2017年2月21日
ハンセン病隔離収容所の史跡と資料館を訪ねて
2月4日から3泊で沖縄へ出かけた。5日午後に那覇市内で開かれる歌人の集いに参加する連れ合いに同伴する形だったが、その前後、どこへ出かけるか、沖縄の地図と時刻表をにらみながら、いろいろ思案した。早い時期に決まったのは連れ合いが所望した名護市の屋我地にある愛楽園だ。
1938年11月10日、国頭(くにがみ)愛楽園として開園されたが、1941年7月1日には国に移管され、国立療養所となった。戦時中は米空軍の激しい爆撃に遭い、施設はほぼ全滅した。1952年、琉球政府が誕生したのに伴い、同政府の所管となり、沖縄愛楽園と改称された。さらに、1972年に沖縄の本土復帰に伴い、厚生省の所属となり、国立療養所となって現在に至っている。
しかし、1938年の開園当初から、ハンセン病患者の療養所というより「隔離所」で、戦後も長く「らい予防法」によって、ハンセン病患者を隔離収容した「絶望の島」だった。
2月4日、定刻の13時25分に那覇空港に到着、空港のバスターミナルから高速バスに乗り継いで名護市へ。終点の名護バスターミナルで下車して予約していたタクシーに乗車。すく近くのホテルに荷物を預けてそのままタクシーで愛楽園へ向かうというあわただしい日程になった。
といっても、愛楽園交流会館(ハンセン病問題の歴史を記す資料を所蔵・展示する施設)は17時で閉館なので、館内の展示の閲覧は明日に回し、この日は夕暮れが迫った園内の史跡を道に迷いながら巡った。結局、廊下ですれ違った職員に教わって、沖縄戦の時に当時の早田園長が入所者に強権的に命じて掘らせた壕(早田壕)の跡地にたどり着くだけで日没となった。
翌5日は7時半にホテルを出発して貸し切りタクシーで桜が開花した今帰仁(なきじん)城址へ出かけた(詳しくは別の記事で書きたい)。1時間ほど懇切にガイドをしていただいたYさんにお礼を言って城址を出発、9時過ぎに愛楽園交流会館に到着した。2015年に開館したばかりの、ハンセン病問題の資料館だ。前もって連絡をしていた学芸員のAさんに玄関でお目にかかり、挨拶をして1階の資料展示室へ。
ハンセン病を医学的に説明した資料から始まり、愛楽園の開園当初の状況、入所者の手記などが展示されていた。
最初に私の目にとまったのは開園式の模様を撮った写真の下に展示された、愛楽園創設の功労者・青木恵哉が入所者を代表して述べたあいさつ文だった。
「私等の真の悲しみと言うのは、そして最大の不幸と言うのは・・・癩者と名前を付けられると共に、望みを失う、理想と言う世界から絶縁される、其処にあるのです。」
参列者が次々と祝辞を述べる開園式で、その後、60年以上にわたって、ハンセン病患者、元患者が味わった苦難と絶望の歴史を予知するかのような言葉ではないか。あるいは、開園に至るまで、施設開設に猛反対の運動に遭遇し、水もない無人の小島に追いやられ、そこで孤独な生活を続けた青木恵哉ならではの言葉というべきか。
私は動物以下なのか!
日中戦争が勃発した翌年1938年に設置された厚生省は戦争遂行のための「健民健兵」の名のもとに国民の体力向上を謳った。その流れのなかで、ハンセン病は近視、花柳病とともに兵力を削ぐ「三大国辱病」とみなされ、「撲滅」「駆除」すべきものとされた。そのために採られたのが武力を背景にした日本軍による「強制収容」だった。その時の模様を記した次のようなパネルがあった。当時19歳、沖縄島中部生まれの女性の手記である。
「私は動物以下か 今すぐ来なさいって何も用意なかったよ。洗面道具と着替え1,2枚持って。大通りに行ったらね、トラックがあって待っていた。1人来てない人がいて待っていたから人がたくさん見に来てるんだ。『私見せ物か、追っ払え。私は帰る』言うたよ、『帰らせん』言うていたけどね。トラックの荷台にもうそのままよ。上もないしね。あちこち寄って、人乗せて。15名、・・・途中で雨降って。『傘ください』言うたら傘ないって。『バショウの葉っぱでも取っておきなさい』と言うからよ、『私は動物ですか。動物でもカバーかぶせるんだよ、雨濡らしたり、動物以下か。あんなのあるか』って怒ったよ。」
その横には、乳飲み子と引き離され、車に乗せられて園に連れて来られたという当時34歳の女性の手記が展示されていた。
銃剣で威嚇して親族から引きはがし
軍部による強制収容の中でも最大規模のものは、沖縄に配置された第9師団の軍医・日戸修一が中心になって1944年9月に行われた「日戸収容」だった。この時は当時の園長・早田晧や県衛生課、警察、保健婦も動員された。展示は、その時の模様をこう記している。
「住民と将兵が地域で混在する中、日本軍はハンセン病患者に注意を向け始めた。住民と接触する機会が増えた将兵にハンセン病がうつることを恐れたのである。患者は家の裏座や離れ、家畜小屋の屋根裏などでひっそりと暮らしていたが、日本軍は武力を背景に、患者を愛楽園へ強権的に収容していった。」
「日本刀や銃剣で威嚇し、農作業中の者を着の身着のままトラックに詰め込んだり、親族から無理やり引きはがしたりするなど有無をいわせぬものであった。」
すべての夢を捨てないと暮らしていけない
ではこうして家族から強制的に絶縁させられ、愛楽園に隔離された人々の「壁の中の暮らし」はどのようなものだったか?
「壁の中の暮らし 療養所の壁の中に入ると、壁の向こうを『社会』と呼ぶようになる。ここで生きるしかないと思っても、家族への断ち難い思いがある。 対岸の国頭(くにがみ)を望む東の浜は、鳥の卵を取る子どもたちの活躍の場になり、夕暮れともなれば、昼間は患者作業で働く若い男女の語らいの場になる。 夕暮れ時、向こう岸を走る車の付いたり消えたりする灯りを一人浜に座って眺める少年は『ここから出て家に帰ることができるのだろうか』と涙を流す。 東の浜は、家族と断たれた人々が岩場に身を投げ、松の枝に体を下げ、自らの命を絶った場所でもある。そして、堕胎された胎児が埋葬されたのも東の浜である。」
こうした当時の療養所の様子を収容された1人の男性(推定年齢20歳代前半)は次のように語っている。
「夢を捨てて 社会にいることは許されなかったし、家に帰れば、家全体に迷惑もかかるし、どちらを向いても自分たちの出ていく場所はなかったわけです。 もちろん、こういう解放される時代もあるといえば、出ていくための準備もしていたでしょうが、どうしても療養所で一生を終えるんだという気持ちで過ごしてきたんですから。私たちが社会で家庭をつくるということはもうまったくの夢の夢でね。夢の中でもない。全ての思いを、すべての思いを捨て去っていく。そうしなければ暮らしていけないという、そういう当時の現実ですから。」
初出:醍醐聡のブログから許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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