しれず微笑まん』(三一書房)には、講義に提出したレポートも載っていて、徳川慶喜論―政治史的考察、あるいは律令時代の損田処分法、など真摯な考察がなされていて、いずれ学者として大成していったろうことを偲ばせる。

しかし、時代は研究室に彼女をゆったり置いておかなかったのであり、それは彼女の真面目さとその詩に見られる感受性の鋭さにも拠ったであろう。

一篇の詩をあげておこう。

最後に 樺美智子

誰かが私を笑っている

こっちでも向うでも

私をあざ笑っている

でもかまわないさ

私は自分の道を行く

笑っている連中もやはり

各々の道を行くだろう

よく言うじゃないか

「最後に笑うものが

最もよく笑うものだ」 と

でも私は

いつまでも笑わないだろう

いつまでも笑えないだろう

それでいいのだ

ただ許されるものなら

最後に

人知れず ほほえみたいものだ

(一九五六年)

成長途上であった誠実な娘は、獰猛な暴力によって、すい臓をなぐられ、首を絞められ、はかなくなってしまった。残念でならない。(石川逸子)

*御庄博実という名前は詩人のペンネームです。本名は丸屋 博。(編集部注)

初出:『ヒロシマ ナガサキを考える』第99号より許可を得て転載

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