風はいったいどれほどの歳月を吹き続けてきたことだろう。
ただのいっぺんもこちらの思い通りに吹いてくれたことはないけれど、季節の折り目折り目を吹き分けて、光をはこび、匂いをはこび、人びとの胸にさまざまな思いをはこび、どこへともなく去っていった。
―滝平二郎『母のくれたお守り袋』
三鷹市民ギャラリーで4月22日から7月2日まで開かれていた滝平二郎展のポスターがある大学の図書館に貼ってあったのを偶然目にした。この図書館には4月半ばから何度も足を運んでいたが、このポスターにはまったく気がつかなかった。展覧会の終わる少し前に私は急いでそのギャラリーに行った。滝平の絵を見ると、彼の絵を初めて見たときのことが思い出される。中学生になったばかりの頃だった。『ベロ出しチョンマ』という妙なタイトルの子供向けの本が家の本棚の中にあるのを発見した。タイトルの不思議さに惹かれ、その本を棚から取り出した。タイトルも奇妙だったが表紙の絵はもっと奇妙だった。江戸時代と思われる封建時代の男の子の人形がベロを出している絵なのだ (後に、版画であることが判明するが)。タイトルの下には斎藤隆介作という文字と滝平二郎絵という文字が書かれていた。
この発見以降、私は斉藤隆介の絵本を読むようになったのだが、斎藤のほとんどの作品の挿絵は滝平のものだった。最初は版画だったが、それがきりえになっていく。きりえという言葉は昔からあるような錯覚があったが、滝平によると朝日新聞の記者が彼の絵の属するジャンルを示すために1969年に命名したものだそうだ。切り紙でもなく、剪紙でもない新たなジャンルが滝平の絵から生み出されたのだ。だが、こうした新たなジャンルの誕生は絵画史の中で繰り返し起きてきた出来事である。たとえば、ツヴェタン・トドロフは『日常礼讃』(塚本昌則訳) の中で、17世紀のオランダにおいて、画家たちが宗教画という枠組みを取り払うことによって風俗画という新ジャンルを生み出したことについて詳しく論じているが、きりえも同様に切り紙や剪紙からの解放によって確立したのである。枠組みが外されることと新ジャンルの確立との関係性は絵画史を考える上で大きな意味がある問題である。
しかし、こうした問題の探究は本文で展開するとして、先ずは、このテクストの構成について一言述べておこう。ここでは滝平二郎のきりえに対する考察を行っていくために、彼の生涯と彼の作品の特徴を論述し、さらに、滝平二郎のきりえと深く結びついている斎藤隆介の物語テクストとの連関性に関しても検討していき、最後にこれらの問題をまとめていく。
滝平二郎の生涯
1921 (大正10) 年4月1日、茨城県新治郡玉里村 (現在の小美玉市) で、農家の二男として滝平二郎は生まれた。この村は霞ケ浦の北端部に面し、筑波山を臨むことができる茨城県南部に位置している。ある画家の幼少年期の思い出がその画家が制作する作品に色濃く反映するとは限らないが、彼の場合は、この湖と山のある故郷の風景とそこで繰り返された田舎の日常生活が作品のベースをなしているのは確かなことである。霞ケ浦は四季折々の美しい風景で人々を楽しませてくれ、暮らしを支える魚の宝庫であったが、深刻な水害をもたらす魔の湖でもあった。「大雨が幾日も続くと、霞ケ浦の水位が上がる。堤防がないので、水は自然に田んぼへおし寄せ、呑みこまれた田んぼは、たちまち大海のような霞ケ浦そのものになって、屋敷の下道が船つき場になる」(『母のくれたお守り袋』:以後注記がない限り滝平の言葉の引用はこの本からである) と彼は書いている。筑波山もそうだ。霞ケ浦の向こうに見える筑波山の景色は心を和ませてくれるが、冬に筑波山から吹き降ろしてくる冷たく乾燥した北西の風は体を芯から冷え切らせる。「「にし」(筆者注:西風のこと) は、筑波山のてっぺんから、湖面にむけて、白波をけたててふきおろした。(…) 「にし」がふくと、女たちの手がひび割れて血がにじんだ。ぬれた手もたちまちかわいて「にし」がしみ、しみこんではぴりっと割れた、まるで「にし」は刃物をかざした鬼風であった」という記載がある。滝平二郎の多くの作品には、こうした湖、山、風といったものの下で毎日の生活を営んでいる人々が描かれている。
小さな時から絵を描くことが好きだった彼は、小学校の高学年にすでに絵描きになると決心していたらしい。その後、茨城県立石岡農学校に進学する。在学中に、日本で初めてのダダイスト集団であるMAVOの会員であり、風刺画家である柳瀬正夢のカリカチュアに傾倒する。ドイツの風刺画家ジョージ・グロッスも柳瀬の著作を通じて知ったようである。『母のくれたお守り袋』には「無題」とタイトルがつけられた彼の絵が掲載されている。1937年、16歳の時に描かれ、次の年に茨城県の下館市と笠間町で開かれた漫画研究同人展に出品されたものだ。画面全体にびっしりと人が詰め込まれている。どの顔も奇怪で、陰鬱な表情を浮かべている。この絵について彼は「そしてさらに目をこらしていると、この暗鬱な画面の底から、私だけに見えるものが次第にはっきりと浮かび上がってくる」と述べている。この言葉に続けて、「それは、その日まで空想物語でしかなかった「戦争」が、今や現実そのものの殺し合いとして、着々と身辺に迫りつつあるという不安に耐えながら、一人蒼白の面もちで立ちすくんでいるひ弱な少年の「私」の姿である――」と語っている。青年期を戦争と共に生きた滝平二郎のこの思いは、グロッスや柳瀬の社会的な抵抗と孤独感に通じていないだろうか。それがどんなに小さな思いであっても。彼は農学校を卒業後に、木版画を始める。
1942年、造型版画協会第六回展に出品し入選するが、同年召集され、沖縄の飛行部隊に配属される。1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸し約二カ月間の激戦の後に日本軍の守備隊だった第32軍はほぼ壊滅し、組織的な抵抗が終わる。だが彼はそれを知らずに部隊からはぐれ、一人、山中を8月3日まで彷徨した。「沖縄の山中を稜線づたいに敗走中、米海兵隊の一団に遭遇したことがある。一瞬早く掃射され、谷間の藪を逆さまになって転落するときも「神さま」には気づかなかった。わずか十秒か二十秒の間だったが、それまでの二十三年の生涯のあれこれすべてが、明滅しながら走馬灯のようにきらめき走り、これでもう再び母親に会うことは出来ないのか、というなんともいえぬ悲しさだけが、しびれるように体中を駆けめぐった」と滝平は書いている。また、「いきなり烏の大群が不気味に鳴いて飛び立ったあとに、兵隊服の白骨が散乱している光景にも、しばしば出会った。それは、明日はわが身かと思わせる瞬間でもあった。一ぴきの虫けらのように自分が縮んでいく瞬間でもあった」とも。こうした戦争経験を描いたスケッチは残っているが、きりえ作品に反映されることはなかった。だがそうした彼だからこそ、日本で初めて創作民話絵本の中に民衆の抵抗というテーマを導入したと言われる斎藤隆介の作品と共鳴したきりえを作り出すことができたのではないだろうか。
1946年に帰郷してから版画作品の制作に打ち込み、1947年に日本美術会主催の第一回日本アンデパンダン展に出品。1951年、版画による絵本作品『裸の王さま』(私家版)を作製。それが滝平の初めて作った絵本である。1957年頃から出版美術の仕事に携わる。1967年に斎藤隆介の『ベロ出しチョンマ』の挿絵を担当し注目を集める。この作品は版画によるものだが、同年よりきりえによる制作が始まる。1974年、第9回モービル児童文化賞を受賞。1987年『ソメコとオニ』で第10回絵本にっぽん賞を受賞。2009年、がんのため88歳で死去する。このように滝平は戦後きりえ作家として活躍していくが、斎藤隆介の物語と彼の絵との連関性は重要な問題である (千点を超える挿絵を斎藤の物語のために制作している)。だがこの連関性については、「テクストと絵の融合性」で詳しく検討する。
作品の特色
このセクションでは滝平二郎のきりえの特色について考察するために、以下の三つの問題の探求を行っていこうと思う。それは、きりえの特徴、日常というテーマ、作品で用いられている線と背景である。何故なら、この三つの問題は彼の作品を考えるための根本的な分析装置となり得るものだからである。
きりえというジャンルの名称成立に関してはイントロダクションで述べたが、きりえという名称が定着する以前にもきりえは作られていた。1956年頃に東君平が創作したものが最初であると言われている。その後、中国の剪紙の技術的な紹介があり、その影響を受けて木版画家であった滝平二郎が1967年に『紅楼夢』の挿絵をきりえで描いた。しかし、この時点ではきりえという名称はまだなく、この名称が名づけられたのが前述したように1969年のことである。日本きりえ協会による『きりえ全科』という本の中には「紙などを切って平面上に貼ったもので、刃物による切り口が生かされた絵」というきりえの基本的定義が書かれている。また、用いられた紙などの「すべてがつながっていなくともよく、白黒で表現することは基本ではあるが、色を使ってもかまわない」とも述べられている。さらに、きりえ協会は伝統的細工物とは異なり、「創作のための絵画技法」である点を強調している。滝平が『きりえの世界』の中で語っている「木版画が彫刻刀で板をポリポリ彫っていくのと同じように、きりえも色紙をカッターナイフで切りとって形を作る。木版画ときりえは、刀の彫りあと、切りあとの味わいを大切にする点でも似ている」という言葉に着目しよう。その類似性は木版画からきりえへという制作技法の移行を容易にさせた大きな要因だったからである。
滝平の作品の特徴をテーマの側面から考える上で重要となるものが日常性という問題である。上述した本の中でトドロフは17世紀オランダ絵画における日常性の重視に関する解明を行っているが、オランダ絵画の成立を通して、「(…) 日常生活の無限に多様な世界が絵画の王国に迎え入れられ――以前には、それが美しいと思われることはなかった――、平凡な人びとのありふれた生活が、称賛の対象となるだろう」と書いている。こうしたオランダ絵画を確立した画家たちの美術史上の貢献を導いた精神は、滝平の作品の中にも見出されると述べ得る。それだけでなく、トドロフの「オランダの画家たちは道徳の存在をごく当然のこととして認めるのだが、生活への強烈な愛をきわめて自発的に表現することによって、道徳を超えてしまう。どこをとっても完璧なのは現実それ自体ではなく、画家の眼差しなのであって、それが世界のなかから選択し、世界を変形することで、われわれを美に触れさせるのだ」という言葉も滝平の創作姿勢に対して述べたとものとして読んでもおかしなものとはならない。日常性への暖かな眼差しは、滝平のきりえの大きなテーマの一つだ。そして、彼の描く日常性というテーマにおいて注目すべき側面は、絵本の挿絵以外の作品にも子供たちが多数登場する点である。つまり、滝平の作品の主要テーマは日本の子供たちの四季折々の日常生活と語ることができるのだ。だが、この問題に関しては結論部分でもう一度詳しく検討する。
滝平のきりえの絵画技術については特筆しなければならない点が多数あるが、ここでは線と背景という二点に絞って考えてみたい。きりえは油絵や貼り絵などとは異なり、絵の具や紙を何重にも重ねて表現する技法を用いることはできない。滝平は、「きりえ造形を支えるものは、なんと言ってもその簡素な様式性にある」と語っているが、作風に応じて、「ざっと見渡しただけでも、見るからに爽快なもの、清冽なもの、勇壮、華麗なもの、繊細、孤高、凄絶、異形、鬼気、魔性、夢幻、毒舌、扇動、奇矯、隠微、猥雑、醜怪、哄笑、苦悩、慟哭、哀愁、甘美、等々、天国から地獄まで、よかれ悪しかれ作者の意図や趣味性が存分に映し出されて多彩な結果となる」とも書いている。滝平の技法上の線について斎藤隆介は『きりえの世界』の中で、「(…)「滝平切り絵」は太い線を使っているにもかかわらず、自在にしなやかだ。微細に画中人物の動きと心理と生活を伝えてくれる」と述べている。滝平の太く強いがシャープな線は彼のきりえの技術を考える上で中心的な役割を担っている。背景は大きく分けて五種類のものが使われている。(1) 真っ白:『ちょうちん屋のままッ子』の多くのシーン (以下:の後は例示である)、(2) 真っ黒 (白い点々による雪が描かれる場合もある):『土の童子』の終わりのシーン、(3) 草木:『くわばら くわばら』の数シーン、(4) 波:『八郎』のクライマックスの数シーン、(5) 火:『三コ』のクライマックスの数シーン。シンプルな背景で複雑なものは用いられていないが、画面全体の効果を高めている。滝平の作品の線や背景は素朴さや簡潔性を感じさせ、日常性というテーマとマッチしている。
テクストと絵の融合性
滝平二郎の作品の多くは挿画として創作されたものである。それゆえ彼の絵が挿画となっている物語テクストとの関係性を考えることは重要な作業となるが、ここでは挿画の歴史、絵本というジャンル、斎藤隆介の絵本の中での滝平の絵という三つの問題設定に対する探究を行い、滝平の作品と物語テクストとの間テクスト性に関して考察していこうと思う。
挿画の歴史は古い。古代エジプトにおける『死者の書』などが書かれているパピルスの巻物の中にすでに挿画は登場する。西洋の装飾された挿絵が掲載されている書物の歴史について、挿画家として有名なウォルター・クレインは『書物と装飾』(高橋誠訳) の中で、(1) 中世写本の時代、つまり印刷技術発明以前の時代、(2) 印刷された書物の時代というように大まかに二つに分けられると述べている。クレインは (1) の時代にはテクストの書き手、装飾画家、挿画家が同一である場合も少なくなく、装飾画家と挿画家が同一人物である場合はかなり多かったという指摘を行っている。(2) はもちろんグーテンベルクの活版印刷の発明以降の時代である。大量生産が可能になり、分業化が進み、書き手、装飾画家、挿画家が同一であることはまずあり得なくなった。日本の絵本の系譜を辿ると、平安時代の絵巻物から室町時代の室町絵本、さらには江戸時代の草双紙へといった流れを追うことができ、明治期に西洋の印刷技術が導入され、現代のような絵本の形態になった。挿画にきりえが積極的に用いられるようになったのは、前述したように、滝平の作品の登場以降である。
絵本というジャンルのテクストについて見ていこう。絵本を物語と絵とがセットとなっている本と考えれば、その始まりを確定するのは容易な作業ではない。だが、世界で初めて作られた教育絵本は1658年にチェコのヨハネス・コメニウスがラテン語で著述した『世界図鑑 (Orbis Sensualium Pictus)』であるのは確かなようだ。絵本は読むだけでなく見る楽しみも満足させるものであるが、子供を対象として書かれる場合がほとんどであるため、少なからず教育的側面を帯びている。また、エクリチュールのみによって何らかのテクスト空間が創造されているのではなく、挿画との間テクスト性があって初めて絵本というジャンルのテクストが作り上げられる。もちろん、子供向けではない小説に挿画が描かれる場合も少なくない。だがその挿画はエクリチュールを副次的に支えるもので、決して相互依存的に絵と文によってテクストを一個の作品として完成させようとするものではない。この絵と物語との強い相互連関性は絵本の大きな特徴であると言えるが、滝平二郎のきりえは、斎藤隆介の作品ととりわけ強い結び付きがある。
滝平二郎が挿絵を描いた絵本は斎藤隆介の物だけではないが、斎藤の物語テクストと滝平の絵の強い連関性は、『ベロ出しチョンマ』、『花さき山』、『モチモチの木』、『ふき』、『ソメコとオニ』など二人で作り上げた絵本が多数あり、二十年以上も一緒に仕事をしていたことからも容易に理解できる。挿画のほとんどのものがきりえである。滝平は「わたしは物語と人間が好きだ。これを離れてわたしの画業は成り立たない」と何度も言っていた。この点に関して、「作画動機は画家によってさまざまですが、そのいずれもが人間的衝動に発しないはずはありません。たとえば、私には私なりの生い立ちがあり、多彩とはいえないまでも私なりの人生があり、歴史があり、その過程で育まれた思想や趣味に根ざした美意識があります。これらが私の人間的衝動の地下水となり、作画動機の土壌となっていることはまちがいありません」とも書いている。物語性の重視は歴史性の重視とも繋がっている。こうした滝平の創作態度について、斎藤隆介は『きりえの世界』において、「現代絵画は「純粋美術」をめざして物語性を捨て、広汎な大衆を捨てた。かつてわれわれは絵巻物をもち、セザンヌやゴッホにも影響を与えた木版画をもっていた。今の「純粋美術」にはあの物語性はない。滝平さんはその大衆の飢えをみたしたのではないか」という意見を展開している。この物語性=歴史の尊重は斎藤の物語生産の姿勢でもあるが、物語性についてはもう一点述べておくべきことがある。それは物語というものがある特定空間や特定時間、特定人物を設定することなく語ることができないという点である。斎藤のテクストは創作民話の性格を帯びたものが多く、そのテクスト性に基づき滝平は挿絵を描いているが、そこに登場する人物がいつ何処で生活していたかは明示されていない場合が多い。それにも係わらず、われわれはその時代を近代よりも前というように考え、その場所を日本の田舎の村と考えてしまう。主人公たちも滝平のきりえの人物として頭に刻み込んでしまう。そこには事象の完全な具象化と完全な抽象化との中間項としてのイメージ世界の確立という問題があるが、ここではこれ以上の考察をせずに詳しい考察は結論部分で行う。
ヴァルター・ベンヤミンが主張している弁証法の大きな特徴の一つは、それが過去を救い出すという目的を持つことである。弁証法の方向性を逆転させることによって、かつてそこにあり、ある方向に向かって行くことも可能であった過去、それを救い出そうとする装置がベンヤミン弁証法であるのだ。だが、過去の何を救い出そうとするのか。それは過去が持っていた希望の光だ。ベンヤミンは過去を過去としてすでに決定済みで、動かすことのできない固定したものとは見なさず、一つの物語として考えていた。物語であるからこそ、今生きているわれわれにも対話可能である出来事となる。過去と向き合い過去と語り合うためには、話し手の言葉を受け止めてくれる聞き手が必要である。物語は、読み手が対話者として耳を傾け、語ることも可能となる対話空間を作り上げる。
ベンヤミン弁証法を実践する一つの方法が物語の構築であるが、斎藤隆介と滝平二郎の共同での物語構築作業はまさにその実践例である。一般的な物語テクストが言語記号のみに基づく実践であるのに対して、絵本の場合はまさに共同作業が重視される。そこには物語形成という対話性だけでなく、作家と挿画家との対話性も存在し、さらには読者に向けられた対話性も存在する。そこには多くの声が複雑に交差するポリフォニー空間が展開されるのである。スーザン・ソンタグは『反解釈』(高橋康也ほか訳) の中で、「芸術において世界を超克したり超越したりすることは同時に世界と出会う方法であり、世界のなかにある意志を鍛え陶冶する方法である」と書いている。斎藤と滝平の共同作業によって作られた絵本はまさに一つの方向に向けて、ある意志を表明している。それは過去の希望を救済しようとする意志である。封建体制下の農民のひたむきな希求、村を守ろうとする若者の未来に対する決意、少女の幼い子へ向けた優しいいたわりの心、少年の小さな勇気への賞賛、幼い子供たちの小さな願い。過ぎ去った時の中に消えてしまった多くの出来事。それは、じっと耳を欹ててしっかりと聞こうと思えば聞くことのできる出来事である。救済しようという意志は、そうしたものを紡ぎ出そうとする意志である。
このことに関して忘れてはならない問題がある。斎藤も滝平も弱者に焦点をあてて作品を描いていったという点である。二人は権力者に虐げられても逞しく生きようとする民衆を尊んだ。貧しくとも思いやりのある人々の心を愛おしんだ。八郎や三コといった強い力を持った主人公であっても、弱者の味方であり、権力者と対峙した。弱く、小さく、月並みで、質素で、貧しく、日々の生活を懸命に生きようとする人々への慈しみ。それが斎藤と滝平の作品の最も大きな特色である。斎藤は『花さき山』のあとがきで「私は、「けなげな風景」には弱い。テレビなどを見ても、小さいものが、もっと小さいものを、「あれは自分より小さいのだから」――と自分に言い聞かせて、ジッと辛抱している風景など見ると、アフッとあやうくせぐり上げてしまいそうになる」と述べているが、こうした斎藤の弱者への心情に対する共鳴があったからこそ、滝平は斎藤の物語の挿画を二十年以上も、千枚以上も描いてきたのではないだろうか。それだけではなく、挿画以外の作品にも斎藤のこうした思いへの共鳴の跡が見出される。玉里村の裕福ではなかった農民の子は、青年となって沖縄の山中を死の恐怖に怯え彷徨した。その経験は斎藤の物語に共鳴しながら、過去の希望の光を救い出そうとする作品を生み出していったのではないだろうか。
展覧会場で滝平の作品を見つめていると、ふと、清岡卓行の「氷った焔」の一節が頭に浮んできた。
どこからから世界を覗こうと
見るとはかすかに愛することであり
病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり
絶望とは生活のしっぽであってあたまではない
ギャラリーのある建物の外に出ると、梅雨空の曇った空に僅かな光がのぞいているのが見えた。6月の終わり。もうすぐ暑い夏が来る季節。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログより許可を得て転載
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-279.html#more
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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