5月26日(日)ちきゅう座主催の討論集会が明治大学自由塔で開かれ、高橋哲哉氏(東大名誉教授)による沖縄米軍基地本土引き取り論を拝聴した。筋道のしっかりした問題提起、何よりも運動論の底にあるはずの原理と気構えを示された。
反面、聴衆のほうの反応は、基地問題を論じながら、トランプ・アメリカ大統領専用機が日本国の正面玄関羽田空港ではなく、横田米軍基地に降り立った属国確認行為を全く話題にもしなかった。国家人ではなく市民社会人の感性としては当然なのか。
私=岩田は、昭和20年6月、大田実海軍少将が自決直前海軍次官あてに送った電文を想起していた。「沖縄県民カク戦ヘリ。県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。」
日本常民社会は、電文にある「後世」を現在と心得て、あたかも大田少将が高橋教授の口を借りて説くが如き「基地の本土引き取り論」を「格別ノ御高配」としてではなく、常民凡人の当然・当為として受け止めるはずである。
かつて日本人は勇敢な兵士であったと言う。しかしながら、史実を見る限り、日本人が勇敢に戦ったのは、日本国の領土内ではなく、主に外地であった。
私=岩田の研究対象であるユーゴスラヴィアでもポーランドでもそこに住んでいる人々は、侵攻する外敵に対して現場で勇敢に戦った。自分達が住む所で戦ったのだ。侵攻した側のイタリア人もドイツ人も外地から追い出されると、イタリア人はイタリアの本土で、ドイツ人はドイツの本土で戦って、降伏した。戦争主体としては筋が通っていた。
神武建国以来、特に明治維新以来、日本人が勇敢に戦ったのは外地であって、本土ではなかった。空襲も艦砲射撃もあった。しかし、本土陸上での決戦は避けた。そのおかげで、私達軍国幼年の世代は疎開先から生きて東京へ帰る事が出来た。
侵略先で勇敢であった日本軍が、本土では無抵抗で武器を置いた。賢明だった。正しい決断だった。ただし戦争主体としては筋が通っていない所がある。不名誉な所がある。
あの不幸限り無き沖縄戦は、本土決戦の始端であったはずだ。沖縄県民は、それを引き受けて、心ならずかも知れないが、日本人の不名誉を自分達の血で減らしてくれた。天皇家だけでなく、私達もまた自然法・天道に照らして沖縄県民に負い目がある。
ここでは広島と長崎には触れない。米国政府のジェノサイド戦争犯罪として別個に考察されるべきであろう。
最期に私=岩田が昭和58年・1983年2月、始めて沖縄を訪れた時に作った五言歌を示す。初出は岩田昌征著『凡人たちの社会主義 ユーゴスラヴィア・ポーランド・自主管理』(1985年12月20日、筑摩書房、p.376)
沖縄(昭和58年2月)
ひめゆりの みたまらは たてをふせ
をみな児ら かたらずも ほこを折り
みまかりぬ 摩文仁だけ よそとせを
かのあなを ふくかぜの こともなく
たてあなを くやしきを 経りぬれば
きさらぎの かなしきを みたまらに
ながめこそ つたふれば ときこそは
くらくらと なみだこそ とまれるを
濡らしけれ あめまじれ 問はざりき
令和6年・2024年5月27日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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