3 逆流の発生――谷中村遊水地化は無効であった
正造は明治40年の洪水で逆流が発生したことを知る。彼はその原因を調べたのだが、そこにはこれまでの人間活動に無理があったという吉田の治水論と呼応するものがあって面白い。原因の一つは江戸時代における利根川東漸工事、他は明治以降の河川工事。正造はこの吉田によって力づけられたであろう。ただ両者には少しの違いはある。
近世の東遷については、正造はその目的として軍事防衛を強調し、こう結論していた。徳川氏の「封建的治水家」は地勢を無視した「凡庸の治水家」であって、古来からの「天の造れる河川」を「人造の害」あるものに変えてしまった、と(『全集』第4巻、535―6頁)。上から下に流れる「河川の心」は顧みられなかったと言える。他方、彼は幕府の治水策で評価すべきことを忘れなかった。幕府は治水を治山と結びつけて上流の山林伐採を禁じていたのである。反対に明治政府は水源を涵養する方策を怠っていた。
明治近代の治水事業については、正造は政府が封建の無理にさらなる無理を加え、洪水予防を唱えた利根川の改修工事そのものが自然な水の流れを抑えたと激しく攻撃する。正造の治水論の本論はここにあるので、その点を以下に列挙して、しっかり見ておきたい。
関宿口の狭窄化――利根川東遷事業の完成
正造の治水思想からすると、江戸川の関宿口の狭窄化が一番の批判対象となる。この点、「渡良瀬川本流妨害問題」(明治41年12月2日)と「利根川逆流実現に生ぜし請願書」(草稿、明治42年2月)を参照して議論を追ってみる。
関宿口の狭窄は前述したように江戸時代の棒出しに始まっていた。利根川は群馬県西部の山地を源流として関東平野を東に横切って銚子港に注がれているが、関宿はちょうどその中間、千葉県の西北の最先端にある。利根川はそこで東流する本線と江戸川に分流し、江戸川は千葉県と埼玉県・東京都の境を東京湾に南流する。だから関宿は江戸川の頭に位置している。棒出しはその関宿口で江戸川の両岸から杭を打って堤を突き出し、今まで4,50間あった川幅を30間に狭めたから、江戸川に流れる水量は抑えられ、その分水流は利根川に多くなって水害が発生することになる。
明治に入ってこの狭窄はさらに進められた。その契機となったのは、明治13年の洪水であった。正造はその過程を次のように説明した。同年の洪水によって足尾銅山からの鉱滓が江戸川を通じて流れ下り、東京民を驚かす。官庁街も下流の漁民や海苔業者も騒ぐ。政府はその時に川幅を以前の40間に戻すべきであったが、そうしなかった。反対に政府はその後、関宿口を20間、10間、そして明治31年には9間にまで狭めた。吉田が紹介した加茂は18~26間→13間→10間と別の数字をあげていたが、大略は同じである。ここで江戸時代以来の利根川東遷事業は完成したと言えよう。そして明治31年には洋式のオランダ工法によって高い石堤が築かれ、川底は新しい素材のセメントで埋められてしまう。30尺あった川底が13尺に浅くなる。これによって栃木県では以前よりも洪水の被害が増すのであった。
正造は関宿口の狭窄の外に以下の3つを問題にした。
A 権現堂川の工事
権現堂川は関宿で江戸川に接続していたが、その接続部分もオランダ工法の工事が施されて、江戸川への水流が妨害される。
B 明治20年に奥羽線が利根川を渡る所に栗橋鉄橋が架けられ、鉄柱が水流を妨害する。
C 明治31年に渡良瀬川と利根川の合流地点が拡張され、その下流で発生した逆流がその広げられた合流点から渡良瀬川を上る。
水害は人災—―事実が証明する
利根川の水流は以上4つの工事によって阻害され、洪水のたびに逆流が発生し、その程度も実に大きくなる。正造が調査したところではーーその詳細な紹介は省くが、正造は冷静な調査マンであった――、関宿以西の利根川上流と渡良瀬川沿岸の村々(谷中村をふくめて)では水位は普通の洪水時よりも大きくなった。変なことだが、川の水は上から下でなく、下から上に流れるのである。逆流の発生個所ではその上流と下流とで水位に大変な差ができてしまう。そして、上記4つの工事の後、明治40年にまた洪水が起きた。それは自然災害が人災でもあることを、そして何よりも谷中村遊水地化が防災に無効であったことをはっきり実証したのである。正造は「天は事実の證明為せり」(「檄文」より)を確信する。
こうして正造の治水観――水は人を傷つけない、人が水を傷つけるーーが正当であったことがはっきりする。
4 正造独特の治水論――7つの視点から
以下、さらに正造の治水論に入っていこう。そこには鉱毒問題への対処の時と
異なる別の角度からの照明も加わり、他にない独特のものがある。あらかじめ7つの特徴をあげておく。どれも示唆深い。
(1)自分で歩いて川を調べる。(2)治水事業を経済的に費用対効果で評価す
る。(3)治水は憲法の精神に関わる。(4)キリスト教および社会主義との対話。(5) 歌を詠み、墨書をしたためる。(6)「水の心」を知って治水にあたる。
(1)自分で歩いて川を調べる
正造は「水の心」を知ろうと努めた。心と言うと心理的であって客観的でないと思われるかもしれないが、彼はその言い方で水の外面の動きからその自然法則を知ろうとしたのである。地理学の専門知識を参照しながらも、自らの目と耳で知ろうとしている。このことは一般にはあまり知られていないのでないか。例えば、宗三の『余禄』を開いてみるとーー
残留農家が強制破壊された後、谷中村付近は8月末からの雨で大洪水となった。正造は利根川の逆流がその要因となっていると推測し、それを実証するために洪水で時々刻々増水する状況を調査する。また彼は明治42年、2年前の明治40年の洪水の全体を正確に知ろうと調査に入る。同年4月24日には関宿から船で江戸川を東京まで下って沿岸の地勢と水勢も調べている。こういう調査では交通費や宿泊・飲食の費用がかかるが、それらはどうやってまかなったのかと思ってしまう。活動に必要な費用は寄付や借金に頼ったようだが、周りの人はいつも快く応じたのかと思ってしまう。
実地の研究学者が「事実」を知る
それはともかくとして、この自前の調査の意義であるが、彼はこう考えていた。役所の記録や工学技士の細かな数値も参照に値するが、前者には信頼できない部分があり、後者も洪水の「事実」を説明するものかは保証できない、だから実際の見聞と経験による証明が大事である、と。彼や住民は専門の科学的知識はなくても「実地の研究学者」(『全集』第4巻、370頁)なのである。科学は経験科学と言われるが、彼の調査は学者の理論や推論が事実無視のドグマとなることに対する戒めとなっている。その調査のさまは最晩年の明治43年、70歳の老体を押して関8州の河川を歩きに歩いて調べまわり、時に人力車を駆ってそれが通れないほどの道の泥濘に悩まされながら、人に会って聞きまくったことによく表れている。それは「河川視察略記」として後に残されている。その際、調べたことはただ1点、明治43年の洪水の水位がそれまでの29年、35年、40年の洪水の時の水位より高かったか低かったかであった。高ければ、あるいは洪水が東から西に流れれば、それは逆流の発生によるもの、低ければ逆流の影響を受けなかったと推定されるのである。
こういう正造であるから、彼が沿岸住民の「老農故老」や「斯道明通熟達の士」に耳を傾けるように説くことに合点がいく。その1例として古河町発行の『北総之実業』紙にのった前掲「加茂氏」の名をあげていた(『全集』第4巻26,391,521頁)。もちろん正造は政府筋の玄人をむやみに退けはしないだろうが、専門学者の吉田が認めていたように、玄人=名医、素人=藪医者とは限らない。素人にも立派な治水論者はいる。
小石が語ること
宗三の『余禄』によれば、正造はこういう調査で天然の地形が変化し、「天地の造化山川の妙理」に感じることがあった。遺品の3個の小石もこのような手と足の調査のさなかに拾ったものか!
正造は若いころから石を集めることが趣味であったと述べている。あの気性の激しい野性的な正造が意外だと思ってしまう。彼はよく語られたことだが、明治38年の夏に栃木県の土木吏が谷中村買収のために田畑の調査に村に来た時、正造は他の村民とともに「泥棒、泥棒、泥棒が来たから逐い払え」と叫んで退散させていた。また彼は再び家屋調査に来た土木吏に対して薪割斧を振り上げて一撃しようとしたが、背後から警官に抱きとめられて事なきをえたという。こんな一面をもつ正造が小石を拾っていたとは、そのアンバランスがどこか可笑しい。もっとも小石だけでなく大きな石も持ち返っていたが。集めた小石はその質よりも形が珍しくきれいなものであった。その一部は佐野市郷土博物館で見ることができる。それは碁石のようにまるい円盤であり(――子供が水面に向かって石投げをするのに格好のもの)、富士山型をした珍しい形のものなどである。遺品の小石の一つは桜石と認められる(――田中正造大学事務局長の坂原辰男さんから教えられたこと)。正造は玉のような小石が地質学的に長い時間をかけて川の流れに磨かれたことを認めるのであった。造化の妙である。
ところで正造は最晩年には石の形よりも質を重視するようになったと記すことがあったらしい。また車に踏まれるつまらない小石を農民に等置して不憫に思ったという趣旨のことを述べてもいたらしい。だが私にはそれはどこかとってつけた理由のように思われる。趣味は趣味だけでもよい。
改めて、以上の調査で知った水の心とは? それは明治40年11月12日と13日の請願書と『余禄』を参照すると、「水は低くに行くものなり」、「流水は法律理屈を以て威嚇制裁すべからず。流水は自然の勢いを順行して過らざるにあり」であった。なんとも単純明快な法則である。これは今日の地球の異常気象下でも銘記すべきことと思われる。
(2)治水事業を経済的に費用対効果で評価する――地域経済と地域援助
正造は治水問題でも鉱毒問題と同じく、費用対効果の経済計算をしてその良否を判断した。それは今日の計算範囲よりかなり広く、公共土木事業や地域開発の是非を判断する基準とされるのだが、ここ治水論では新たな意義づけが加わっていることにも注意したい。彼の「経済」観は既存の経済の見方を批判していることが分かる。
記憶すべき公益と公害の考え方
まず、正造が事業の費用とその効果を調べたことから始める。谷中村を遊水地にすることは本当に「経済的」か。正造はその判断のために谷中村の地理、人口、収穫高、村価を調べた。こういう調査は問題の解決を議会に請願して公共の審議に付するときに最低限必要な準備であった。哀訴だけでは聞き入れられないのである。
地理――谷中村は栃木県下都賀郡にあり、栃木・茨木・群馬・埼玉の4県の集合する所に位置する。村は3つの川・渡良瀬川と巴波川、思川に囲まれ、周りを堤防でめぐらされている。輪である。反別は堤防の外と内を合わせて1千2百町歩以上。戸数と人口――明治38年で450戸、2千7百人。それが強制破壊によって堤内13戸、堤外60戸になる。年収穫――作物は天然の肥料で十分に育ち、金肥を要しないほどであった。そのことは経験だけでなく、科学的にも証明されており、正造はそれを利用する。したがって労賃の経費は少ない。こうして年生産額は洪水のない時は年25万円。他に河川漁業からの収穫と副業の茅菅の加工による収入がある。こうして村価は年利から逆算すると1千5百万円以上と見積もる者がいた。
次は国家経費である。政府はこの1千5百万円の谷中村を買収するのに48万円を支出したことが分かっている。
この村価と政府支出を比較すれば、谷中村の買収は政府にとって安い買い物であったと言える。しかし正造はこの財政の収支は「経済の賊」(『全集』第4巻、294頁)であったと批判した。その理由の細かい議論は第1部で個人・社会・国家・人類のそれぞれにおける損害を検討しているから、もう必要ないだろう。国家はそれらすべての損害を自己の損害とみなさねばならないのである。ここではただ1点、谷中村を廃村にすることで生ずる社会損害の発生に改めて留意しておきたい。それは町と村の間の自然的分業、「地域」経済に関することである。昔から地域内での利害対立は避けられなかったが、それを解消する公益経済があり、正造はそこに目をやる。
廃村前の谷中村は年25万円以上の農産物の売り上げがあった。それは谷中村が近隣の町と市場取引をした結果であった。例えば、谷中村と古河町の関係を見よう。谷中村は古河町に天産物の米・麦・野菜・大豆、川魚、副業の加工品の菅笠(――正造も愛用していた)・葦のすだれ(今日の遊水地でも続けられている)などを売る。古河町は谷中村に生活用品や農具などを売る。こうして古河町はそれらの商いで賑わう。町は村あってこその町であり、村も町あってこその村となる。その関係は自然で無理のないものであった。正造はこういう関係を「公益」と捉え、それが何らかの原因で崩れると「公害」だと見るのである。その「公益」は国家的観点からでなく地域社会的な観点からの概念である。「公害」も一時の損害だけでなく、「買戻しの出来ない」「永遠の損害」(『全集』第4巻、375頁)とまで認識される。これは記憶しておいてよい公益・公害の概念であろう。谷中村は結局藤岡町に合併されて廃村となり、町長はその廃村に同意するのだが、正造はそこに町自身の衰退の影を見た。
以上のことは何も特定の明治時代の一地域だけのことでないだろう。今の日本のどこの町づくり・村づくりにも参考になることである。現在は交通・輸送手段の発展による町の郊外展開が、また大型店舗の市中進出が街の衰退を助長している。
さて、以上の地域経済は利根川等の水運を利用した東京の大市場と関東の諸産業との関係というような、また北関東の織物と外国市場というような関係ではない。もっとずっと小さな地域から見た経済圏であるが、その後の戦中・戦後の社会経済史的な目からすれば、そこから国内市場や国際市場への展開にも通じる可能性が秘められていたと言えなくはない。
付注 田口卯吉と正造
正造は田口卯吉と接触があった。田口は言わずと知れた文明開化論者であり、スミス流の自由貿易論者である。その彼が西洋嫡流の文明開化を批判する正造に関心をもつ。田口は明治33年2月24日、その雑誌・東京経済雑誌1018号に正造の鉱毒批判論を掲載したのである。正造はそのことを日記に書きとめる。田口の自生的な国内市場論や鉄道論を知っている者からすれば、彼と地域経済論の正造には相通じる社会経済観があったと言える。
公益と助け合い
正造は治水論において地域の「公益」に新たな意味を見出した。村と町の相互的な経済関係が土台となって、困った時の助け合いが生まれるというもの。共通利益の上に生まれる仁愛の徳、「同情」、正造はその例を次のように確かめた。明治29年の渡良瀬川・利根川・思川三川の洪水の時に、藤岡町の「財産家の仁人」や「重なるもの」は谷中村の人々を船で救出し、寺院に泊めて炊き出しをすることがあった。また明治38年に谷中村が自費で堤防を復旧した時には、藤岡町は他地域の人々共に人手や材料を提供したり寄付をした。またこんな例も。栃木県は谷中村残留民の家を強制破壊する時に人夫を募集したが、古河町はそれに応じなかったという。
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