潮平芳和: 民主主義よ、死ぬな Yoshikazu SHIOHIRA: Democracy, Do Not Die!

沖縄のジャーナリスト・潮平芳和氏(琉球新報)のフェースブックでの投稿を見て、拡散許可をお願いしたところ、加筆修正して当ブログに寄稿いただいた。名護市長選が「辺野古基地は要らない」との民意を確実に日米政府に示した2日後の暴力。我々は、この事態を放置するとしたら人の道にもとるとしか言い様がない。

@PeacePhilosophy

民主主義よ、死ぬな潮平芳和
これを暴政と呼ばずに、何と呼べば良いのだろうか。
沖縄の名護市長選で、 米軍普天間飛行場の辺野古移設に「拒否」の民意が明確に示された、わずか2日後の1月21日、目を疑いたくなるようなことが起きてしまった。

日本政府が公然と民意を無視し、普天間代替基地の設計や環境調査などの受注業者を募る入札を公告したのだ。この国の政権与党が「私たちは、沖縄に民主主義を適用する気はない」と宣言したようなものだ。激しい憤りを覚える。日本のみならず、世界の民主主義の歴史、歩みの汚点となる悲しい現実である。

平和と環境を重視する政党として名高い公明党の沖縄県本部は沖縄の民意に寄り沿っており心強い。しかし、東京にある公明党の本部は安倍政権の暴走に対するブレーキの役割を十分には果たしていない。どうした平和の党・公明党!(本部本土の各都道府県本部)。同党支持者の中からも、そんな叫びが聞こえてくる。

日本のマジョリティー、1億2千万の国民も他人事では済まされないが、それを認識する国民はまだ少数だ。沖縄の異議申し立てを、保革、イデオロギーの右左、政権与党野党の問題、反米行動と捉えるのは、根本的な間違いだ。しかし、こうした沖縄県民の基本的な思いを理解しようという国民はまだまだ少数だ。

フランクリン・ルーズベルト米大統領が提唱した「四つの自由」(1941年1月=言論の自由、信教の自由、恐怖からの自由、欠乏からの自由)及び米英間で結ばれた「大西洋憲章」(1941年8月締結)に、「平和的生存権」の源流を見いだすことができる。

この憲章は、「すべての国民が、自国の領土内で安全な生活を営むための、および地上のすべての人類が、恐怖と欠乏からの自由のうちにその生命を全うするための保障を与える平和の確立することを希望する」と宣言している。この宣言は、日本国憲法の「平和的生存権」の原型だと言われている。

「沖縄のすべての住民は、恐怖、暴力、欠乏、貧困、抑圧、環境破壊にさらされることなく、平和のうちに居住する個別的具体的権利を有する」。
これは、沖縄の政治学者や憲法学者、新世代の政治家、自治体職員らで構成する沖縄自治研究会が2005年に作成した『日本国憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法』(試案)の中で宣言したことだ。沖縄にも、日米両国国民と同様に平和的生存権があるのだ。

沖縄で今起きていることは、人間としての尊厳、誇り、平和的生存権、自らの未来は自ら決めるという自己決定権の問題なのだ。これを放置するほど、21世紀の民主主義は劣化してしまったのだろうか?決してそうではないと、私は確信する。

あるべき民主主義の理想を訴え続けることが「愚直」と言う人がいるのなら、愚直と言われてもいい。だが、一言付け加えたい。民主主義を刻一刻と死滅に追いやるような愚直―それと一線を画することを沖縄県民はむしろ誇りとしているということを。

日本国民に問いたい。沖縄に対する執拗なまでの構造的差別、理不尽な暴力を、沖縄以外の46都道府県の国民は見て見ぬ振りを続けるのか。あるいは無視するのだろうか。

それとも沖縄に連帯して、普天間の閉鎖・撤去、県外・国外移設を後押ししてくれるのか。民主主義を自分たちの手に取り戻す用意はあるのか。

親愛なるキャロライン・ケネディー駐日米国大使にもこの場を借りて、問いたい。あなたも、二重基準は許されない。日本のイルカ漁に反対し、米本国ではマナティーを手厚く保護するのだろうが、沖縄のジュゴンは守る価値などないと考えているのではないか。違うというなら、ちゃんと証明してほしい。

法律家でもあるケネディー大使には、ほかにも聞きたいことがある。米国国民の生命の安全、尊厳、基本的人権が侵害されることは不正義であり許しがたいが、沖縄県民の生命の安全、尊厳、基本的人権が侵害されることは不正義ではなく、やむを得ない、許容すると思っていないだろうか。

偉大な黒人指導者キング牧師は「私には夢がある」と語った。沖縄県民にも、平和で豊かな沖縄を実現したいとの夢がある。家族とともに、愛する人とともに、ごくささやかな幸せをこの手でつかまえたいとの夢がある。

去った第二次世界大戦の時のようにおびただしい数の命を奪う戦場にするような悪夢は、二度と呼び覚ますことを決して許さない。この国がどこかと戦争をするような悪夢も二度と招かないし、許さない。

戦争を喜ぶ市民など本来いないはずだ。多くのウチナーンチュが共有できる、普遍性のある夢は何か。それは、万国の津梁となり、軍事ではなく平和の要石になることだろう。

この沖縄の夢を、米国はなおも踏み潰し、歴史に汚名を刻み続けるのか。独立宣言の精神や米国民主主義の良心を呼び覚まし、行動するときではないのか。これまでの対沖縄政策の過誤を根本から改めるつもりはないのか。バラク・オバマ米大統領にはそれくらいの決断はたやすいはずだ。

沖縄県民の堪忍袋の緒がいつまでも切れぬと思ったら大間違いだ。
多くの県民が胸の内に秘めているのではないか。非暴力の異議申し立てを決して止めない。マハトマ・ガンディーに思いを馳せながら、沖縄の行く末を見据えている沖縄住民は決して少なくない。強欲な覇権主義、植民地主義には、いつか歴史の審判が下される日が来る。

沖縄から訴えたい。この国(日本)の民主主義よ、死ぬな。米国の民主主義よ、世界の民主主義よ、死ぬな。

初出:「ピースフィロソフィー」2014.01.22より許可を得て転載

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2014/01/yoshikazu-shiohira-democracy-do-not-die.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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