国を挙げた韓国バッシングの中、1965年日韓請求権協定や、2018年10月30日の韓国大法院「徴用工判決」について、日本でいみじくも「識者」と呼ばれている人たちでさえもが誤解やデマや偏見をばらまいている、この『現代ビジネス』橋爪大三郎氏の9月1日付記事はその典型といえます。とりわけ氏は、日韓基本条約と日韓請求権協定の違いさえわかっていないようで、そんなことはちょっと原典に当たればすぐわかるのに、それさえしようとしない。この問題に取り組むのに調べもの一つもしなくていいという傲慢な態度にこそ「韓国のやることはすべて悪いはずだ」という植民地主義を見出さざるをえません。最後にはヒットラーと比較するという言語道断のことをやってのけています。植民地支配と侵略戦争でナチスに匹敵する蛮行を朝鮮およびアジア太平洋全般で行ったのはどこの国だったのでしょうか。この人はこの記事においては息をすれば間違いが口から出てくると言えるほどに事実誤認が多いですが、日本の報道機関や「識者」たちに共通している間違いも散見するので、これは橋爪氏一人の問題ではないという悲しい環境の中でこの批判記事の価値を見出してくれる読者を一人でも多く得たいと思う。@PeacePhilosophy 乗松聡子
ここで批判する対象の記事は:
橋爪大三郎
韓国・文在寅が「徴用工問題」で嘘をつき「反日扇情」する本当のワケ
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66658
文中、橋爪氏の記事の引用部分は青字にしてあります。
橋爪大三郎よ、恥を知れ
―「元徴用工問題」をめぐる右派の認識を問う―
成澤宗男(ジャーナリスト)
はじめに
もはや時代の雰囲気は、日中戦争時の「暴支膺懲」が叫ばれた世相と不気味なまでに酷似している。テレビを筆頭とするマスメディアやインターネットが日夜繰り広げる「韓国バッシング」は、理性と冷静さを欠いたまま、他国・他民族への憎悪を煽った80年以上前の拡張目当ての新聞と暴走する軍部の共同作為の悪夢を呼び覚ます。しかも「言論の自由」が建前となっているこの時代に、テレビ番組が韓国を取り上げる際、政府見解とは異なった意見を実質的に締め出しているのはなぜなのか。
おそらく特定の国とその指導者に対し、憎悪や侮蔑、中傷の類で一色に染まっていけばいくほど、自社の視聴率が上がるという商魂たくましい計算によるのだろう。それがどれほど社会的に無責任で危険な行為であるか、この業界の従業員らが自覚している気配は乏しい。
それと並行して、検索すると次から次と韓国への悪感情に彩られた記事が登場するインターネットが、テレビと同様に流言飛語の類を拡散するツールとなっている。その内容は、説得性など考慮外で幼児性を丸出しにした「わめきちらし型」から、一見知った風の「解説型」の二つのタイプに大別されようが、いずれも基本的認識の欠落という点では共通している。
だが前者は、90年代以降社会に登場した差別・排外主義グループと同様、騒がしいだけで内容が空疎すぎ、取り上げるだけの価値があるとは思えない。だが後者は、書き手が一定の社会的ステータスを有する場合が珍しくなく、それなりのリテラシーがある読者を獲得する可能性を否定できない。そのため、ここではそうした論者を取り上げることにする。
典型的な一人が、「東京工業大学名誉教授」という肩書の橋爪大三郎だが、「韓国バッシング」に便乗している論者のレベルの低さを如実に示しているという点で、俎上に載せる意味はあるだろう。題材は、「現代ビジネス」というサイトに9月1日に掲載された、「韓国・文在寅が『徴用工問題』で嘘をつき『反日扇情』する本当のワケ」なる記事だ。
Ⅰ 歴史の無知のオンパレード
ここで橋爪は「元徴用工問題」を論じているつもりらしいが、明らかに初歩的知識を欠いている様子が、冒頭から露呈している。
「徴用は、戦争の遂行に不可欠のものである。
たとえば大東亜戦争の当時、日本は、貨物船など商船をあらかた徴用した。戦略物資や兵員を輸送するためである。船員も、徴用された。彼らがいなくては、船は動かないからだ。これら商船のほとんどは、潜水艦や航空機の餌食となって、終戦までに海に沈んだ。船員も犠牲となった。痛ましいことだが、これが戦争だ。
1938年に国家総動員法、1939年に国民徴用令が施行されて、徴用が本格化した。徴用される労働者は、支払いを受けたが、十分でなく、徴用の評判は悪かった。労働力が不足して、学徒を動員せざるをえなくなった。
朝鮮では、1944年9月に、国民徴用令が適用された。
終戦までの1年弱の時期に、朝鮮の人びとが徴用に動員された。朝鮮半島では兵役が免除されていたので、それに代わるものという側面もあった。
徴用は、日本の法令にもとづくもので、違法なものではない。韓国ではこれを、『強制』徴用という。徴用はもともと法の強制力をともなうものなので、奇妙な感じがする」
今時、「大東亜戦争」などという用語を使うこと自体、時代錯誤もはなはだしいが、いくら何でも「朝鮮半島では兵役が免除されていた」はない。植民地下の朝鮮では1938年の「陸軍特別志願兵令」によって志願兵制度が始まったのに続き、1944年には徴兵制が敷かれ、敗戦までに約20万人が徴集された。徴用が、徴兵に「代わるもの」であった事実はない。
しかも、戦争を起こした当事国の「貨物船など商船」の徴用と、戦争政策決定の埒外に置かれた植民地下の他民族に対する徴用を一緒くたにするようでは、この問題の理解には貢献しない。それに橋爪は、1939年に閣議決定された「労務動員実施計画要綱」に基づく朝鮮人の「募集」も、1942年の閣議決定である「朝鮮人労務者活用に関する方策」に基づく「官斡旋」にも触れないのはなぜなのか。
徴用は、国家総動員法を根拠に従わないと罰則が下された「法の強制力」があったが、「募集」や「官斡旋」は形式上「法の強制力」を伴なってはいない。しかし「募集」であれ「官斡旋」であれ、朝鮮人は多くの場合、①植民地の警官や朝鮮総督府の官吏らによって本人の意思を無視して日本に連行され、②配属された工場や炭鉱・鉱山で自らの意思で辞めることができないまま労働を強制され,③職場では、暴力行為や賃金未払いが珍しくなかった、という点では徴用との本質的差異を認めがたい。
のみならず、働かされた企業が1943年の軍需会社法によって軍需会社に指定されると、その企業の朝鮮人は軍需被徴用者にされた。したがって、徴用工は「終戦までの1年弱の時期」に限られるのでは決してない。それ以前の「募集」や「官斡旋」によって朝鮮から連れてこられた強制動員被害者の方が、はるかに多いのだ。
加えて、「徴用は、日本の法令にもとづくもので、違法なものではない」など書くのは、あまりに的外れすぎる。当時の国際法に照らしても、1926年の「奴隷条約」の「奴隷状態」や1930年の強制労働禁止条約の「強制労働」に相当し、違法そのものだ。仮に「日本の法令にもとづくもので、違法なものでは」なかったとしても、③のような事実を正当化することはできない。
ちなみに韓国内で主要に用いられているのは「強制動員」あるいは「強制労働」だ。「韓国ではこれを、『強制』徴用という」などと勝手に断定して、「奇妙」などと揶揄するのはやめるべきだ。
徴用工に関する橋爪の誤りは、2018年10月30日の韓国大法院による新日鉄住金徴用工事件再上告審判決についても変わらない。
「韓国が『強制徴用』というのは、つぎのような理由だろう。
韓国は、日本統治時代をなかったことにしたい。間違ったものであると言いたい。1910年の日韓併合が、非合法だった(から、効力がない)と言いたい。朝鮮総督の統治が非合法で、強制力をもった徴用の命令が出せない。
ゆえに徴用はむき出しの暴力で、不法である。それを非難することは正しく、補償を求めることも正しい。その補償を求める道を閉ざしている日韓基本条約は、正しくない。
ゆえにこれも、無効である――。
このような考えから、1944年~1945年の徴用を、「戦犯企業」の「強制」徴用を、告発しているのだ。
そして、韓国の大法院(最高裁判所)も、この考えにもとづいて、元徴用工への補償を命じる判決を出している」
あたかも他の呼称がないかのように「韓国ではこれを、『強制』徴用という」などと勝手に決めつけているため、「つぎのような理由だろう」以下の記述は無意味になる。それ以上に、いくら読んでも「理由」の説明が何を言いたいのか、まるで理解不能だ。
だが徴用の法的根拠は、企画院が立案作業を進め、第一次近衛内閣が国会に提出した国家総動員法にある。1944年8月になって小磯国昭内閣がそれまで適用を免除されていた朝鮮人にも徴用を実施する「半島人労務者の移入に関する件」が閣議決定され、法的意味での朝鮮人の徴用工が誕生した。したがって、朝鮮総督府が「強制力をもった徴用の命令」を出したというのは歴史的に正確さを欠く。
おそらく判決文に目を通してはいないのだろうが、橋爪は「補償」と「賠償」の区別ができていない。これは損害賠償請求をめぐる裁判であって、大法院が被告の新日鉄住金に命じたのは「賠償」であり、「補償」ではない。なぜなら「賠償」は基本的に違法行為によって生じた損害に対する補填であり、「補償」は適法な行為によって生じた損害に対するそれだ。判決が、原告の損害が「植民地支配の不法性」という事実認定と不可分であると判断した以上、「補償を命じる」というのはあり得ない。
また、賠償に関連して元徴用工問題を論議する根拠は日韓請求権協定であり、日韓基本条約ではない。しかも、その日韓請求権協定が、「補償(注=賠償の誤り)を求める道を閉ざしている」などと、あたかも韓国側が解釈しているかのように断じるのも論拠不明だ。
日韓基本条約にしろ日韓請求権協定にしろ、大法院判決がこれらを「正しくない」とか「違法」などと断じている事実はない。無論、これらが「無効」だからという理由で、「元徴用工への補償を命じる判決を出し」たのでもない。基本にあるのは、判決にあるような以下のような事実認定だった。
「原告らは成年に至らない幼い年齢で家族と離別し、生命や身体に危害を受ける可能性が非常に高い劣悪な環境において危険な労働に従事し、具体的な賃金額も知らないまま強制的に貯金をさせられ、日本政府の苛酷な戦時総動員体制のもとで外出が制限され、常時監視され、脱出が不可能であり、脱出の試みが発覚した場合には苛酷な殴打を受けることもあった」
これを「反人道的な不法行為」として認定し、「かかる不法行為によって原告らが精神的苦痛を受けたことは経験上明白である」がゆえに、新日鉄住金に賠償(補償ではない)を「命じる判決を出し」たのだ。
橋爪が、前述のように「徴用は、日本の法令にもとづくもので、違法なものではない」などと的外れなことを書いているところをみると、大法院が徴用を「不法」と見なしていると想像し、それが気に入らないと思っているのだろう。だから、「違法なものではない」のに「不法」だとしているという不快感の延長で、大法院判決を批判したつもりになっているのではないか。
Ⅱ ありもしない事実の羅列
続く以下の記述も、さらに首をかしげざるを得ない。
「1910年の日韓併合は、不法だったのか。無効なのか。
日韓併合は、合法的に行なわれ、有効だった。この点には、なんの疑いもない。
これは、日韓併合が望ましかったとか、韓国の人びとの利益になったとか、いう意味ではない。よいことかどうかと、合法かどうかとは、無関係なのだ。
世界には、植民地が多くあった。それらはすべて合法で、有効だった。独立を果たした植民地の人びとも、それぐらいわかっている。
日韓併合が不法で無効だという、韓国の主張は、だから奇妙である。
日本は韓国を併合するにあたって、もちろん、アメリカやイギリスやフランスと、協議した。そのうえで、大韓帝国政府と協議して、併合協定を結んだのである。日韓併合は、当時の国際社会が認めたことだった」
まず、「よいことかどうかと、合法かどうかとは、無関係なのだ」などという言説は、軽々しく口にしない方がいい。ナチスが1935年に議会で「合法的に」可決した「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」からなる「ニュルンベルク人種法」が現在も歴史の審判から免れていないのは、それが当時「合法かどうか」ではなく、ユダヤ人の公民権と人権を剥奪したがゆえに「よいこと」ではなかったという理由による。
「合法」かどうかという問題より、それが果たして「よいことか」という価値判断がはるかに重く問われるケースも歴史上事を欠かない。「合法」であっても、「よいこと」ではない行為を当化する根拠には必ずしもなりえないという意味で、両者は「無関係」ではない。
日韓併合については後述するが、仮に、歴史的に世界中の植民地が「すべて合法で、有効だった」としても(このように言い切る学説を寡聞にして知らないが)、「独立を果たした植民地の人びとも、それぐらいわかっている」と断言する根拠は何なのだろう。
2001年の8月から㋈にかけ、南アフリカのダーバンで開催された第3回「人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に反対する世界会議」では、約500年前に西欧が手を染めた奴隷制・奴隷取引、植民地支配を検証し、旧宗主国の欧米諸国の 植民地支配責任を追及して謝罪と賠償を求める「ダーバン宣言」が採択された。今も「植民地の人びと」が、「それぐらいわかっている」などと、過去の暴虐と不正義に無頓着なのではあるまい。
リビアも2008年に旧宗主国のイタリアとの間で、植民地支配に対する「謝罪」と経済支援等を盛り込んだ「ベンガジ条約」を締結させた。英『テレグラフ』紙(電子版)の2016年11月7日付の記事によれば、インドの野党・国民会議派の有力議員で閣僚経験もあり、インドが以前に推薦した国連事務総長の候補輔者でもあった元国連事務次長のシャシ・タルールは、英国の女王エリザベスと首相(当時)のメイが、「英国による植民地時代のインド人に対する数々の虐殺行為について謝罪すべきだ」と発言している。
ありもしない「それぐらいわかっている」などという予断を根拠に、旧植民地諸国が過去を当然視しているかのように描いた上で、韓国が「日韓併合が不法で無効だ」と主張するのを「奇妙」だなどと貶めるのは、理論的に破綻していよう。
その「日韓併合」について、「アメリカやイギリスやフランス」と「協議」し、これらの国々が「認めた」の事実だ。だが、それが「日韓併合」の歴史的評価とさしたる関連性を持たないのは自明だろう。
日本が日清・日露戦争で当時の植民地争奪戦に参加した以上、すでに1902年にフィリピンを植民地化したアメリカや、インドで過酷な植民地支配を敷いていたイギリス、インドシナやアルジェリア等で同じようなことをしていたフランスと互いに植民地の支配権を確認し合うための「協議」ぐらいはするだろうが、それをもって日韓併合が「有効」であるとする根拠にはならない。また、帝国主義列強によって植民地支配が正当化され、「民族自決」という概念すらなかった時代の「国際社会」なるものを持ち出し、それが「認めた」としても同様だろう。
それほど「国際社会」を重要視するなら、「大東亜戦争」などという「国際」的に通用しない用語を使うのは改めるべきだ。同時に、1943年のカイロ宣言を忘れるべきではない。そこでは「アメリカやイギリス」(ルーズベルトとチャーチル)と、中国(蒋介石)が「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」と宣言している。すでに「国際社会」が、朝鮮における植民地支配を「合法」だの「有効」などとはみなしてはいなかった証拠だ。
さらに橋爪は、自論を述べるにつれて混乱の度合いが増していく。
「それにしても、徴用された朝鮮の人びとは、苦難を強いられた。理不尽で非人道的な扱いを受けた場合もあった。このことは、補償されなくてよいのだろうか。
日韓基本条約の交渉経過をみると、無償援助3億ドルの賠償は、もともと徴用などの苦難を補償するために、盛り込まれたものだ。それを踏まえ、《請求権に関する問題が、…(中略)…完全かつ最終的に解決された》と書いてあるのだ。
賠償を受け取った韓国政府は、それを公共投資などに使ってしまい、個人への補償にほとんど支出しなかった。でもそれは、韓国内部の問題だ。徴用された人びとが補償を求めるなら、韓国政府に求めるべきだ。それが、日韓基本条約の趣旨にかなっている。
元徴用工の人びとが日本企業を相手どって、補償の支払いを求める訴訟が、韓国の裁判所で多く起こされている。2018年10月30日には、韓国大法院(最高裁判所にあたる)が、原告4名に対し、各1億ウォン(およそ1千万円)の支払いを日本企業(新日本製鉄=現日本製鉄)に命じる判決を下した。
日韓基本条約に抵触する。
文在寅大統領は、三権分立をタテに、判決に干渉しない姿勢を示した。むしろ判決を、歓迎する様子さえある」
最初から誤りで、「無償援助3億ドルの賠償は、もともと徴用などの苦難を補償するために、盛り込まれたもの」などという事実は存在しない。日本政府ですら、こうした荒唐無稽な主張はしていない。
橋爪は、以下に書かれている日韓請求権協定の第一条に目を通したのか。
「1 日本国は、大韓民国に対し、(a)(略)三億合衆国ドルに等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から十年の期間にわたつて無償で供与するものとする。(略)(b)(略)二億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従つて決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から十年の期間にわたつて行なうものとする。(略)前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない」
この「3の規定」とは、「両締約国政府は、この条の規定の実施のため、必要な取極を締結するものとする」であり、ここではさしたる重要性はないが、計5憶ドルは「生産物」と「役務」に充てられ、現金で「支出」されたのではないことがわかる。
日本政府は、当時から日韓併合は「合法で有効」という立場で一貫しているため、協定には賠償の用語がない。日本側の表現では5億ドルの「経済協力資金」であって、韓国に対する賠償や補償に充てるなどという説明を、政府がこれまでしたことはない。ゆえに、「賠償を受け取った韓国政府」という記述自体が成り立たない。
確かに韓国側はそれを「公共投資などに」使ったが、日韓請求権協定によって「経済の発展に役立つものでなければならない」という枠がはめられていたからだ。したがって、支払われていないものを元徴用工が「韓国政府に求めるべきだ」という主張は無理があり、「韓国内部の問題」だけになりようがない。
なお、韓国ではこれまで、元徴用工に慰労金を支給するための法律が何度か制定された事実はあるが、いずれも立法の目的が「人道的見地」等と謳われており、日本の賠償責任を肩代わりするのが目的ではまったくない。
ところが橋爪は、日韓請求権協定の第二条1の「請求権に関する問題が、…(中略)…完全かつ最終的に解決された」という箇所を持ち出し、あたかもそれが存在しない「3憶ドルの賠償」を「踏まえ」たものであるかのように位置付けている。
周知のように安倍ら政府要人は、第二条1によって請求権問題は「解決された」のだから、今さら大法院が元徴用工問題で日本企業に賠償を命じるのは「ありえない」などと繰り返している。ところが、橋爪の大法院判決が「日韓基本条約(注=日韓請求権協定の間違い)に抵触する」という断定は、例の元徴用工問題を「韓国内部の問題」視する主張からきているのか。それとも、このような「解決ずみ」論からなのかよくわからない。
そもそも、「完全かつ最終的に解決された」という日韓請求権協定の記述を持ち出しても、大法院判決を批判する根拠にはなりえない。日韓両政府とも、日韓請求権協定で放棄されたのは国家間の損害賠償請求権=外交保護権であって、個人の請求する権利ではないという点で一致しているからだ。
つまり、外務省条約局長だった柳井俊二の国会答弁(1991年)で示されているように、「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません」という立場に他ならない。したがって、元徴用工が消滅してはいない個人の請求権を行使して司法に救済を求め、大法院が判定をくだすことに何の問題もない。
ところが、安倍と日本政府、新聞を先頭とする全マスメディアはこの事実を無視して、「完全かつ最終的に解決された」という文言だけを繰り返しながら、「国際法違反」などと誤った批判を繰り返している。
しかしながら、もし問題が「完全かつ最終的に解決された」のであるならば、これまで日本政府が原爆投下に巻き込まれた韓国人被爆者の「人道支援基金」に約40憶円を支出し、サハリンン残留の韓国人の「里帰り」支援や韓国帰国・定住に向けた事業に20年以上にわたり、約83億円を投じてきた措置の説明がつかなくなる。
評価は別にして、元日本軍「慰安婦」の被害者女性に対しも、「アジア女性基金」を通じて医療・福祉面で支援した。これらの例は、「植民支配の不法性」がもたらした人道・人権面での被害が必ずしもすべて「解決された」のではおらず、同時に「解決」の努力を日韓請求権協定が妨げるものではないないという事実を、政府自らが認めたに等しい。ならば元徴用工に、なぜ同じ対応ができないのか。
Ⅲ 文在寅はヒトラーか
さらに橋爪は、元徴用工の問題について次のように続ける。
「徴用工問題の本質は、何だろうか。ここまでの準備で、それを明らかにできる。
韓国と日本の主張が対立している。この外見にまどわされて、これを、両国の外交問題だと考えてはいけない。
外交問題なら、話し合いと、歩み寄りが必要だろう。だが、この問題に限っては、こういうやり方は、かえって害がある。日本は、国際法の原則に従っている。相手の議論が無茶である。何年かかろうと、じっくり待つしかない。
徴用工問題の本質は、韓国の国内問題である、と見抜くことが、まず第一だ。
韓国は、国際法の原則を逸脱している。なぜそんな考え方なのか、なかなか第三者には理解できない。
なかなか理解できないのは、近代的な考えではないからである」
まず、この日本が「従って」おり、韓国が「逸脱している」という「国際法」とは、いったい何を指すのか「第三者には理解できない」。国際法と言っても国際機構法から海洋法、国際人権法、国際経済法、国際環境法、武力紛争法等と分野は様々だが、両国がこの問題で順守すべき「国際法」とは、何を指しているのか。また、韓国が「理解できないのは、近代的な考え方」ではないからと断定するが、これも根拠不明だ。
ここでも「徴用工問題の本質は、韓国の国内問題」などと再び誤った言い分を繰り返しているが、日本政府自身が個人の請求権を認めている以上、訴訟での被告は日本企業であるから、「韓国の国内問題」で収まるはずがない。「害がある」のは、むしろこうした誤った思い込みではないのか。
では今後どうすればいいのかという段になると、以下のように根拠なきレッテル張りだけが横行していく。
「いまの韓国は、水戸藩士が、政府を乗っ取ったような状態である。『反日』は、攘夷。頭を冷やしなさい、と言うしかない。
文在寅政権は、国際条約(日韓基本条約、日韓併合条約)を否定することで、人気を集めている。
どんなに異常か。それを照らし出すもうひとつの補助線が、ヒトラーだ。
当時のドイツは、ヴェルサイユ条約(第一次世界大戦のあとの平和条約)の賠償に苦しんでいた。こんな条約はいやだ、という気運がみなぎっていた。ヒトラーは、「ヴェルサイユ体制」を攻撃し、オーストリアなどを併合して、国民の喝采をあびた。結局、戦争になって、自滅した。
国際条約(平和条約、基本条約)を否定するのは、危険である。平和を脅かし、戦争になる。国民感情をもてあそび、国際条約を攻撃するなど、絶対にやってはならない。
このような文在寅政権を相手に、話し合いの余地はない。
韓国が考え方を変えるまで、どんなに時間がかかっても、待つことである」
「頭を冷やしなさい」と忠告されるべきは、むしろ朝から晩まで熱に浮かされたようにテレビを筆頭とするマスメディアが隣国に憎悪を浴びせている日本の方だろう。そもそもいつ、どこで、文在寅が「日韓基本条約」を「否定」したのか。かつての「日韓併合条約」については、それを違法だとして「否定」したのは別に文在寅だけではない。1950年代に日本との条約交渉の場に臨んだ李承晩政権時代の代表からそうで、以後の政権に踏襲されている。
善意に解釈して、橋爪が日韓請求権協定と混同しているとしても同じことだ。8月23日に、韓国大統領府の国家保安室第二次官の金鉉宗は、例のGSOMIAの終了に関し談話を発表したが、そこでは「韓国政府は、1965年の請求権協定を否定したことはない」と強調している。また、韓国外務省のスポークスマンが、米『ウォールストリート・ジャーナル』(電子版)の9月6日付に寄稿した記事でも、「韓国政府は誠実に日韓請求権協定に従ってきたし、協定を破る(breaking)意図はない」とある。
協定に対してこうである以上、それと一体である日韓基本条約も推して知るべしだろう。文在寅が日韓基本条約を「否定」したなどという虚偽を前提にし、ヴェルサイユ条約を「攻撃」して「国民の喝采をあびた」というヒトラーと「異常」さで一括りする論法は、あまりに乱暴すぎはしないか。
なお、橋爪がここで突然、「水戸藩士」を持ち出したのは以下の理由によるらしい。
「徴用工問題は、『桜田門外の変』である。アメリカと条約を結んだ老中の井伊直弼が、攘夷派の水戸藩士に襲われた。(略)もしも水戸藩士のような攘夷派が、日本の国政を乗っ取っていたら、日本はひどいことになったろう」
これも誤りで、「桜田門外の変」で井伊直弼を殺害した18人中、1人は薩摩藩の脱藩者で、残り17人のうち14人は「水戸藩士」ではなく脱藩者だ。残り3人は神官だった。水戸学の本家だから水戸藩に攘夷派は無論いたが、実際に藩として攘夷を掲げて活動し、幕府と刃を交えた長州と違い、御三家ゆえに討幕活動もしなかった「水戸藩士」が「政府を乗っ取ったような状態」とは、例えとしてはいかにもまず過ぎる。
文在寅をヒトラーと同一視するだけでは気がすまず、韓国を「水戸藩士」ならぬ幕末の攘夷派に例えているが、むしろ①理性を忘れた感情の優先②事実の裏付けの乏しさ③現実感の喪失④執拗な他者排撃の指向―という点で、橋爪もその一員と思われる「嫌韓派」や「ネトウヨ」の類こそ、より幕末の攘夷派により近い。
しかも、彼らは今やマスメディアを「乗っ取った」如きの状況にあるがゆえに、深刻さは幕末当時を上回る。こうした人々には「頭を冷やし」て、せめて他者の言い分に耳を傾けるべきだろう。文在寅の今年の新年演説や「3・1運動記念式」、「8・15光復節」での演説だけとっても、どこに「反日」で、「国際条約を否定することで、人気を集めている」ような兆候があるのか。
演説で日本の植民地支配を批判しているのが「反日」だというなら、現行の大韓民国憲法前文では「三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統」を「継承」すると謳っている。その大韓民国臨時政府の憲章宣布文には、「我大韓民族が獨立を宣言をしたときから男女老少、 あらゆる階級、あらゆる宗派は勿論、一致團結して東洋のドイツたる日本の非人道的暴行下で極めて公明に極めて忍辱し、我民族の獨立と自由を渴望し、實思と正義と人道を愛好する国民性を表現した」と記されている。
もし、この大韓民国憲法ですら「反日」だと目くじらを立てるなら、どこかの嫌韓雑誌のように「韓国なんて要らない」とばかり悪態をつき続けるしかなく、もはや「話し合いの余地はない」。
しかし、いかに見当外れであってもわざわざ幕末の歴史を持ち出したことは、「国際条約(平和条約、基本条約)を否定するのは、危険である」「国際条約を攻撃するなど、絶対にやってはならない」などという、あまり他では聞いたこともないような橋爪の自説に対する懐疑の材料を、自ら提供したことになりはしないか。
江戸幕府が1858年に結んだ安政五カ国条約(対米英仏露蘭)は、治外法権や関税自主権の放棄、一方的最恵国待遇の条項があり、「不平等条約」とされる。そのため、明治期になって自由民権運動や啓蒙派知識人によって「否定」され、さかんに「攻撃」された。歴代政権もこの「国際条約を否定」して不平等性を改めるため、苦心惨憺した挙句に56年目にしてようやく改定されたが、橋爪は「国際条約」はいったん調印されたら末代まで「否定」せず、「絶対に」肯定し続けねばならないとでも考えているのだろうか。21世紀の現在まで、安政五カ国条約が「否定」されるべきではなかったとは、誰も思わないであろうが。
Ⅳ 民事と刑事の違いすら無知
文在寅を批判したいがため、本人が「国際条約」を「否定」しているなどという虚偽の事実を書いたことが、ここまでおかしな言説を導くまでに至ったのだ。そしてそのおかしさは、「それでは、文在寅大統領が、国際法の原則を理解していたら、徴用工問題でどう行動すればよかったのだろう」という、自らの問題提起の回答で頂点に達する。
「大法院で判決が出たのは仕方がない。三権分立の原則があり、行政府が介入できないのはその通りだ。けれども、判決(法判断)を下すのは司法でも、執行するのは行政府である。
たとえば、死刑の執行。死刑判決を下すのは、裁判所だが、刑を執行するのは、政府である。判決は、法務当局に、刑の執行を命じるものである。刑を執行するかどうかは、政府に裁量の余地がある。恩赦や特赦もある。死刑囚が心神喪失状態になってしまえば、死刑の執行を見合わせることになってもいる。
徴用工問題では、司法判断と国際条約の整合性が問題になる。それに責任をもつのが、行政府トップの文在寅大統領である」
この「司法判断と国際条約の整合性」とは何を意味しているか不明だが、それ以上に橋爪は、大法院判決が民事訴訟の判決であって、行政事件訴訟判決ではないという常識以前の事実すら疎いようだ。だから、大法院判決とは関係もない「執行するのは行政府である」だの、「刑を執行するかどうかは、政府に裁量の余地がある」だのと、およそ無意味な記述を並べ立てるのだろう。
民事訴訟の判決に「行政府トップ」が「責任をもつ」などという原則では、法治国家ではありえまい。もし「責任」というなら、敗訴した新日鉄住金が原告にすみやかに判決に従って約1憶ウォンを支払うことが第一義的な「責任」の取り方のはずだ。
しかも民事訴訟の判決後に、「行政府」が何を「執行」せよと言うのか。同社のように、判決後も支払い命令に応じない債務者の財産差し押さえ・回収等の「執行」手続きを担うのは裁判所であり、「行政府」ではない。実際、時事通信の2019年1月2日の配信記事によれば、「韓国最高裁が昨年10月、元徴用工の訴訟で新日鉄住金に賠償を命じた問題で、原告側は2日、韓国国内にある同社資産の差し押さえを裁判所に申し立てたと発表した」という動きもあった。
無論、司法の判断を行政府は尊重せねばならず、元徴用工の訴訟が政治問題化している以上、「行政府トップの文在寅大統領」が無作為でいることは許されまい。だが、それでも民事訴訟の判決について「刑を執行する」だのといった話になるはずがない。加えて橋爪は、以下のように怪しげな「解決策」を口にしている。
「大法院が命じた補償は、韓国政府が、日本企業に代わって支払う。それが、大法院の判決と、日韓基本条約を尊重することになる。
このため、韓国政府の資金で、元徴用工への補償を行なう財団を設立する。民間からの募金も受け入れる。今後、似たような判決が出ても、この財団が、日本企業に代わって補償する。以上。
考えてみれば、韓国の大法院の判決が、そもそもおかしいのだ。ワイマール共和国の最高裁判所が、ヴェルサイユ条約は違法だ、と判決を下すようなものだ」
ここでも「補償」と「賠償」を混同しているが、「徴用工問題の本質は、韓国の国内問題である」などと錯覚しているから、こんな身勝手極まる提言が飛び出すのだろう。「日本企業」の責任を認めた大法院判決を「尊重する」なら、「財団」なるものに第一義的に「支払う」べきは「日本企業」になるはず。なぜ韓国政府が、「代わって支払」わねばならないのか。それに、日韓基本条約ならぬ日韓請求権協定を「尊重する」というのなら、日韓請求権協定には、元徴用工ら植民地支配の犠牲者に対する賠償問題は含まれていないと判断した大法院判決を「尊重」して、日本政府も「支払う」ようにしないと話がおかしくなる。
ちなみに、韓国の『ハンギョレ』新聞の日本語版(電子版)6月20日付によると、「外交部は19日『訴訟の当事者である日本企業を含め、韓日両国の企業が自発的出資で財源を造成し、(裁判所の)確定判決を受けた被害者に慰謝料当該額を支給することで、当事者同士の和解がなされることが望ましいという意見が提起された』とし、『韓国政府は日本側がこのような方案を受け入れた場合、日本政府が要請した韓日請求権協定第3条1項の協議(両国間の外交的協議)の受け入れを検討する用意があり、このような立場を最近日本政府に伝えた』と発表した」とある。
これに対し、すぐに「日本政府は拒否の意思を表明した」というが、最初から元徴用工の人権救済という視点がないから、こうした対応をするのだろう。被告の日本企業にしても、敗訴したにもかかわらず命じられた原告への支払いすら拒否している。これも安倍を筆頭とする「解決済み」という怒号に支えられてのことだ。下手に日本企業が「出資」でもしようものなら、現在の異様な世相ではどれだけのバッシングが飛び出すか、見当もつくまい。
それにしても、橋爪が自身の「財団」構想の可能性を本気で信じているとしたなら、韓国の国民もよほど見下されたものだ。自国が隣国に無数の人権侵害事件を起こしておきながら、被害者への救済は隣国の責任とするような言い分を、彼らが受け入れるとでも考えているのだろうか。新日鉄住金や三菱重工業といった日本企業が、過去にどれだけひどい仕打ちを元徴用工に加えても、賠償金を支払うのは韓国だというのだから。
橋爪はこの記事の別の個所で、安倍が韓国に対して始めた「日本の輸出管理強化」を「とても正しい」と褒めたたえた上で、その理由として「韓国の人びとが、考え方を変えるチャンス」だからと主張している。ここでも覗いているのは、「圧力を加えれば相手は屈する」と安易に想像するような、右派に顕著な韓国への見下しではないのか。
この「ヴェルサイユ条約」云々の例えも、見当違いがはなはだしい。大法院の判決は、日韓請求権協定の当事者である日本政府が「植民支配の不法性を認めない」と指摘しているのであって、日韓基本条約や日韓請求権協定を「違法」と見なしているのではない。
Ⅴ 「日韓併合」正当化論に潜む心理
このように間違いに間違いを重ねた挙句、橋爪が導いた結論はこうだ。
「文在寅大統領は、これまでの反日を急にやめ、国際法の原則どおりに行動し始めるなどできないだろう。『反日』は文大統領の看板だからだ。
文大統領はなぜ、『反日』なのか。なぜ韓国の人びとは、『反日』の文大統領を選んだのか。それは、韓国のナショナリズムの、成り立ちと関係がある。
韓国が、自由や民主主義といった価値観に立脚するなら、北朝鮮と厳しく対立しなければならない。南北を統一するとしても、アメリカや日本とがっちりスクラムを組み、南が主導して北を吸収するかたちをめざさなければならない。
しかし文在寅大統領は、国際法の原則よりも、韓国ナショナリズムを優先する。北との協調を重視する。それには、南北の共通の敵・日本を、悪者にしなければならないのである。歴史が本当のところ、どうあろうと。
だが、正しい道に戻るチャンスは残されている。忍耐強く、この隣国を見守るほかはない」
またもや、正体不明の「国際法」の登場だ。しかし、繰り返すように国際法という単一の成文法典はないのだから、その具体的名称と条文を指摘しない限り、文在寅に説教がましく忠告しても、本人が「行動し始める」のは困難であるのに違いない。
さらによくわからないのは、「北との協調を重視する」のが、「韓国ナショナリズム」なのだろうか。李承晩やかつての韓国の軍事政権は「北朝鮮と厳しく対立」したが、格別「自由や民主主義といった価値観に立脚」していたとは思われないし、「韓国ナショナリズムの、成り立ち」から除外される存在でもないだろう。
文在寅は安倍を相手にしないだけで、歴代政権と同じようにアメリカと「がっちりスクラムを組」もうとしているのは疑いないが、こうした姿勢は文在寅の「韓国ナショナリズム」と自己矛盾をきたしているということなのか。その「韓国ナショナリズム」とやらは、「国際法の原則」と対立概念らしいが、これではすます橋爪の言う「国際法」とは何を指すのかわからなくなる。しかも「日本を、悪者に」するという批判がましい指摘は、戦後の保守派が軍事時代を含む韓国の歴代政権に投げかけてきたものでもあるが、文在寅は特に別格だとでも言いたいのだろうか。
全般的に、文在寅があたかも「反日」を看板にすることで延命を図ろうとしているかのような認識がありありだが、これも妄想に等しい。韓国のいくつかの世論調査が証明しているが、日本軍「慰安婦」問題や韓国海軍の「レーダー照射」事件、あるいは元徴用工といった日韓の問題で、日本側が韓国政府の「反日姿勢」の表れと見なすような態度を文在寅が示そうが示さまいが、現政権の支持率と連動は必ずしも連動していない。そのため、文在寅が「反日」を「看板」にせねばならない必要性も疑わしく、本人の言動を観察してもそうした痕跡は乏しい。
もし、現在の韓国の国民が「反日」の気運を煽られているとしたら、それは「解決済み」だの「国際法違反」といった、安倍の大法院判決と韓国政府に対する攻撃に象徴される敵対的姿勢が原因として考えられ、文在寅が格別「反日」だからではあるまい。むしろ安倍の方が、政権維持に利用するためか、「反韓」感情を率先して煽り、意図的に韓国を「悪者に」しようとする下心が露骨だ。むしろ、こちらの方を「やめ」させることが急務ではないか。
それにしても、「忍耐強く」とはなんという冷酷で的外れな認識か。マスメディア同様、橋爪は大法院判決の原告の存在など頭の片隅にもないのだろう。もともとの原告4人のうち、生存者は94歳の一人だけだ。せめて一人だけでも、大法院で勝訴したのだから、存命中に人権侵害が速やかに救済される方向で解決を図るというのが人道上の最低限の務めだろう。だがそれは時間との闘いとなり、「忍耐強く」だとか「何年かかろうと、じっくり待つ」などという姿勢になりようがない。
加えて、これまで見てきたような橋爪の歴史的知識の浅さからすれば、「歴史が本当のところ、どうあろうと」などという物言いは慎むべきだ。その上で、前述の「日韓併合は、合法的に行なわれ、有効だった。この点には、なんの疑いもない」という、橋爪のみならず政府や右派、「嫌韓派」がそろって共有する「歴史認識」について検証を試みてみたい。
この「認識」だと、日本は日韓併合で悪事を働いてはおらず、それゆえに歴代韓国政府や大法院判決のように「当時の日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した反人道的な不法行為」を口にするのは、「日本を、悪者にしなければならない」ための言いがかりで、「反日」という感情・思考タイプの現れになりかねない。
1910年に調印された日韓併合条約について、ここでは限られた範囲でしか言及できないが、そもそもこの条約の日本側の調印者である、外交事務を遂行する等の巨大な権限を有した統監(初代統監は伊藤博文)という官職は、1905年の第二次日韓協約(乙巳条約)によって初めて設けられた。そのため、以前から論議されているように第二次日韓協約が違法・無効であればこの統監という地位に法的正当性はなく、日韓併合条約についても違法・無効となる。それを踏まえて、ここでは以下の2点だけに触れる。
① 1905年当時の習慣国際法によると、国家代表者に対する強制は、調印された条約が無効とされる理由になるとされていた。実際、調印前から日本軍は韓国の首都だった漢城(現在のソウル)を包囲して心理的に恐怖感を与え、それを背景に韓国駐箚軍司令官の長谷川好道らが韓国の大臣たちに同意するよう強制して回った。また、全権大使の伊藤も大韓帝国の元首である皇帝の高宗に対し、協定を拒めば「貴国の地位はこの条約を締結するより以上の困難なる境遇に座し、一層の不利益なる結果を覚悟せられ」などと、公然と戦争をほのめかして恫喝したのは、有名な事実だ。である以上、第二次日韓協約もそして日韓併合条約も、違法・無効と見なされる。
② 事実、高宗が1906年6月に米英仏露ら主要9カ国の元首に宛てた親書によれば、「政府の大臣が調印したとされるものは、真に正当なものではなく、脅迫を受けて強制的に行なわれた」「自分は政府に対して調印を許可したことがない」「政府会議について云々しているが、国法に依拠せずに会議を開いたものであり、日本人が大臣を強制監禁して会議を開いた」と実態を説明している。「調印」の当事国の元首が強制の事実を認めている協約が、違法・無効でないはずがない。
同時に、百歩譲って日韓併合条約が形式的に「適法性」を有していたとしても、そのことで主権国を滅亡させ、軍事力によって他民族を支配するのを正当化することはできないはずだ。よく聞かれる「当時は他の国もやっていた」という言い訳じみた理屈も、正当化の根拠にはなりえない。
橋爪のように「日韓併合は、合法的に行なわれ、有効だった」とする論者たちは、おしなべて元徴用工のように日本の司法ですら認定した人権侵害の実態に目を向けようとしない点で共通している。おそらく、他者の悲しみ、痛み、苦悩、涙を受け止め、あるいは受け止めようとする人間的能力が、最初から乏しいためとしか考えられまい。祖国が日本によって滅亡させられるのを座視できなかった朝鮮の人々がどれほど殺傷され、肉体的・精神的に残虐な仕打ちを受けたのかについて想像力すらなさそうな論者たちに、「元徴用工の問題とは人権侵害の救済の問題なのだ」と説いても、理解を得るのは期待薄なのかもしれない。
この国が直面している課題は、「韓国ナショナリズム」ではない。大日本帝国の否定しようがない植民地支配の不当性と暴虐性を当然ながら記憶にとどめているがゆえに、日本の「すべて解決済み」という言い回しに象徴される歴史的事実の無頓着に対する隣国の正当な反発を「反日」などとレッテルを貼り、最初から相互理解と問題解決の努力など放棄して、飽きもせず悪意をむき出しにしているだけの「日本ナショナリズム」こそ、克服されねばならない。
だが、戦後に類例を見ないような現在の狂熱状態は、日本が「正しい道に戻るチャンスは残されている」という楽観論を成立させる余地を狭めている。韓国から聞こえてくる声は「反安倍」であっても、右派のこり固まった「反日」というイメージとは様相を異にするという指摘すら伝わりにくい現状は、さらに絶望感を募らせる。この国に、理性が回復するのはいつになるのか。
おわりに
ここで取り上げた橋爪の記事は、全編を細部にわたって批判し尽くす余裕はなかったが、引用した部分は最初から最後まで間違いだらけで、インターネットに溢れる「解説型」の「嫌韓」記事の典型だろう。世間的に「学者」と見なされている論者で、ここまで基礎資料に目も通さずに物事を論じている例は、おそらくそう多くはないのではないか。
世を挙げての「嫌韓」の狂熱に付和雷同して、およそ論じる資格があるか疑わしいにもかかわらず口を出したというのが実情だろうが、個々の間違いは共通して他の類似記事にも散見され、正面から批判する題材にしたのは必ずしも間違った選択ではないはずだ。
このような記事に共通する人間的共感性の貧しさを指摘しても、それが心理レベルであるがゆえに、冷静さを失った集団内で何かの変化が生じるのは期待薄だろう。しかし、少なくとも事実誤認だけは指摘する必要がある。感性の問題以前に、書かれていることの誤りが全体的な理解を妨げているケースが往々にしてあるからだ。後はこの一文が、暗い時代を呼び覚ますような世相の逆流に、少しでも抗する役割が果たせるよう祈るしかない。
(敬称略)
初出:「ピースフィロソフィー」2019.10.01より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.com/2019/10/hashizume-daizaburo-shame-on-you-on-his.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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