現実と未来―長めの論評(その2)

著者: 三上 治 みかみおさむ : 社会運動家・評論家
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安倍が小泉の後に首相として登板したのは2006年であった。彼は憲法改正を大きな課題として提起した。これは唐突な感じがしたが、戦後体制《レジーム》からの脱却の中心にくるものであり、彼の政治理念やビジョンと言う意味では当然だったのだと言える。その安倍が退陣に追い込まれる事態についてはあらためて述べる必要がないが、今回の安倍の登板との政治状況の違いは確認して置く必要がある。それは一言でいえば、尖閣諸島問題を契機とする対中国問題が大きく浮上していることで、かつての憲法改正などの唐突感はどうなったかである。尖閣諸島の領土的帰属をめぐる日中の対立が先鋭化しているようにみえても、それは馬鹿馬鹿しいことであり、棚上げされてきた対応の延長線上で共同所属なり、共同開発なりに持って行くことを誰しもが望んでいる。偶発的な衝突で事態がとんでもないところに転ぶことはありえるが、この腺での解決が進展していくだろう。この事件の演出者である石原慎太郎やそれに親近感をもつ安倍にとって、問題は領土問題ではなく、これを媒介に民族意識を高揚させ、憲法改正などに結び付けることである。この政治的意図はある程度実現しているのであり、その意味で安倍の再登場にとっては政治環境の整備になっていることをみておかなければならない。

これは安倍がかつて登場したときよりは憲法9条の擁護や保持の道は厳しくなってきたという感想を持つということだ。かつて安倍が憲法改正を掲げて登場したとき、憲法9条をアジアに広げる構想で対抗しようとしたことを想起する。僕らは憲法改正の動きに対して「対外的紛争」を武力で解決しないという憲法9条の考えをアジア諸国に広げることで対抗することを」構想したのである。これが困難に満ちたものであることは自覚した上で9条によるアジア諸国民との連帯の道を考えたのである。これが基盤にならないとアジア的な連帯は困難と考えたのである。

憲法9条が世界関係に適合しないから改正をせよと陰に陽に迫ってきたのは憲法9条を最初に構想したアメリカであった。冷戦体制での軍事パートナーに、集団自衛権の行使仲間にという形で憲法9条の放棄を迫ってきたのはアメリカだった。現在では日米同盟の深化と憲法改正はセットになっている。小泉元首相が自衛隊の海外派兵で集団自衛権の行使に実質的に踏み切ったことは憲法改正を構想したことであり、安倍がそれを引き継いだ。国民の意志という点での憲法9条擁護はそれなりに強固ではあるが、世界的にはこの理念(思想)は孤立を強いられてきた。これは憲法改正をめぐる動きはアメリカと日本の関係で現れてきたのである。自民党は一貫してアメリカの押し付け憲法をという理念の下に、自主憲法制定という憲法改正論を展開してきた。だが、憲法改正の動機はアメリカの要求であり意向であるという矛盾がここには存した。しかし、アメリカの立場と対立する憲法9条の保持は世界的には孤立を強いられてきたのだ。

日本が海外に軍隊を派遣せず、地域紛争などに価値観を持って介入しないという立場は孤立を強いられてきた。この孤立は逆にいえば世界の民衆と連帯しているのであり、国家よりは民衆と連帯しているという立場だったのである。だから、僕らが憲法9条をアジアにという構想を持ったことは必然であり、これで日米同盟下の安倍の憲法改正に対抗しようとしたのは当然のことだった。これが現実的には実現の厳しいものであり、理念にとどまるものであるにしても重要な方向なのである。現在でもこれからも提起せねばならないことである。尖閣諸島問題や竹島問題で中国や韓国との関係が緊迫する時代だからこそ紛争を武力で解決しないという憲法9条の重要さがわかるのだ。領土問題を含めて中国や韓国との関係を考えるとき、憲法9条を基礎にすることなしに構想はでてこない。その意味では尖閣諸島問題が呼び起こすものとして憲法9条のことを考えて欲しいのである。

ただ、僕はここでアメリカとの関係だけではなく、対中国や韓国との関係でも憲法9条は孤立を強いられる側面があり、それを意識させられる側面が強くなることを見ている。9条擁護と保持にはそれだけの覚悟のいることを主張したいのである。中国や韓国はそのナショナリズムを近代の対日関係(日本のアジア関係)に対抗する形で形成した側面がある。日本の帝国主義的な戦争への抵抗である。これは中国人や韓国人の国家意識の大きな要素であり、対日意識において重要な役割を持っている。これは相当長く続くものである。このナショナリズムは歴史的な要因が日本にある以上は一般的なナショナリズム的な対抗関係には持ち込めないものである。日本人が中国や韓国等に歴史的な負荷の意識を持ち、対抗的にナショナリズムを呼び起こすことに冷静であり、覚めてあることの契機になっている。これは重要な点である。だが、韓国や中国のナショナリズムがこういう側面を超えて対抗的に日本でのナショナリズムを強める契機になりえる点は自覚されているのか。ナショナリズムの負的側面に自覚的であるかは疑問を感じるところもある。あらためてこの点を考えよう。

先に述べたように中国や韓国のナショナリズムは日本の帝国主義的な侵略に対抗するものとして形成された歴史性がある。このことに僕らは自覚的であるほかない。しかし、そのような歴史性を媒介にしたものであれ、このナショナリズムが自国の優位意識に転じたものになって行かない保証はないし、それについては批判的になるしかない。ナショナリズムは対抗的にナショナリズムを高めて行く契機になる。反日は容易に反中や反韓の円環を創りだして行くものである。それには批判的になるしかない。僕らは中国や韓国で日本が歴史的に生み出したナショナリズムと国家意識としてのナショナリズムを区別しながらその後者については批判的になる必要があるのだ。

この点は従来の左翼的立場が曖昧にしてきたところであって、そこに踏み込んだ立場を形成するしかない。僕は先のところで憲法9条の精神に立つことが孤立を進めるかもしれないと述べたことと関係する。憲法9条の精神(紛争を武力で解決しない)はナショナリズム的な国家主権や国家意識を超えている。ナショナリズムや国家主義への歴史的な反省からそれはうまれたのであり、憲法9条《前文も含めて》はそれを超えているのである。憲法9条がナショナリストから目の敵にされてきたのはそれがナショナリズム的な国家意識を否定するからである。日本の内部で憲法9条を根幹に据えた安全保障や外交のことを主張することは政治環境としては困難を増す。これはアジア的な関係においてもそうなのである。アジアの民衆との連帯ということではこの立場は決して孤立しているわけではないが、国家間関係を媒介するときはそうではない。ナショナリズムが媒介し、その壁になっているからだ。このことは僕らには覚悟のいることなのである。

安倍が再度、首相の座につくか、どうかはわからない。僕らは憲法改正を目論む安倍を首相にならせたくない。ただ憲法をめぐる政治的環境が悪化している状況を考えれば、孤立を覚悟した闘いが不可避であるように思える。アジア的視野での構想を保持することで、つまりはアジア的規模でのナショナリストとの闘いを想定しなければならない。かつてのアジア主義はナショナリズムと不可分であるところに陥没の必然性があったが、脱ナショナリズムを根拠にしてのアジア主義は可能ではないのか。これは憲法9条の可能性ではないのか。この間の脱原発の運動の持続と展開は僕らに希望をもたらしているが、これはアジアに広がる可能性を持つ。脱原発の運動は世界的な、またアジア的な視野の中にあるが、これはナショナリズムを超えて行く基盤の一つといえる。憲法9条保持と脱原発とはアジア的視野において結び付く契機を持っている。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1028:121009〕