橋川文三のエピソード三題

著者: 川端秀夫 かわばたひでお : 批評家・ちきゅう座会員
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その1 「ほろ酔いの橋川文三」

 

学生時代、『日本浪曼派批判序説』で有名な橋川文三氏のゼミに、私は所属していた。

 

そのゼミ合宿の打ち上げ時の話である。

 

ある学生が、隣の学生を指差して、「先生。こいつ最近失恋して元気ないんですよ。振られて一週間もたつのに、まだ落ち込んだままなんです。なさけない」と批判した。するとその言葉を受けて、すぐに誰かが、「そうだ、そうだ、だらしないぞ。おれは振られて二日で立ち直った」と、賛成意見を述べた。

 

すぐに、「いや、おれは立ち直るのに一か月かかった。一週間立ち直れないのは、だらしなくない」と反論があった。また誰かが、「一か月も立ち直れないのは馬鹿だ。変態だ」と非難した。

 

それから、失恋して一週間で立ち直れないのは、早いか遅いかどうかというテ-マで、学生達の賑やかな議論が続いた。

 

橋川さんはほろ酔い加減のままで、学生達のたわいもない雑談に耳を傾けておられた。

 

議論が一段落着いたところで、ある学生が橋川さんに、「先生も失恋したことありますか」と尋ねた。「あります」と橋川氏。「おっ!」という感じで、皆が橋川氏の方を注目した。その学生はさらに尋ねた。「失恋してどれぐらいの期間立ち直れませんでしたか」。

 

橋川氏が「五年間」と答えると、みんな爆笑。

 

学生達はいままで失恋して立ち直るのに、一週間が遅いか早いかという議論をしていたのである。そこでの五年という返答は、まるで次元が違った答えであって、自分達の常識とのあまりのギャップの激しさに学生達は笑ったのである。

 

しかし、後に、私は気付いたのであった。失恋して五年も立ち直れない。そういう資質の持ち主でなければ、『日本浪曼派批判序説』のような本はけっして書くことはできない。

 

激しい憧憬と挫折。文学を支え、そして産み出す秘密の核心に、ぼくたちはその時、気付くべきだったのだ。笑っている場合ではなかったのだ。日々顔を突き合わせ、議論を交わしながらも、ぼくたちは誰も橋川文三の正体に気付いていなかった。何も分かっていなかった。

 

真実はいつも愚か者の衣装をまとう。そして虚偽はいつも衣装きらびやかである。だからぼくたちはすぐには真実を手に入れることができない。

 

たとえ手に入れたくても、ずっと後から、ミネルバのふくろうのように、それはやってくるのだ。

その2 橋川文三の好日

東北大学の大学院生が指導教授に二度も博士論文を提出したのに受取ってもらえず自殺したというニュースが報じられている。何という暗い師弟関係だろう。胸が塞ぐ思いがする。

 

このニュースに接した時、私は学生時代のゼミの教官であった橋川文三氏のちょっとしたエピソードを思い出した。日本政治思想史の教授であった橋川文三先生のことを、僕たちゼミ生は親しみを込めていつも橋川さんと呼んでいた。だからここでもただ橋川さんと記載させていただくことにする。

 

橋川ゼミの合宿での呑み会でのことだった。橋川さんは、紅一点の女子生徒にむかって、「ゼミの成績ですが、評価は女性にも男性にも全員に優をつけます。だから安心して下さい」と仰ったのである。全員に優を付けると最初から決めるのは教官としてはそりゃ問題だろうと私は思った。しかし橋川さんがわざわざ「女性にも優をつけます」と公言される理由が知りたかった。

 

橋川さんは「ちょっと弱いかな」と思って女子生徒に良をつけたことがあったそうなのである。ところがその生徒は卒業してからも会うたびに「でも私は良しかももらえなかったからな」と何度もそのことを持ち出して、橋川さんを苦しめたのだった。

 

私にはその女子生徒の気持ちがよく分かった。他の科目はいざ知らず、橋川さんにだけは優をもらいたかったのだ。良だったということはまったく想定外であった。裏切られたような気持ちだったのだろう。橋川さんにしてみれば、こんな些細な事実が人を傷つけることがあるとは、これまた想定外のことであった。必ず女性にも男性にも全員に優を付ける。これが橋川さんの下した決断であった。こんな人は教授は勤まっても、たとえば学部長とかにはもちろんなれない。

 

橋川さんの日本政治思想史の講義は、開始時刻がわりと朝早かった。同じ講義が第二部でもあったため、朝の講義を聞きそびれた時は私は第二部の講義を聞くことにしていた。夜はこじんまりした小教室で、講義を受ける学生たちもせっせとノートを取ってまじめであり、教室はいつも厳粛な雰囲気が漂っていた。

 

橋川さんの日本政治思想史の講義でいちばん感銘を受けたのは、石原莞爾の東亜連盟の思想と運動をテーマに語られた日のものであった。私はこの日の講義は、あまりに面白かったので、朝と夜と二回聞いている。蒋介石の北伐から始まり、混沌とした中国の近代史の歩みの中で東亜連盟の思想が立ち上がる光景がビビッドに語られる。それは思想と現実が交差する真の歴史の実相を描いた名講義であった。

 

やがて石原莞爾は東条英機との権力闘争に敗れ予備役に編入される。故郷鶴岡に隠遁を余儀なくされた石原の元に、東条は憲兵を差し向け、監視を続けた。この日の講義は、この憲兵と石原との次のようなエピソードが紹介されて終わった。

 

憲兵「閣下。閣下は東条閣下と思想が合わないのでありますか」

石原「東条と思想が合わないって? そんなことはないよ」

憲兵「さようでありますか。東条閣下とは思想が合わないと聞いておりましたのですが、どういうことでしょうか」

石原「東条には思想がない。俺には思想がある。だから合わないということはない」

 

ここで教室は大爆笑。名講義の見事な幕切れであった。

その3 詩人としての橋川文三

 

「橋川さんは何を求めていたの? そして、その求めていたことの答えは得られたの?」

 

橋川文三ゼミの同窓会での席上でのこと。乾杯の音頭がすむかすまないかのうちに、究極の質問を、幹事のO君が仕掛けてきた。いきなりのことで、誰も即答できず、その時は他の話題に流れたのだが、三次会に移って、再びO君が皆に訊ねた。

 

「ぼくはみんなと一緒に橋川さんに学んだけれども、他の分野へ行ってしまった、離れてしまったという気持ちを持っている。だからみんなに聞きたい。橋川さんはけっきょくのところ何を求めていたのか。で、その求めていたことの答えは得られたのか」

 

この問いに、M君は、「それは自分で答えるべき質問だね」と、賢者らしい答えで返した。なるほどそれは名答だとは思ったけれども、O君の核心をついたある意味で愚直な質問に感動し、ぼくは自分なりの答えを述べてみようと思った。

 

「橋川さんの問題意識の中心には、日本のファシズムとは何かという問題があった。もちろんそこから遡って研究は進んだのだけれども、最終的にはその中心に置かれた日本のファシズムとは何かというテーマに、橋川さんは還っていったのではないか」

 

すぐさま横から、「でも、橋川さんは詩人だった」と声が上がった。その声で、ぼくの答えは一瞬にひび割れてしまった。橋川さんは思想史の研究者であったことは確かだが、橋川さんの本質は詩人であるということが決定的であった。橋川文三ゼミの同期生のメンバーには、誰しもそういう思いが確かなものとして共有されている。だからもっと違う別の答えが必要だったのだ。

 

宴も終わりに近く、再びぼくは別の回答を披露してみた。

 

「橋川さんの仕事にもそれ自体に推移がある。橋川さん自体の思想史があったのだ。ダンテの神曲は、ダンテの魂が死後の世界を地獄・煉獄・天国と巡る話だが、橋川さんの仕事も同じように三層から成り立っている。『日本浪曼派批判序説』は自分の魂を切開する労作であり、あれは橋川さんの地獄巡りだ。そこから時代を遡って行き、さまざまな人の煉獄に生きる世界を描いた。これが橋川さんの本来の日本政治思想史の仕事になる。しかし最後には橋川さんは白鳥の歌のような調子を帯びた美しい語り方に到達している。まるで歴史を天国から見渡す視線を獲得しているかのごとく。したがって、橋川さんの仕事の全体は、地獄・煉獄・天国の三層を描いたダンテの神曲という作品とパラレルだ。これが橋川さんが何を求めていたのかという問いへのぼくの回答だ」

 

この話を聴いて、橋川文三研究家の肩書きを持つM君が、「それは誰も言っていない仮説だ、書くといいと思う」と、同意を示してくれた。

 

この好日シリーズで、ソクラテスを取り上げ、次に橋川文三を論じたが、この二人には共通点がある。二人とも、若者を愛し、友愛のみを信じた。その場にはいつも友愛に満ちた対話が残された。それがソクラテスと橋川文三のいる宇宙で起こった出来事であった。

 

ソクラテスのことをしのびつつプラトンが友愛の対話篇を創造したように、いつかぼくも橋川文三の不可思議な偉大さをもっと具体的に語るべきであろう。だが準備は整っていない。今は思いを一つの歌に託すのみ。

 

若者を深く愛する神ありて もしもの言わヾ、かれの如けむ

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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