生活奪われる原発事故

<未曾有の原発事故で家族離散>
 2011年3月11日の東日本大震災発生、翌12日に東京電力福島第1原発1号機爆発と、その後に放出された大量の放射性物質は、かけがえのない大気や水、土壌を汚染した。相次ぐセシウム検出と、放射性物質汚染の広がりは果てしなく続いている。
 いま東日本大震災1年を経過して、特集記事、報道特集等が目立っている。
 新聞の見開き特集記事などから目立った見出しを拾い上げてみると、
「日常奪った放射能」、「内部被爆:体内にとどまり放射線」、「産業なお壊滅状態」、「廃炉工程 課題山積み」、「放射線が復興阻む」、「広大な汚染域」、「避難者 8.5 万人」、「県外避難者 遠のく故郷」、「職・住喪失、生活描けず」、「老朽炉 延命の不安」、「児童生徒が半減」、「福島去る医療従事者」、
・・・と、悲壮な現実と苦渋が、そしてあまりにも深刻な原発事故の波紋が映し出されている(最近の毎日新聞紙面から)。 
 “未曾有の原発事故”は、「安全幻想」を根底から打ち砕いた。なんと大きな、計り知れない罪づくりを犯してしまったことか。「土地を失い」、「避難民をつくり」、「家を捨て」、「職(仕事)も失わせ」、「家族をバラバラに」、「安住の地の無いまま、放浪の身」が続く人々にとって、今なお「あしたの見えない悲しく厳しい現実」が立ちはだかっている。

<東電・政府のズサンな対応>
 にもかかわらず重大原発事故後の東京電力、政府等の対応のズサンさにはやりきれない(2011年3月29日付「ちきゅう座・スタディルーム」拙論「東日本大震災と菅政権のまずい対応」参照)。
 その“ズサンさ”は各方面から指摘されてきたが、なかでも官邸や東電の責任をばっさり、当事者責任に深く踏み込んだ報告がこのほど出された。2012年2月27日、東京電力福島第1原発の事故原因を、民間の立場で独自に検証してきた福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)が報告書をまとめた。報告は、菅直人前首相の行動を「混乱や摩擦のもとになった」と批判する一方、東電の事前対策の不備を「人災」と断罪し、他の政府・国会が設置した事故調査委員会とは異なり、しがらみなく、自由度が高く、「第三の事故調」の存在感をアピールする内容となっている。
 最も安全が要求されるはずの原子力発電の危機管理の“ズサンさ”だけでなく、驚くべ                  き「原発導入への偽装報告書」も過去に出されていた。すなわち政府が1955年、原発を導入するために初めて派遣した海外調査団の報告書が、原子力委員会の設置を推進する内容に偽装されていたことが判明されたという(2011年7月17日付け朝日新聞)。

<電気料金値上げと、黒い“原発マネー”>
 こうしたズサンな東電の危機管理と、原発崩壊後の対応不能でありながら、事故後の“ツケ”を、電気料金値上げという東電には最も都合の良い方法で一般国民・市民に押し付けようとしている。
 安易な電気料金値上げの前に、東電としてなすべきことを十分に、きちっとなしたといえるだろうか?
 “ズサンな”危機管理を含め、東電(むろん経済産業省エネルギー庁等々も)の“自己責任”を棚上げにして、電気料金値上げや消費増税といった責任転嫁を言う前に、なすべきことがある。東電については、徹底したリストラ、組織改革(国有化、第3セクター化等も含め)、そして政府・政権側には、議員定数削減、議員報酬引き下げなど、誠意ある真剣な姿勢・対応が不可欠であろう。日本航空での犠牲、大幅改組以上に、深刻甚大な影響・被害を与えた東京電力にしては、中途半端な改革でない、大リストラ、改組なくして、電気料金値上げは理解できない。
 しかも電気料金から巨額な“原発マネー”(3兆円)が地方自治体などにバラまかれていた、という実態も見逃せない。電気料金を払ってきた我々一般消費者もいやおうなく間接的に原発推進に加担させられてきたことになる。情報公開もせずに、集金した電気料金が勝手に原発関連寄付金等にばらまかれていったというのは、なんともおかしな、不合理なことで、電気料金を払っている一人として反対したい。かかる不透明・不可解な原発マネーと地方自治体との結びつきが、知事選等での電力会社からの推進派への“選挙支援”といった“黒い選挙活動”につながっていった。
 さらに九州電力の原発運転再開を急ぐ“やらせメール”等々、原発問題にはあまりにも“黒い噂”がつきまとう。

<脱原発依存への道筋>
 経済産業省エネルギー庁のエネルギー政策の誤り、原発事故対応への混乱、危機管理の欠如等々が明らかである以上、震災1年となる今や、「脱原発依存」を含めた原発政策の転換を早急に、かつ明確に推進・実行してゆくべきであろう。
 被災地首長アンケートでも、6割が「将来原発は全廃すべきだ」と回答している。財源面等での“原発マネー”への誘惑はあっても、経済の論理(生活を豊かにしようとか、利益・財源を有利にといった)が、事故の恐怖を決して風化させてはなるまい。
 地震国の日本において、原発事故後にふるさとを追われた人々の苦しみ、何十年にもわたる放射能との闘いを心に刻み、国をあげて「脱原発依存の道筋」を早く示すべきであろう。
 原発は住民の生活も、何もかも奪った。人気(ひとけ)が無くなった“無人の町”の情景に、「何もかもおしまい(終わり)だ」といった避難民の悲痛な叫びに、原発事故の罪深さを思い知らされる。
 「決定的環境破壊」、「人類破滅への不安」、「消えない(処分できない)廃棄物の危険」などと指摘されている原発不安から脱却して、国民が安心して生活できるエネルギー政策への転換が求められよう。自然との共存による脱原発へのエネルギー政策の転換を早急に進めるべきではないか。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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