シオニストの蛮行をささえるユダヤ神話
いまネタニヤフ政権(=シオニスト)とイスラエル軍は、ガザにおいて残虐非道な攻撃を続けている。病院への攻撃もいとわず、乳児が死亡していくことをも無視して惨劇を引き起こしている。しかし、巻き上がった国際的非難にもかかわらず、彼らがこれだけ徹底した蛮行を続けられるのはなぜであろうか?
それは、いわゆる「ユダヤ神話」が彼らシオニストの蛮行を支えているからだ。
彼らの蛮行の根底には「ユダヤ神話」がある。この「ユダヤ神話」が、まずは主観的には彼らの残虐非道を可能にする。カナンの地=パレスチナの地は神から与えられた我々の「約束の地」=「帰還すべき我々の領土」という俗化した民族主義、植民地主義から始まり、それは植民・占領地=「生存圏」の死守・拡大から「脅威の徹底排除」となり、それがさらに軍事優先となっていくのは必然の流れだった。そして、その軍事優先が道徳的・倫理的崩壊を引き起こしていったのだ。これはヒトラーの「東欧は我らゲルマン民族の生存圏」という主張と酷似している。軍事優先、道徳的・倫理的崩壊に至った点も同じである。
他方、シオニストはこの「ユダヤ神話」を世界に流布し浸透させることによって、世界の思考を霧の中におとしいれ半覚半眠、いや、いわば思考停止させることに成功した。だからこそ彼らは戦後70年以上にわたってパレスチナ人を攻撃・弾圧し、中東戦争を戦い、中東諸国に対して圧倒的に優位な軍事行動を展開できたのである。
従って「ユダヤ神話」を解体して、それが虚構にすぎないことをイスラエル国内はもちろん世界に浸透させることが、ユダヤ人問題とパレスチナ問題の解決につながることになる。
そこでまずは、この「ユダヤ神話」が旧約聖書に「もとづき」つつ、シオニストによって捏造されたものであること、それを再確認することが必要である。
「故郷を離れなければならなかったにもかかわらず、ユダヤ人は、全ての離散体験を通じ、つねにイスラエルの国に忠実でありつづけ、政治的自由を回復する希望をもち、そこに戻るために絶えず祈った。この歴史的愛着を動機とし、ユダヤ人は何世紀にもわたり、父祖の国への帰還をめざして努力してきました。
イスラエル建国宣言 1948年
「私は追放先の町の一つで生を享けました。それはローマの地方総督ティトゥスがエルサレムの街を破壊し、イスラエルをその国から追放した歴史的惨事の結果なのです。しかし、どんな時もつねに変わらず、私は自分がエルサレムで生まれたかのように想像してきました」
シュムエル・ヨセフ・アグノン ノーベル文学賞の授賞式で 1966年
(シュロモー・サンド 「ユダヤ人の起源」、浩気社、2010年 p.203)
以上のイスラエル建国宣言やノーベル賞受賞者の挨拶は、典型的なシオニズムの言辞である。以下で述べるように、実は歴史的事実としての「離散」や「追放」はなかったのだ。「父祖の国への帰還をめざ」すこともなかった。
近代ナショナリズムが「ユダヤ民族」を捏造
これらはいずれも聖書を俗化させたイデオロギーに他ならない。シオニストは、近代ナショナリズム・民族主義によって「ユダヤ民族」を捏造・創造した。その際には、いずれの民族主義でも同じだが「民族」のアイデンティティを創り上げるには、古き神話が必要だった。つまり、「ユダヤ民族」が太古のはじめから連綿と存続してきたという神話が不可欠だったのだ。そして、この不可欠の神話の創造にとって、材料としての聖書ほど好都合なものはなかった。
アラブの民・パレスチナの民を追い出しパレスチナの地を奪うために、都合の良い「約束された土地」という旧約聖書のフレーズが最大限利用された。そしてそれら聖書の記述をあたかも歴史的事実であるかのようにみせかけつつ、その後のユダヤ人の歴史を「ユダヤ神話」としてつくりあげた。つまり、この「ユダヤ神話」は、イスラエル建国前後から始まったアラブの民・パレスチナの民の暴力的追放とパレスチナの地の収奪を、いわば神聖な衣を着せて正当化する武器となったのである。
「ユダヤ神話」がいかに強烈にシオニストの頭脳にたたき込まれてきたか。それを知る格好の一例としてシュロモー・サンドが挙げるのが、イスラエル軍の元参謀総長、元国防大臣のモシュ・ダヤンのエッセイである。ダヤンはイスラエル建国直後の第一次中東戦争(1948年)に参加、第二次中東戦争(1956年)でも指揮を執り、第三次中東戦争(1967年)と第四次中東戦争では国防相として戦争指導にあたった。かれのエッセイ「聖書と共に生きる」を、サンドは次のように紹介している。
「エジプト脱出とシナイ砂漠放浪(モーセの「出エジプト」―引用者)についての描写は1956年の第二次中東戦争の中にいわば浸っている。カナン征服の物語は感動的に素描され、自然のことのように1948年の紛争と、いやもっと適切に云えば、1967年のヨルダン川西岸地区の征服とまじりあっている。アラブ諸国に対するイスラエルの軍事行動はすべて、巨人ゴリアテに対するダビデ少年の勝利を象徴している。聖書は現代期おけるユダヤ人の存在と植民活動の最高の正当化であり、すべての戦闘は古代における行動のこだまなのだ。作品はイスラエルをダビデの強力な王国になぞらえ、ヨルダン川から海まで、また砂漠からヘルモン山まで広がるであろう「唯一無比のイスラエルの地」に住みたいという筆者の願いを隠しもせずに記して終わるのだ。」(同書p.181)
聖書を利用したユダヤ神話は破綻
まさにダヤンにとって、現代のイスラエルの戦争は聖書の世界と混然一体となっていることがうかがわれる。
だが、シオニストが自らを正当化するためにつくりあげた「ユダヤ神話」は、歴史的事実ではない。その殆どが歴史学者や考古学者によって、歴史的事実としては否定されている。その概略は以下の通りだ。シュロモー・サンドの大著「ユダヤ人の起源」の当該部分を要約すると次のようになる。
1、モーセの「出エジプト」はなかった。
また、「出エジプト」後の「カナンの地」の征服・定着もなかった。モーセの「出エジプト」は紀元前13世紀とされるが、そのころのカナンの地はエジプト・全能のファラオが支配していた。従って聖書に従えば、モーセはエジプトからエジプトへ「イスラエルの民」を導いたことになってしまう。カナンの征服とそこへの定着はなかった。であれば、シオニストが主張する「カナンの地への帰還」=パレスチナへの帰還も虚構にすぎない。
(だが、「ユダヤ神話」を否定するサンド自身が、「出エジプト」はなかったことを知った時「衝撃でした」と述べている。それだけユダヤ神話は浸透しているのだ。
2、ダビデ、ソロモンの時代に「栄光ある王国」は存在せず。エルサレムは小さな寒村。
シオニストにとって、かっての「栄光あるダビデとソロモンの統一王朝」は、「ユダヤ民族」の民族的結集軸として欠かすことができない。この統一王朝は、彼らのいう「ユダヤ民族」の歴史の中で最もめざましい栄光に包まれた時代であった。しかし、これらの時代(紀元前10世紀)に強大な王国が存在したという証拠は何もない。そのころのエルサレムは小さな寒村でしかなかった。考古学的発掘によって、それが明らかになっている。
3、イスラエルの民の追放=ディアスポラ(離散)もなかった。
追放は紀元70年のローマによる第二神殿の破壊時に起こったとされる。だが、中東においてローマ人はいかなる「民族」の組織的追放もおこなっていない。ユダの国から多くの人々が追放されたいかなる痕跡もない。神殿の破壊以降(紀元一世紀末以降)、経済は復興し人口は増え、ユダヤ宗教文化も繁栄期にはいった。紀元2世紀の反ローマ反乱でも、ユダの住民の圧倒的多数は追放の憂き目にあうことはなかった。
従って、いわゆるディアスポラ(離散)はなかった。ローマによる追放以降ユダヤ人は2000年にわたって世界に離散したというシオニストの主張は虚構である。
4、現在のパレスチナ人とハマスは、かって古代ユダヤの地に住んでいた人々の子孫である。
シオニストはローマによる追放がなかったとしても、7世紀のイスラムの征服によりユダヤの民は追放されたとしていた。だがイスラムがユダヤの民を追放した証拠はない。当時の多くのユダヤの民は農民であり、農民は土地から離れなかった。農民はイスラム教への改宗で税を免除され、改宗は増大した。またユダヤ教徒は税を払えば、改宗を迫られることはなかった。アラブ人とユダヤ人は、7世紀以降のみを見ても千数百年も平和裏に共存してきた。
いずれにしても、追放はなかった。ディアスポラもなかった。であるからハマスの戦闘員のほうが、現在のイスラエル人よりユダヤの民の子孫である可能性が高い。
5、離散(ディアスポラ)後に「どんな時もつねに変わらず」「父祖の国への帰還をめざして努力してきた」ことはない。
中世という長い期間を見ても、ユダヤ著述家はユダヤ人に関する歴史記述を行っていない。彼らに関する歴史著書はただの一冊もみあたらない。これはユダヤ人自身が過去を振り返らなかったことを示している。“ラビのユダヤ教”は近くであれ、遠くであれ、自らの過去に視線を向けることをかたくなに拒否していた。彼らの視線は、メシアに道を開く狭き門が開けられる待望の一瞬に向かって張りつめていた。紀元1世紀末にユダヤ人歴史学者ヨセフスが「ユダヤ古代史」を著した。だがそれ以降ユダヤ人による自身に関する歴史著書はみあたらず、その後1600年たって18世初めにやっと、ジャック・バナージュがユダヤ人の宗教について執筆した(バナージュはユグノーの神学者)。だが、それは、古代ヘブライ人と彼の同時代のユダヤ共同体の間に連続性とつながりを認めていない。
シオニストにとって欠かすことのできない「ユダヤ神話」のほとんどは、いまや世界のほとんどの学者、研究者によって歴史的事実として認められていない。
「イスラエルの歴史家、イスラエル・バルタルの言によると、「ユダヤ人の祖国追放の神話は、せいぜいポップ・カルチャーの領域で健在ぶりを発揮するのみであって、歴史家の真剣な議論においてはもはやほとんど居場所を失っている」ということです」
(ヤコブ・M・ラブキン 「イスラエルとは何か」 平凡社新書 2012年 p183)
「聖書の記述を無批判に史料として用いて書かれた族長時代の歴史や土地取得時代(カナンの地の征服・定着―引用者)の歴史は、今や大筋で否定されていることはこれまで見てきたとおりである」
(長谷川修一 「聖書考古学」 中公新書 2013年 p213)
「反ユダヤ主義」という悪罵、混同と策略 声をあげられない欧州の欺瞞
以上の様に、シオニストの神話は破綻している。にもかかわらず、その破綻が広まり浸透しないのはなぜか?
第一に、シオニストといまだにそれにたぶらかされている人々から投げつけられる「反ユダヤ主義」という悪罵がある。この悪罵が浸透を遅らせている大きな要因だ。「反ユダヤ主義」という悪罵は、反シオニスト(反シオニズム)といわゆる反ユダヤ人を混同させる。この意図的混同という策略は、シオニストに対する真っ当な批判・非難をそらして、逆にシオニストの立場を強化する悪辣なものである。また、米欧日の西側世界は政治的にシオニストの支配が優位にある。従って、悪罵への反論には政治的にも社会的にも大きな圧力が加わってくるのである。
次にいまだに不勉強な研究者・学者も多い。彼らは政治学者や歴史学者を自称しているが、専門分野が細分化されているために、その細分化され限られた分野を覆っている大枠をしらない。そのため大枠である「ユダヤ神話」は放置され、シオニストと同じ言辞=「ユダヤ神話」を不用意に繰り返すことになる。新聞掲載の直近の例をあげれば
「イスラエルの博物館に行くと、ユダヤ教が中心の社会があった古代から説明が始まります。ユダヤ教徒は新バビロニア王国やローマ帝国によってパレスチナの地を追われ、世界中に離散していきました。彼らは「ディアスポラ」(離散)の民と呼ばれています」 「離散したユダヤ教徒たちは、キリスト教徒が根付いた欧州では少数派の異教徒として、ときに迫害を受けました。ナチスによるホロコースト(大虐殺)は、その象徴的な出来事です」
(某中東地域研究者「ともに悲しき離散の民」 朝日新聞11/18・オピニオン&フォーラム)
「ディアスポラ」(離散)、「離散の民」を常識としていまだにふり播いている。それでいて「良識的」な考えを述べたつもりになっている。
さらに最も重大な要因は、云うまでもなく、だんまりを決め込む欧州である。欧州はユダヤ人問題をつくり出した、いわば下手人である。であるからこそ、自らが生み出した国民国家イスラエルがどのような蛮行を繰り広げても、それに声をあげられない。彼らのいう普遍的価値や民主主義がいかに欺瞞的なものであるか、ダブル・スタンダード、二重基準として明確になっている。
(続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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