ポリティカ紙(ベオグラード、セルビア共和国)の第一面、更に第五、六、七、八面は、10月10日に行われた「誇りのパレード」と称する1000人ほどの同性愛者たちのデモ、そしてそれに反対する「フリガン」―「 」は岩田―たちと動員された5000人余の警官隊のベオグラード全市における流血の衝突に関する写真と記事で埋められている。政府与党の民主党の建物は放火され、セルビア社会党の建物は投石された。オランダ、オーストリア、そしてフランス大使館も少しく損害を受けたといわれる。第五面の見出しは「街頭におけるゲリラ戦―覆面したティーンエイジャーたちは小グループに分かれて、あらゆる方向から警官隊を攻撃した」である。
翌日のポリティカ紙(10月11日)の第一面見出しは、「EUはベオグラードが人権を守ったことに満足」である。EUは同性愛者たちの「誇りのパレード」が実行できたことに満足し、セルビア政府が適切なやり方でデモの実現を保証し、規制の仕方もプロフェッショナルで抑制のきいたものであると評価した。
このベオグラード大騒乱は、極右民族主義グループが組織したものと非難されている。
私にはこの騒乱を具体的に分析的に叙述する材料はない。ただ、これとは直接に関係がない小論説「失われた天国」(ジェリコ・ブトゥロビィチ、心理学者 ポリティカ紙10月13日)の内容を紹介しておこう。
―秩序立った国があった。そこでは失業がなかった。すべてが安価で、しばしば無料であった。質の高い音楽が楽しめ、教養あるTVプログラムが観られていた。子供たちは礼儀正しく、乙女たちは貞節であった。全世界から尊敬されていたのも不思議ではなかった。
―時間が経つにつれて、ユーゴスラヴィア社会主義共和国に関するこのような御伽話が民衆の間にますます広まっていく。旧世代は自分たちの若い時代を理想化する。そして若い世代は自分たちが奪われてしまったものを旧世代が持っていたことに怒りを感じる。その結果は、絶え間なきフラストレーションであり、責任者探しであり、失われた天国の回復を約束するあらゆる理念への簡単な同調である。
―しかしながら、そんな天国は実在しなかった。
私の見る所、たしかに天国は存在しなかった。だからといって、上記のようなフラストレ
ーションに満ち満ちたノスタルジーに根拠がないとはいえない。今日との比較でチトー時
代の社会主義ユーゴスラヴィアがプラスに思い起こされる根拠は相当にある。たしかに今
日、形式的自由の深度と幅は十分に大きくなった。共産主義者同盟の一党制は完全に消え
さった。ところが、その自由を活用し、自由の成果を享受できた人々の割合が少ないので
ある。多くの人々は、自由のゆえに生活を悪化させてしまった。これは思想と結社の自由
のドラスティックな拡大に伴う過渡的代価である、とブトゥロビィチのような知識人は説
く。しかし実生活者にとっては、もはや説得力のない一般論に過ぎない。ここにフラスト
レーションとノスタルジーが生まれ、拡がる。
しかしながら、社会主義や共産主義の名前で過去の「良き」時代を語ることは、これまた
説得力がない。セルビア共産主義者同盟が再編されたセルビア社会党は、ミロシェヴィチ
が打倒された後、欧米の援助で彼を打倒した民主党政権に協力して、与党になっている。
フラストレーションの大規模な顕在化ともいえる今回の大騒乱を鎮圧した内務省のトップ
は、社会党の党首である。
チトー時代のノスタルジーと新自由主義的現状のフラストレーションの顕在化が、アンチ
チトーのセルビア民族主義ラディカルによって担われるという逆説があるのだ。
私の仮説である。