ここ20年間、左翼はほとんどみんなデモクラットやリベラリストに変身してしまい、「社会主義者」の5文字が温水中に溶解して見えなくなっている。最近は水温も徐々に下がって、溶け込んでいた「社会主義者」の5文字が結晶化して姿を現すであろう。自然法則であり、物の道理である。
そこで、その昔、社会主義者が維新運動家の目にどのように見えていたか、をここで紹介したい。神兵隊員の獄中記である『維新は幻か』より。
去年(平成27年)6月23日の「ちきゅう座」「評論・紹介・意見」欄に「昭和維新、原発、三木清」を書いて、中村武彦氏が獄中で見た神山茂夫(共産党指導者)と三木清(哲学者)の姿を紹介した。それも参照されたし。
昭和7年(1932年)、両国署。
――身体上の拷問はなかったが、精神的心理的拷問は巧妙だった。・・・種々の誘導訊問に対する抵抗の弱かったことは恥ずかしい。黙秘権などない時代だが、できる限り黙秘もし出鱈目を並べもしたが、左翼の闘士が拷問に堪えながら断乎たる黙秘を通して屈しないのに比べれば、甘いものであった。所詮、愛国学生の純情などというものでは、戦いにも勝負にもならなかったのである。pp.57-58
――たらい回しで、もう留置場生活が三年になる男など、一種の悟境に達したように超然悠々として、まことによい人相をしていた。佐野、鍋山の転向声明にショックを受けたようだが、しかし、あれは裏切り者だ、卑怯者去らば去れと笑っていた。pp.60-61
――堀口庸造という当時の極左の労働運動の闘士は、夜半に血と泥にまみれて投げ込まれた。この気息奄々たる新入りに対してはわずか遠慮がちのヤキが入れられた。半死の状態にも仮借のない取り調べが翌日から始まった。調べに引き出される時は元気に出て行くが、帰って来る時は虫の息である。しばらくして身を起こし座り直した姿には侠客でいえば大親分の風格があった。それを毎日繰り返すのである。この筋金の入った不屈の共産主義者が、全く理屈を言わず気質は極めて日本的で、私には兄貴のように思えた。p.61
――最も忘れがたいのは、私が入って来る前から入っていた美しい二十四、五の女性で、共産党のシンパ。上流家庭の令嬢で名前も住所も分かっているのだが、本人が白状しないので、「両国ケイ子」と呼ばれていた。もう拷問に疲れ果てて目の色が変わっていたが、私が入って三日目の夜中に発狂して、わけの分からぬことを絶叫しながら、角格子を蹴る足が血みどろになり、凄絶な光景であった。病院に連れて行かれた後の消息は聞けなかったが、共産革命に賭けた情熱の激しさに頭が下がり、見事な女性として涙のこぼれる感銘を受けた。pp.61-6
昭和17年、拘置所。
――その一味の(スパイ・ゾルゲの、岩田)共犯ブーケリッチにはしばしば筆記室などで一緒になった。日本語がうまく、「武家利一」と署名した手紙をよく妻か愛人に書き送っていたが、陽気で愛嬌のある禿頭で、スパイという暗い感じは全くなかった。絶対に許せない連中であるが、何のためにせよ、スパイと罵られ死刑をもって脅かされても、たじろがないその姿勢には一目置かずにおれなかった。p.180
ブーケリッチの妻故山崎淑子さんと息子の山崎洋氏とはベオグラード留学以来知り合いである。山崎洋氏がブーケリッチを「武家利一」と漢字表記するのを見て、「おかしいよ。武家が利を第一にするとは。武家理一にしたらよい。」とコメントしたことがあった。氏は何も答えなかった。中村武彦著『維新は幻か』の一節を読んで、「武家利一」が網走で獄死した父親の形見である事を悟った。まことに心ないコメントであった。ちなみにブーケリッチは網走でかの宮本顕治と交流があった。
平成28年5月1日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6064:160501〕