[東京五輪から大阪万博へ] 2回目の大阪万博が2025年に夢洲(ゆめしま)で開催されることが正式に決定された。このイベントは主催関係者が事前から周到に準備し根回しをして組織したものである。まもなく2020年に開催される2回目の東京五輪もそうである。関係者以外の者たちは、正式決定の後に知らされる。
このように、普通の人間は、重要な情報は「事後的に」知らされる。この情報伝達の事後性、出来事の事後性、いいかえれば、情報の受け手の受動性に明確に気づかなければならない。
[ロンドン万博をマルクスはいかに評価したか] 第1回万国博覧会は1851年のロンドン万博である。マルクスたちがヨーロッパ大陸における1848-49年革命に敗北し、1849年ロンドンに亡命して、2年後のことである。マルクスは自分たちの機関紙『新ライン新聞』でこのロンドン万博について、つぎのように論評した。
「[1848年以来の]工業の繁栄は…‥1851年の産業大博覧会[ロンドン万博]によっていっそう強められるであろう。この博覧会の開催は、まだ[マルクスたちがヨーロッパ]大陸全体で夢を見ていた1848年に、すでにイギリスのブルジョアジーによって、まったく驚くべき冷静さでもって、公表されていた。…‥この博覧会は、現代大工業がいたるところで集中された力をもって、民族的境界をとりのぞき、生産や社会関係やそれぞれの民族の性格における地方的特殊性をますます消し去っていることの適切な証明である」(MEW,Bd.7,S.430)。
マルクスのこの文章は、21世紀の現在に射程距離をのばす力量をもっていないだろうか。1851年ロンドン万博は、出品者1万3939人、入場者約600万人、収益16万5000ポンドの成果をあげた。万博は儲かるのである(リットン・ストレイチー『ヴィクトリア女王』冨山房百科文庫を参照)。ショウ・イベントは万博から五輪へ展開する。
マルクスは、このようなイギリスを中心とする「世界秩序(Pax Britannica)」、いいかえれば、世界市場形成(グローバリズム)が始まりつつあると言明する。この言明は、1848-49年革命闘争についての彼自身の敗北宣言である。彼は主観主義的な虚勢を張らない。この宣言に彼の冷静さが記録されている。
この冷静さでもって、この年から3年間(1851-53年)、ロンドン博物館の図書館に通い詰め、「24冊のロンドン・ノート」を作成する。このノートは、百科全書的な、しかし内容で緊密に関連する研究ノートである。その成果を活用した草稿が、1857-58年の『経済学批判要綱』である。『要綱』には「ロンドン・ノート」への参照指示がたくさんある(内田弘『経済学批判要綱の研究』新評論、1982年を参照)。
[初期マルクスの社会主義像の廃棄] したがって、1840年代のマルクス(初期マルクス)と、それ以後のマルクス(中期マルクス・後期マルクス)とでは、資本主義認識で根本的に異なるようになったことに気づかなければならない。初期のマルクスが観ていた資本主義は、資本主義になろうとしている産業革命段階の資本主義である。
資本主義的生産様式の形成過程である産業革命過程から生まれた、いわゆる社会主義論では、資本主義の後の社会像(post-capitalist society)を描けない。現存した(現存している)社会主義国は、産業革命段階の権威主義型資本主義である。中国だけでなく、タイ・ミャンマーなど権威主義的後発国もそうであろう。
しかも、すでに「ちきゅう座」に掲載された拙稿「消費せよ、しかし沈黙せよ」で指摘したように、この後発独裁制の方が、侃々諤々(かんかんがくがく)の多党制よりも、現代の高速技術を内装したグローバリズムに適合的ではないかという逆説が成立しているかもしれないのである。
[社会主義的所有制は国有制か] 産業革命段階の社会主義像は、赤の広場や天安門の高見に立つ指導者が眼下の道路を後進する大衆を睥睨するような権威主義的エリート・モデルである。1848年の『共産党宣言』の社会主義は「国有制」である。『マルクス・エンゲルス全集(Werke)』の「事項索引」でも、そうなっている。
資本主義でも、国有制は部分的に採用する。日本のかつての公共企業体がそれである。水道事業はこれまで地方自治体という公共体の事業であった。それが民営化されようとしている。
[資本の文明化作用への注目] マルクスは、自分たちがヨーロッパ大陸で革命運動に熱中しているとき、世界市場の覇者、イギリス・ブルジョアジーが世界史的画期をしめす、そのイベントを沈着に強かに準備していたことを、冷静に認識し反省している。これからイギリスを中心に如何なる世界が展開してくるかを知らなければならないと自分に言い聞かせているのである。
[マルクスは西欧中心主義者ではない] 『要綱』でその新しい世界史的な大波を「貿易および資本の文明化作用」と名づける。ただし、このように見えるのは、西欧世界の人間の観点からであって、文明化作用を受ける(日本を含む)非西欧世界の人々にとっては、事態は異なって見えるだろうと『要綱』で条件をつける。マルクスのこの相対的観点は、宗教および貨幣の流布範囲には限界があることを確認する、1841年の学位論文からの固有のものである。マルクスは「西欧中心主義者」ではない。
[東京五輪・大阪万博による日本の戦略] 翻って、「東京五輪から大阪万博へ」の連続するショウ・イベントによって、主催者たち日本の支配層は、如何なる日本を樹立しようとしているのか、この肝要な問題について、誰が如何に批判的に考えているだろうか。
[大阪富裕層が橋下市長を支持した] アントニオ・ネグリ研究家・遠藤孝氏が本稿筆者に示唆した研究によると、大阪の橋下市政を支持したのは、経済的に厳しい生活を余儀なくされている社会層ではない。「高い地位や高い収入を重視する者のほうが、それらを重視しない者に比べて、橋下を支持している」(松谷満「誰が橋下を支持しているか」『世界』2012年7月号、109頁)のである。現在の状況も同じであろう。
[ポピュリズムの担い手は誰か] 最近、非難語として「ポピュリズム」という言葉が頻繁に使用されているけれども、大阪橋下ポピュリズムの担い手は富裕層=高額所得者である。彼らこそが、大阪万博を支持する階層であろう。安倍政治から優遇措置を受ける者も、日本の富裕層である。政府の国民への役割を否認する「自己責任論」がこの社会層の本音である。彼らにとって税金ゼロが望ましいのである。
[上海万博の実態] かつての万博は工業製品を中心とするものであった。しかし、本稿筆者が復旦大学の案内で訪れた「上海万博」(2010年)では、治安維持のためか、各国のパビリオンには展示物はほとんどなく、御国自慢の景色・品々の映像をスクリーンに映すのみであった。大阪万博はどうなるのであろうか。焦点は統合リゾート(IR)の核心・カジノである。
[難波にも外国客は来る] 問題の核心は、《大阪万博の客は夢洲(ゆめしま)に集中し、大阪下街の難波・道頓堀にはやってこないのではないか》という心配事には存在しない。いや、心配ご無用。
外国人観光客は、夢洲のあと、道頓堀や、さらには東京渋谷の《パリ都市景観などからみれば万物がゴチャ混ぜのアナーキーに見える風景》(建築学者・井上章一)が非常に珍しくて、その好奇心から見に来るのではなかろうか。《渋谷が外国人観光客の一番訪れたいところである》という調査結果がある。自慢してよいことであろうか。
[都市景観のアナキズム] 加えて困ったことに、あのような都市景観が「市民的土地所有の自由の具体例である」と是認する者もいる。ミラノの都市景観に、中世特権都市のなごりを観て、ミラノ市民の共和精神の顕現である、あの都市景観を否認する。日本では都市景観の現実認識も、このようにアナーキーなのである。
[風情のない日本現代建築] それだけでない。有力な建築設計者が、どこでも同じようなビルを設計する。各々の都市の固有性など、念頭に無いのであろう。そのビルにケバケバしい広告をほどこす。だから、最近の東京銀座の新築ビルの味気なさを嘆く声が上がる(『毎日新聞』2018年12月2日「読書欄」)。
[豫園・シャンゼリゼ] ところが、上海の独特な空間「豫園」にある「スターバックス」は、その街並みに溶け込むように設計されている。その街全体の統一感が美しい。上海中国人の美意識の貫徹である。そういえば、パリのシャンゼリゼの「マクドナルド」も押さえられた、おとなしい色調になっていた。
[演出されたイベント] 第1回ロンドン万博が、イギリスのブルジョアジーが沈着に準備し演出してきたものであることを、マルクスが冷静に認識していたことを先にみた。社会認識には、《大きな出来事こそ、冷静に強かに準備・演出された事柄である》という観点が不可欠である。大きな出来事は、偶発した事柄では、まったくない。逆である。利害関係者が、密やかに連絡しあい、集まり、時間を掛けて検討を重ねて、《よし、これでいこう》と意思決定するまで隠されている。その結果を、ドラマティックに公表するのである。
その公表を聞いて、利害関係者以外の者は、驚き、感激し、「いいね」と唱和する。そのような反応が起こるように、仕掛けが準備されている。自発的に思える大衆の感激も、実は演出の結果である。
《オ・モ・テ・ナ・シ》とタレントが笑みを浮かべる。首相が《マリオ遊び》をして、笑いを誘う。これも、ドラマ仕掛けである。現実の生成はこのように演出されたものであるから、「演劇の演出」と「現実の生成」との出来事としての原理的区別は存在しない。
[なぜレーガンが大統領に] だから、ハリウッド映画俳優のレーガン(ハリウッド・マッカーシズムの担い手)が大統領になれたのである。《あんな下手な西部劇俳優なんかに、大統領なんて務まらないよ》という、かつての日本の知識人の反応は、肝心の現実生成のドラマトゥルギーが分かっていないことを証明する。高見から映画文化を見下す者に現実認識力は存在しない。
日本では長らく演劇学部・映画学部が存在しなかった。東京芸術大学は、音楽学部と美術学部のままであり、演劇学部は設置されない。芝居・映画は存在価値の軽い遊びとみなされてきたのではなかろうか。
[作為を自然に見せる作為] 社会的なイベントは自然発生ではない。《周到に演出された現実》である。《人為的ドラマ》なのである。「人為を自然に見せる人為」が仕込まれている。しかも、このようなイベント開催資金は、そのイベントを事後的にしか知らされない国民の税負担になる。
[普通の人間も自己演出する] しかし、「演出された現実」はなんら不思議ではない。個々人の行為にも、その本性にしたがって、行為の作為的な事前性と事後性の区別と関連が存在する。
[自己演出する人間諸個人] 外出する時には、服装を整え、化粧し、人に会えば、言葉づかいも他人向けに変換する。作り笑顔もする。《あら、そう、大変でしたわねぇ》と同情してみせる。これすべて自己演出=自己演技である。そのジェスチャーには、「本気の演技」と「見掛けの演技」がある。
「本気」もそれを的確に表現しないと誤解される。毎日繰り返し行っているうちに、他人向けの「演技」も「自然」に感じるようになる。「第二の天性(自然)」となる。子供もそのようにしつける。礼儀作法である。
こうして、自分は自然に生きていると実感するように成長する。演技を演技と実感しなくなる。この心性は、下手な自己演出=自己演技を不快に思う。
[ムーアの《華氏119》] 少し前、マイケル・ムーアの映画『華氏119』を観た。観たあと、映画館の売店でその映画のパンフレットを買った。そのなかに「アポなしに突撃男[マイケル・ムーア]がすべてを暴く!!」というタイトルで始まる内容案内がある。
この「アポなしに」とは、訪問されるトランプ大統領には、事前にムーアを迎える準備をさせず、演技の準備ができない状態で、赤裸々のトランプを暴くという意味である。図らずも、「人間は外向きでは用意周到の準備をする」という真理を表現している。逆に、ムーアはいかにしてトランプの赤裸々を暴くかを周到に準備しているのである。
[アポが必要になった日本] 最近の日本でも、アポが日常化している。《スッピンでは、お会いできないわ》というように変化している。それだけ、日本社会も自己演出=自己演技社会になってきているのである。それだけ、人間関係が緊張に満ちたストレス社会になっている。それに耐えられない人間には、つらい社会である。
自分を善良に・美しく演出しようという社会であるから、それだけ「善良な社会」、あるいは「善良に見える偽善社会」になる。真偽混濁の社会である。かつて、アメリカ社会に住んでいた或る友人は「アメリカは偽善社会ですよ」と慨嘆した。彼は正しいのであろうか。
[演技は虚偽か] 演技は作為であるけれども、虚偽であるとはかぎらない。各々の生きる現場に適合した表現が、服装・言葉遣いなどに求められるから、それに応じているのである。生きる現場の条件にしたがって、われわれは生きている。
各々の人間にとって、立ち振る舞いは、的確に人為的であることによって自然であり、真実なのである。いわゆる嘘は、「人為的真実の内部での嘘」である。いわゆる「フェイク・オルタ真実」もそれである。
[真実も虚偽も真実らしく] 真実は、真実らしく提示されなければならない。しかも、虚偽も真実らしく演出される。真偽問題は、真理と虚偽の両者が真理として現象する二重性(Dualität)に存立する。
[カント=マルクスとヘーゲル] マルクスが学生の時から考えてきた問題がこれである。カントもそこに近いところで「仮象(Schein)」を考えていた。ヘーゲルには、カント=マルクスの懐疑論に対応する懐疑論が存在するだろうか。
地動説が天文学的には真理であると分かっていても、日常生活では天動説の意識でものごとを観ている。「真理」のこの二重性を自覚するかどうかが分岐点である。この二重性は「微分と積分の二重性」と共振する。
[駅前景観と民主主義] ほとんどの駅前の景観は、各々勝手なケバケバしい広告で、充満している。それに慣れっこになって、通勤・通学・ショッピングにやってくる。このような「美」意識は、民主主義的統一の社会的基礎の脆弱さと無関係であろうか。駅前景観と民主主義とは無関係である、とでもいうのであろうか。
[民主主義(自由)+共和精神(自己統一)] 自分たちが各々演出している都市景観の現実にも、自分たちの正体・本音が示されている。そのような現実の姿とは無関係に、民主主義が存在するわけではない。毎日繰り返し観ている景観が内面に浸透しているので、《何で問題なの?》と不思議がる。その問いが問題なのである。
民主主義がファシズムに収斂しない防波堤は「共和精神」に存在する。共和精神のない民主主義に、ファシズムがしのびよる。多数派は少数派をつぶしたい衝動に駆られ、少数派は多数派に忖度したくなるような欲動が潜在していないだろうか。
ファシズム権力に投獄された《獄中**年生活》は、獄舎の外の社会に対して、実践的・政治的には無力ではないか。そのようなリアルな反省なしに、獄舎生活を誇ることができようか。
[偽装転向・戦時レトリック] この冷徹な認識に、「偽装転向」、戦時に「イソップの言葉」で抵抗する「戦時レトリック」の有効可能性が開かれている。後年の人々に誤解・誹謗される泥をあえてかぶる者の志を、後年の者たちは、沈着に見定めなければならない。
占領軍内の新聞『ザ・スーズ・アンド・ストライプス(星条旗)』の記者が、「戦時レトリック」の実践者・三木清の獄死(1945年9月26日、豊多摩刑務所)を報道し、それがきっかけとなって、長期獄囚たちが解放されたのである。占領軍の命令が出るまで、山崎内務大臣は彼らを釈放しようなど、まったく考えていなかったのである。
[POS-System からAI個別店舗需要予測へ] 最近の『東京新聞』(2018年11月27日(火)夕刊1頁)のトップ記事の見出しは、「来客予測9割的中:AIで働き方改革:伊勢の老舗食堂が開発:全国に[ノウーハウを]販売」である。
その店の過去の来客データのAI(人工知能)による分析でもって、明日の来客の人数がほぼ的中する制度を持つ「来客予測システム」を開発に成功したというニュースである。
このシステムによって、店全体や従業員1人当たりの売上高が増加し、無駄な時間が省け、給与を上げ、有給休暇も増やすことができるようになったというのである。
[コンビニなんて] かつて、社会主義計画経済の精度をめぐって議論したことがあった。本稿筆者が、《ところで、日本のコンビニエンス・ストアのPOS-System(販売時点生産管理システム)は、ソ連東欧などの計画経済より需要予測の精度が高い、柔軟性に富んだシステムなのではなかろうか》と発言した。
すると、《そんな下世話な非学問的な事柄なんか》という反応を示し、議論にならなかった経験がある。どうやら、社会主義計画経済の理論も経験も、コンビニとは次元が異なる高次元の論題であるという先入観が存在するようである。そのPOS-Systemに加えて、このAI個別店舗需要予測システムの出現である。
《生成する現実は演出されたものである》という上記の命題は、人工知性が媒介するようになったのである。人工頭脳でもって、これから行おうとする行為が、より精度の高い行為になっている。このような変化は、自動車の向かう目的地に、GPSとの応答でより正確に、より速く、到着できるようになったことなど、数多存在する。
膨大な数の人間の個別的な自由な行動は、その過去の行動を解析するシステムに従うという制約を受け入れることによって、より自由によりコストを少なくできるようになっている。
[AIシステムで演出される現実] 五輪・万博などのビッグ・イベントの演出者は、このようなAIシステムで組織された社会的諸条件に生きる人間を、如何に演出し動かすかという命題に取り組んでいるだろう。
憲法改正で出現するといわれる「テレビ広告意見」もその一環であろう。巨額な資金が、世論を動かし、日本を変えてゆくのであろうか。著名なタレントが笑みを浮かべ、美しい日本の神話と伝統をささやくのであろうか。
《日本は神話から生まれた特別な国である》と主張する本が、最近、新宿の大きな本屋の店頭に、近くを行き交う人々の眼につくように、数十冊も陳列してあった。白い表紙が帯のように連続して、目立つ。
[ピケティ、フジタ、フェルメール] ピケティの『21世紀の資本』も、ベストセラーになるように仕掛けられたものではなかろうか。藤田嗣治展のつぎは、フェルメール展である。事前に書店に「フェルメール本」が一斉に何種類も陳列されている。これらも強かな「演出された現実」の事例である。ピケティ論争、フジタ論争、フェルメール鑑賞も「演出された現実」である。演出される者は、その演出自体に気づかなければならない。社会的自然は、演出された人為・作為である。
丸山眞男の論文「歴史意識の古層」における「つぎつぎと・なりゆく・いきほひ」は、現代では高度な社会的人為性が媒介している、と再定義しなければならない。内田義彦の大佛次郎賞受賞を祝う会で、内田義彦を渋いイロニーでもって祝った丸山眞男が、生きていれば、その再定義になんと答えるであろうか。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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