3年前、2013年の秋に大阪で開かれた「9条国際会議」に海外ゲストとして招かれ、立命館大学の君島東彦氏がモデレータを務めた「アジアと9条」という分科会の中で発言しました。そのときのために用意した原稿「沖縄と九条―私たちの責任」(「私たち」とは「日本人」のことです)に今回少し手を入れたものを共有します。3年前の原稿を微修正だけで出すのは、残念ながら沖縄の迫害の状況は全く変わっていないからです。変わっていないどころか、辺野古新基地建設計画、北部訓練場ヘリパッド建設、伊江島米軍基地機能強化、沖縄離島の自衛隊配備など、自衛隊と米軍の進む一体化運用の中で日米による沖縄の軍事植民地としての搾取は減るどころかますます悪化しているからです。 また、なぜ今掲載かというと、2つ理由があります。1つは、出版の計画があったため、このトピック(日本人の沖縄への責任)については小出しにしないでまとまった発表形態を取ろうと思っていたからです。しかし事情も変わり、この件について意見を持っている自分も公にしっかり表明していかなければいけないと思ったからです。沖縄に過重に負担させている米軍基地を日本に「引き取る」という「県外移設」もいろいろな場面で議論されるようになってきているというのもあります。もう1つは、来る9月25日に開催されるシンポジウム「9.25シンポジウム ヤマトンチュの選択―問われる責任、その果たし方」(写真のチラシ参照)がまさしく自分の主要テーマにかかわるものであり、自分も意見表明によってこのシンポに間接的に参加する「責任」を感じたからです。「県外移設」をめぐる議論の本質の問いは、「日本が沖縄に対する植民支配と差別をどうやめていくか」ということです。参加する一人一人が、立場や意見の相違にかかわらず、日本人としてその問いに自分がどう向き合いどう行動するかが問われていると思います。 @PeacePhilosophy 乗松聡子
2013年10月13,14日 九条世界会議@大阪 「アジアと九条」分科会
沖縄と九条-私たちの責任
はじめに
v 自分について
自分は日本出身、高校時代2年を含めて通算約20年カナダ西海岸に住んでいる。2004年に始まった「バンクーバー九条の会」を作る動きに加わったことから、戦争の記憶と平和、社会正義や人権といった分野で、英語と日本語を使って教育活動や執筆をするようになった。2006年末からは「ピース・フィロソフィー・センターPeace Philosophy Centre」を立ち上げ、広島長崎の記憶や福島の核事故を中心とした核問題、アジアの戦争記憶、歴史認識問題、米軍基地問題、公正な世の中を作るための「市民力」を育む活動をしてきている。日本の「九条の会」呼びかけ人だった故・加藤周一氏は、「外国語を学ぶのは政府の嘘を見破るためだ」と言っていた。日本に届かない情報を日本語で届け、日本に留まりがちな情報を英語で世界に届ける努力をしてきている。今カナダではバンクーバーだけではなくトロントやモントリオールにも九条を守ろうというグループができており、広大な国だが東西がつながっている。
v アジア各地域の人々と共に九条と戦争をかたる
「アジアと九条」を語る場で忘れてはならないのは無論戦争の記憶である。日本がアジア太平洋全域を侵略しアジア同胞を殺し苦しめた歴史がなければ日本国憲法、九条はなかったであろう。日本は戦後、現在にいたるまで、アジアの一員として本当に復帰はしていないように見える。その典型が日本人の内向きな戦争記憶だ。広島・長崎の原爆被害や空襲被害、戦時の窮乏など、どれも重要だがそこまでに留まっている。日本人が「300万人が死んだあの戦争」と語るとき、深く認識欠如を感じる。日本人の死者の数しか勘定に入れていないからだ。領土問題を語るときも、多くの日本人はその背後に横たわる侵略と植民地化の歴史と記憶をほとんど知らない。そのために日韓、日中の間に修正困難な認識のギャップがある。マレー半島、フィリピンをはじめ東南アジアへの侵略については中国や朝鮮半島に対する危害以上に知らない。
日本の歴史観は課題が多いが、戦争の教訓と反省と共に採用した日本国憲法は重要なものであると思う。私は、日本国憲法は、国籍を問わず、帝国日本に殺され蹂躙された全ての人々の無念や怒りを背負っているものだと思っている。殺された何千万人もの声なき声を背負って日々の活動をしているつもりだ。その中には今日ここにいるアジアの仲間の家族や親戚、その隣人たちが含まれているはずだ。それだけに今日の集まりの重みを感じ、皆さんとの出会いを有難く思う。戦争体験者が死にゆく中、体験が風化すると危ぶむ声があるが、だからこそ戦争の反省の上に作られた平和憲法を守り生かすことが大事なのである。「戦争体験者がいないと保てない平和」という考えに根本的なパラドックスがある。それが本当だったら人間は常に戦争をやり続け「戦争体験者」を生み続けなければ平和は創れないという矛盾した論理となる。戦争体験者がいなくても平和を創るために、憲法があるのだ。
v 自分と沖縄のつながりのはじめ
バンクーバーで2006年6月に開催された「世界平和フォーラム」にバンクーバー九条の会の一員として参加した。今にしてみれば、6月26日ブリティッシュコロンビア大学での「日本の憲法9条平和のための人類共通の宝」会議での体験が自分の沖縄とのつながりの原点だった。君島東彦さん(立命館大学)や、今回海外ゲストとして来ているロベルト・サモラさんやピースボート共同代表の川崎哲さんとパネルを共にしたが、我々パネリストが長く話すぎて、沖縄から参加していて発言を希望した平和教育家・活動家の大西照雄さんの時間がなくなってしまった。最後「一分で」と言われた大西さんは、「沖縄のことは一分では話せない」と言って発言を拒否、会場には気まずい空気が流れた。振り返ると、その後の自分がたどったのは、あの沈黙から受け取ったもの、あのとき大西さんが言おうとしていた言葉を見つけ出すための道のりだったような気がする。あのとき、我々が話し過ぎて大西さんの時間を奪ったことは、9条と安保の矛盾を沖縄に押し付けながら「平和」を装う日本の罪を、まさに象徴していた。大西さんは今年の6月、がんで亡くなった。貴重な時間と自らの健康を沖縄への暴力と迫害に対する抵抗運動に費やさざるをえず、たたかいの中で死んでいった。今回の会議ではあのとき大西さんの(すなわち沖縄の)時間を奪った、私を含む「共犯者」たちの多くが一堂に会していることに意義を見出す。私は今回ここに大西さんと一緒に参加しているつもりだ。
九条と沖縄
v 憲法は沖縄、朝鮮、台湾を切り捨てることにより始まった
日本国憲法を語る際、忘れてはならないのは、憲法が切り捨てた人々である。1945年12月の衆議院議員選挙法改正で女性は参政権を得たが、朝鮮人・台湾人の選挙権は停止され、米軍政下にあった沖縄も施行の例外扱いとなった。現憲法を審議した46年の国会に沖縄選出議員はいなかった。新崎盛暉氏は、『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別 』(高文研)の中で「平和憲法は、沖縄を除外することによって成立した」という。また、憲法制定の段階で日本側は、法の下の外国人平等が保障されることのないように占領軍案を変更した。施行の前日、天皇は最後の勅令「外国人登録令」を出し、在日朝鮮人と台湾人を外国人とみなし、憲法から切り捨てた。
v 日本からの侵攻、併合、「捨石」とされた沖縄戦と米軍占領
沖縄は独立した琉球王国であったが、1609年に薩摩の侵攻を受け、1879年には武力で日本に併合され王国が滅ぼされた。龍谷大学の松島泰勝氏は『琉球独立への道』(法律文化社、2012年)において、この「琉球処分」として知られるものを「国際法においても違法な琉球併合」と指摘した。「戦後、北朝鮮と韓国はそれぞれ独立したが、同じように廃位、廃国された琉球は現在も日本の植民地のままである」(13頁)という記述を読んであらためて思った。この「アジアと九条」という分科会の中で、沖縄と、ここに参加している韓国、台湾、中国、ベトナムには共通項目がある。どこも日本の植民地化や侵略を経た国や地域だということだ。沖縄はとりわけ、現在進行形で日本の迫害を受け続けている植民地なのだ。
1963年生まれの松島氏が1972年の沖縄の日本への「復帰」の頃、学校で「方言札」の体験をしていたと知ってショックを受けた。これは戦前戦中に行われていた強制同化教育の一環と思っていたので、自分と同世代の氏が小学校時代に体験しているとは、改めて自分の認識の甘さを痛感した。
カナダでも19世紀後半から20世紀終盤まで、先住民の子どもたちが寄宿学校に入れられて地域、家族、言語、文化、誇りを、政府と教会組織により徹底的に剥奪された。日本人のほとんどは被植民地化の体験がないからこのような民族抹消政策のことを聞いても「かわいそう」程度にしか思わないのではないか。私もそうだった。私は日本に日本人として生まれた。ある国や地域で主流派の一員として育った人間にとって、差別される民族や植民地化された人々の、世代を超えたトラウマを理解するのは相当の勉強と想像力が必要である。自らが差別される体験をした方がいいと思うときさえある。学校で日本語を話したら舌に針を刺されたり、「野蛮な日本人性は洗い流さなきゃだめね」と言って体を洗われたりする屈辱を想像してみてほしい。子を持つ親は、自分の子がそのようにされることを想像してみてほしい。これらはカナダの寄宿学校での例だが、沖縄も併合後、同化教育、皇民化教育が行われ、琉球人であることを恥じ、日本人になる教育が徹底的に行われた。
沖縄では強制併合後、同化教育、皇民化教育が徹底的に行われた。挙句の果てに太平洋戦争時は日本の国体(天皇制)を守る盾、あるいは「捨石」として使われ、約50万の県民は徴兵・軍協力・労働を強いられた。地上戦に巻き込まれて米軍から攻撃を受け、友軍であるはずの日本軍からも守られることはなく虐待・虐殺され、15万にも及ぶ県民が殺された。日本人にならされた上に日本人扱いされず裏切られたのである。世代を超えて人々の心に深く残る沖縄戦のトラウマは、日本人が想像するとすれば、植民支配された挙句、日本全土が陸戦となり2千万人が殺されたと思えばどうか。
沖縄は日本から切り離され米軍直接統治下に置かれ、日本が新憲法によって得た民主主義、平和主義や基本的人権とは無縁の27年間を送った。1952年にはサンフランシスコ平和条約で日本は主権を回復したが沖縄は形を変えて引き続きアメリカの支配下に置かれた。この条約によって沖縄などを、アメリカを「唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」との提案が国連にされた場合日本が同意すること、それまではアメリカが沖縄に対する「行政、立法および司法上の権力の全部及び一部」を行使するとされたのである。『憲法と沖縄を問う』(法律文化社、2010年)第一章で井端正幸は当時国際法規となっていた「領土不拡大の原則」、国連憲章にうたわれた「人民の同権および自決の原理」や「主権平等の原理」に照らし合わせるとこれは国際法違反であった疑いがあると言っている(7頁)。
ファシスト日本から沖縄を救ったかに見えた「民主主義国家」米国は沖縄という「戦果」を人権や民主主義とは無縁の価値観で扱い、頻発する米軍の事故や犯罪が正当に裁かれることはなく、その間に新基地建設、日本の米軍の沖縄移動が加速した。沖縄には日本国憲法もアメリカ合衆国憲法も適用されない「憲法番外地」であった(井端、同頁)。
v 沖縄は日本国憲法を求めて「復帰」、そして再び裏切られる
沖縄は日米が決めた沖縄の日本への「復帰」「返還」を経て日本の憲法が自分たちに適用されることを求めたが、実際は米軍基地が集中させられた現状はほとんど変わらず今に至っている。日本は日本国憲法を頂点とした「憲法法体系」と同時に日米安保条約を中心とした「安保法体系」(日米地位協定など)が同時にあるが、実際は後者が前者を浸食し続けた(井端、同頁)。沖縄の「復帰」は、米軍基地を「安保法体系」に編入したという意味に過ぎなかった(前掲書新垣勉、第2章14頁)。現在の日本において、自分たちが求めてたたかって憲法を得たのは沖縄だけだ。それなのに、日本の一部となったとき憲法と一緒になってついてきた、いや憲法の上段に置かれたのがこの「安保法体系」だった。
よく、「日本の米軍専用基地の74%が、面積が日本の0.6%しかない沖縄に集中させられている」という数字が使われているが、それはどういう意味を持つのか。同じ面積を取ったら、そこにある米軍基地の面積は、沖縄では日本の472倍という計算になる。想像を絶する不平等だ。基地のある陸地だけでなく、空や水域までもが演習用に占領されている。そして基地があれば起こる事件、事故、犯罪や騒音、環境汚染はその地域全体で負わなければいけないリスクだ。
戦後も戦争ばかりやってきた米国の基地とされた沖縄は、戦争放棄や戦力不保持、交戦権禁止からは無縁であり、「武力の威嚇」のもとで戦後を送ってきている。したがって九条が適用されたことはいまだかつてないと言える。「復帰」40年たっても日本は沖縄への責任を果たしていない。それなら、沖縄は独立して独自に自らの憲法に「九条」的な非戦非武装条項を設け、松島泰勝氏が述べるように、琉球は国として日本から分かれ、『戦争の島』から『平和な島』へと生まれ変わるというビジョンを具体的に掲げるのは理にかなったことだ。沖縄が求めた日本国の憲法は、日本国から離れることによってしか実現できないのだとしたら誠に皮肉なことである。
日本と沖縄
v 「独立論」について
日米による沖縄への仕打ちがあらゆる民主主義的方法を使って訴えても変わらないということもあり、沖縄では独立の気運がだんだん高まってきている。「琉球民族独立総合研究学会」という学会もできているし、松島氏のように独立に向けて現実的な理論体系を築いている人たちがいる。それに対する日本の反応はどうか。日本の人たちは沖縄の独立の可能性に脅威を感じ「封じ込め」ようとする人たちが多いような気がする。独立はできれば避けたい、基本的には、してはいけないことである、という前提があるとしたら私はそれに疑問を投げかけたい。
オリバー・ストーンが8月に来沖した際、沖縄平和祈念資料館見学 の後に囲み取材があったが、ある日本のジャーナリストが「沖縄の独立論をどう思うか」と聞いた。あのときオリバーは賢明な答えをしていた。「沖縄の独立について私は意見を述べる立場にはない I am not in a position to state my opinion about independence of Okinawa」と。独立するかしないかは当事者たちの決定であり、外部の人間、ましてや植民者として沖縄を支配してきた日本人がこうしろとかああしろとかいう権利はない。ヤマト人の「こうしろああしろ」に辟易して自己決定権を発揮し独立するのだから!日本で、沖縄の味方と称する人たちにも「僕は沖縄独立論者だ」とか「やっぱり沖縄は日本であってほしい」とか言う人がいるが、その辺の矛盾がわかっていないのではないかと思う。沖縄の独立を云々する前に、沖縄が独立を叫ぶようになった背景としての、日本による沖縄の長年の迫害に直面し是正することこそが、私たち日本の人間の責任ではないか。しかし根本は、独立してもしなくても自己決定権は尊重されなければいけない。沖縄の決定を日本側は尊重し、受け入れて適応していくのだ。沖縄が独立を選んだら、日本の一部としての沖縄を守るどころか危害を加え続けたことを認めて謝罪し、対等の国同士として外交関係を築き直すべきである。沖縄が独立を選ばなくとも、過去の蛮行に償う努力をしながら現在の不平等を解消し、沖縄の尊厳と人権、文化と伝統を尊重し、対等な関係を築くように全力を尽くすべきだ。
v 安保を容認しながら九条や反核を訴える矛盾と、沖縄への基地押し付け
沖縄のことを学ぶようになってから、日本の平和運動とか憲法9条を守る運動や反核運動は非常に矛盾に満ちたものだと思うようになった。4月の核拡散防止条約2015年再検討会議準備委員会で、南アフリカなど非核保有国が「いかなる状況下でも核兵器が使用されないことが人類生存のためになる」という「核兵器の人道的影響に関する共同声明」を出したが、日本政府は賛同しなかった。これに対して平和運動家たちが怒りを表明したが、そういう時こそ私たちは自らを振り返らないといけないのではないか。日本政府は米軍基地と核の傘の幻想のもとに安全保障策をとっている。それに対して日本の人たちは7、8割が安保を認めているというデータがある。 安保を認めながら反核とか9条を守れとか、どうして言えるのか。日本は北朝鮮やイランの核保有を責める前に、核使用国、大量保有国である米国を責め、そしてその米国と同盟を組んでいる自分たちを責めないといけない。日米安保をやめよう、新しい日米関係を築こうという形で運動しないといけない。安保を温存しておいて、その中で平和とか反核とか言っても説得力がない。自戒を込めて言っている。どうして私たちは普段から、反核や平和運動に費やす同じぐらいの情熱で脱安保を叫ばないのか。それは、安保のつけ、つまり米軍基地被害の大半を沖縄に押しつけたままでいるからではないか。
v 偽善的植民者からの脱却を
1948年、冷戦に日本を利用するために米国の陸軍省は日本の憲法を変えて再軍備をする提案をした。米国務省の冷戦戦略のブレーンであったジョージ・ケナンが同年、占領中の日本に来て、マッカーサーと会話をしたとき、マッカーサーは日本の再軍備には反対しながら沖縄の重要性を強調し、沖縄に十分な米軍、特に空軍があれば日本を守れるとした(Foreign Relations of the United States, 1948, Volume VI, PP.699-712)。このように米国にとって、「沖縄の米軍基地と日本の憲法九条は同じ政策の裏表」となった(ラミス『要石:沖縄と憲法九条』晶文社、2010年、188-9頁)。
こうやってそもそもセットとしてスタートした九条と沖縄米軍基地がサンフランシスコ条約における沖縄切り離しによって強化され、「復帰」による日米安保体制の沖縄への適用でさらに強化され、17世紀以来の日本人の沖縄への植民地主義を背景にますます強化されて今日にいたる。ということは、沖縄をそのままにしている限り、私たちは九条を守ろうとすればするほどその「セット」としての構造を肯定し強化していることになる。九条の美しい平和主義を唱えながら沖縄を抑圧、差別する偽善的植民者としての自分たちを強化してしまうのである。したがってこの偽善から脱却するには九条擁護だけではなく脱安保のために真剣に運動しなければいけない。そして、脱安保が実現するまでは、日本が置くと合意した米軍基地は、沖縄ではなく日本に置くべきである。つまり脱安保運動をしながら、安保をなくすまでは米軍基地は本来あるべき日本に戻すということである。安保がなくなるまで、と沖縄に我慢させようとする人もいるかもしれないが、沖縄にしてみれば「復帰」後40年間起らなかったことがこれからすぐ起こるとどうしたら信じられるのか。沖縄をこのままにして平和と人権を奪い続ける九条運動はそれこそが日本国憲法違反だ。逆に、偽善と植民地主義から脱する行為により、平和と人権をうたう日本国憲法実現により近づくと言えるのではないか。沖縄への責任を果たすことは、沖縄だけでなく日本のためでもある。
(質疑応答時間で、米軍基地は沖縄ではなく日本に置くべきであるとの発言への反論を受けて)基地は誰だって嫌である。しかし誰だって嫌なものをどうして私たちは沖縄に押し付けてそのままでいられるのか。私たち日本人は沖縄に対し、現在進行形の差別と植民地主義の加害者であるという意識がなさすぎるのだ。私たち「平和主義者」はいつも米国が悪い、自民党が悪いと他者を責めて自分は何かいいことをやっている気になっている。だから自分が加害者であることを突きつけられると居心地が悪い。反論するのは自由だが、その居心地の悪さから逃げないでほしい。
v 沖縄と対峙する日本-変えるのは私たち自身
もう一つ私たちの無責任さを表している現象があって、それは私たちがよくとなえる沖縄との「連帯」とか沖縄への「応援」、さらに「賞賛」と言ってもいい意識である。私は沖縄の現状に対する日米の責任を知れば知るほど、これらの概念に違和感を持つようになった。行動をともにする米国人には「沖縄市民の抵抗運動に支持を表明したい」と言う人がいる。これは善意に基づいた言葉であるとは思うのだが、やはり私は聞くたびに違和感を覚える。そもそも運動を起こさなければいけなくなる状況を作ったのは自分たち米国なのだから、米国政府と米国の軍隊に、沖縄への迫害をやめろと働きかけるのが米国人としての第一の責任なのではないかと。
沖縄の地道な運動、体を張っての基地建設反対運動に携わる人々を英雄視する傾向についても、そもそもの問題への自らの加担から目を背けている無責任さがある。他のことができているはずの貴重な時間を沖縄の人たちに費やさせて運動をしないといけないような状況に追いやっている張本人、真犯人は我々日本人と、米国人なのだ。沖縄の運動や抵抗を褒めるのではなく、沖縄の人々がこのような運動をしなくてもいいように、日本と米国を変えていかなければならない。
沖縄の運動に加わるために日本人が沖縄に行ったり沖縄に移住したりすることは、沖縄の「味方」の日本人にとって心地いいことである。しかし上にも書いたように日本人が沖縄に対峙するというのは九条と引き換えに沖縄に基地を押しつけそのままにしておいた自分たちに直面することであり心地いいわけがないことなのである。それで何かやっている気になって自己満足になってはいけないと思う。これは自分自身に対して言っていることだ。沖縄のことをがんばっている(と思っている)私たち日本人は沖縄の人たちに感謝されることも多く、それでいい気になってしまいがちだ。そして感謝して気もちよくしてくれる人とばかり仲良くしたがり、自分たちがいまだに加担している差別や抑圧のことを指摘する人は煙たがって避ける。それではいけないと思う。感謝されても、沖縄の現状を変える結果を生み出していない限りいい気になってはいけない。「連帯」とか「応援」とか心地いい世界では決してない。
私たち日本人の責任は、「連帯行動」をすること以上に、沖縄に迫害を与え続けている集団の一部としてこの集団自身を変えていくことだ。それこそが私たちが守りたい九条の、日本国憲法の精神に沿った行為なのである。そして沖縄の現状をそのままにしたうえでの九条運動は、たとえ九条が守れたとしても、九条と日本国憲法そのものに反する行為なのだ。
(終)
※これは、2013年10月13日関西大学において開催された「9条国際会議」の分科会「アジアと九条」の中での発表のために用意した原稿を、2016年9月、ブログでの共有のために微修正したものです。実際の発表で話したのはこの文の要旨でありこの通り話したのではありません。質疑応答の中でやり取りされた内容の一部も文中に挿入してあります。
初出:「ピースフィロソフィー」2016.09.16より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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