現代美術を観る一つのヒント

 ノーウォー展の私の作品に関連してYさんから絵を観るのは難しいとのご感想をいただきましたので、ちょうど良い機会ですので、この際現代美術を鑑賞する一つの手がかりを書いてみます。解り易ところでまずYさんとのやり取りから始めます。

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◆こんばんは、Yです。10mの迫力拝見しました。
一緒に写っている人が何とも小さく見えること。すごい迫力ですね。
がしかし、絵心の無い私には、残念ながら気の利いたコメントは出て来そうにありません。やっぱり、「絵」は難しい!!絵を観て感じたことは、下方にある隆起した部分は「山」に見えます。「山」といえば、日本の象徴である「富士山」、つまり日本から様々な場所へ様々な「線」、否、「平和の波」が拡がっている。様々な色使いは、世界中に生きている「人」や「自然」、が入り乱れて暮らす世界。そんな風に見えました。製作者のワコウさんには、「分かってないなー」と叱られそうですが、「NO WAR」のタイトルから勝手にそう解釈してしまいました。もっと、もっと「絵」の事を勉強しないといけませんね。ホント「絵」は難しい。
 ◆ワコウ
Yさんのご感想には大変感心しました。大変知的な方ですね。
ありがとうございました。
絵を観ることは難しいことではありませんが、その感動や思いを的確な言葉にするのは、長年美術をやっている私でさえもなかなかできません。
それは、言葉を超えた、または、言葉で限定されないジャンル・感覚の世界だからだとしか言いようがありません。
それを表す適切な言葉が見つからないのです。いや無いのだと思います。
発生当初殆どの言葉は、政(まつりごと)をするため・すなわち支配する共通概念を認識させるための便宜から生まれているからでしょうか?
ところで、絵の観方に付いては、間違いもなければ正解もありません。そういう狭量な判断をするという考え方を超越した世界を目指しています。

このインスタレーションに関して言えば、生成時の地球と現在のカオスとそれに震撼した私の内面の抉りだしなどを感じ取っていただければありがたいと思っています。

天空からの声と大地の呼応、それに共振した私の感覚

赤やオレンジの声高のパッション(血や爆発)と緑やブルーの安直でないヒーリングなどを。

ですが、まったく違っている感想でも有り難いのです。
かえってその方が、美術家にとっては思わぬ可能性の展開が起こるかもしれないからです。

実際私の場合、描いているときは、そういう観念を取っ払った、「無の勢い」で臨んでいます。
あくまでも言葉は後付けです。
予定調和的に頭で考えた観念を絵にするのならイメージの枯渇、広がりのない窮屈な既成概念を超えないつまらないモノになるでしょう。

感想は、美術や美術史に精通していて、頭で考えて出てくることだけでもないように思います。そういう意味で、あながち「ノー・ウォー」に関連つけて考えるだけのことでもありません。
また、言葉が出ないことも広い意味で言葉の内と解釈できます。

例えば、「グググウーッ」と感じた。

      「ゲー」と感じた。

でも大いにありです。(笑)

頭で考えた理路整然とした言葉や評論家が自己の文章に酔って知識をひけらかしているような難解でご大層な言葉を並べるより、その方がかえって伝わってくることがありますから。

もっと心を自由にして、美術を観て戴けると嬉しいです。

何事からも解き放たれた自由でピュアーな心が一番大事です。
(なかなか人間そのようにはなれませんね、規制の構造もとに生きてきていますから、知らず知らずの内にそれに仕組まれて侵されていますから、それに気づかないですね)

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 Yさんも仰っていますように「現代美術は難解だ、わけがわからない」 という言葉をよく耳にします。 そのように思わせる悪いいち役を担っているのが評論家で、余計に解りづらくしていると思います。 

<何事からも解き放たれた自由でピュアーな心が一番大事です。>

と前述しましたが。

とはいっても、『何事にも依らない自由な人間』になるのはなかなか至難の業です。

「言うは易し」です。

それは、人間は、生まれて此の方その地場の規制の構造のもとに生きてきていますから、何かしら知らず知らずの内にその体制に侵され仕組まれ続けています。普段の生活をしていてそれに気付くのは、並大抵のことではありません。
日常の一切の流れを精神的に断ち切って、心の奥を切開し、真摯に自己に問いかける自己相対化できる力量が必要とされます。
そうして自己革命をしなければ、獲得できない大変なことだと思います。

ここに、美術を見る一つのヒントを申します。
先ず、「美術はこうこうこういうものだ」とか、「美術はこのように鑑賞するのだ」と一般に言われている観方を全てやめることです。
観るその人の感性や好悪から入っていってかまわないのです。
そして次が大事なことですが、
“なぜ嫌いなのか”
“なぜ好きなのか”
“なぜ苦手なのか”
“なぜ関心がないのか” 
をその人自身に自ら問いかけるのです。
そこからおのずと様々な問題が浮上してきます。
そこでは当然その人物の自己相対化が始まりますし。
その美術の表出していることの深度や自己との感性の違いなども解ります。

このことだけでも、もう立派にその美術と主体的に関わっていることになりますし、深く鑑賞している証左になります。
それから少し深めるとすると、その美術家の生きた(ている)時代背景を勉強することです。本質的な美術は、何らかの意味でその時代と拮抗しているものだからです。

特に現代美術は、呑気で陳腐な自然の模倣(対象物を写して描く)を出発点とはせず、世界に対して如何にその美術家が格闘し、表出(表現)するかを問題としています。

その例として次の二人の美術家の作品を掲載します。(以前私のブログでも取り上げましたので詳細はブログへ。カテゴリーから直ぐ検索できます)

クリスト(2007/10参照)

 

ヴォルフガング・ライプ(2007、10/25~11/15参照) 

 

これらの美術家は、世界的に認められて超有名ですから日本でも展示されたことがあります。
ライプは、竹橋の近代美術館の所蔵作品にあります。常設展示もされています。

 若生のり子のブログのアドレスは: http://blog.goo.ne.jp/nw0515 です。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

〔opinion126:100909〕