昨日1日、ちきゅう座運営委員長の合澤さんから、田中正司先生が1月26日に亡くなられたという知らせを受け、驚いた。でも、やはりそうであったかと受け容れる気持になった。
田中先生はイギリス社会思想史の研究者である。イギリスのジョン・ロックから始まってアダム・スミスに至るまでの「市民社会論」を一貫して追求してきた人である。その田中は日本の精神史のなかでどこにいるか。それをちょっと素描しておく。
わが国は古代以から現代に至るまで世界の先進諸国から多くを学び、咀嚼してきた「雑種」民族である。日本は幕末から明治維新にかけて本格的な欧米先進国との交渉に入るが、福沢諭吉の啓蒙書『学問のすゝめ』や田口卯吉の自由主義史観の書『日本開化小史』・「開化の性質」はその代表的産物の例であろう。だが日本は途中から「日本的なもの」にめざめ、ドイツがモデルに加わる。ドイツは先進のイギリスやフランスに追いつこうとしながらも独自の社会経済的基礎にもとづいて政策選択をしていた。それと同じく日本も遅れて世界分割に参加し、軍国主義と小帝国主義を生んでいく。こういう時にスミスは利己心の経済学者として貶められていくのである。イギリス思想史の研究はこの近代日本の歩みを反省し対抗するようにして深化していった。戦中の高島善哉や大河内一男に始まるスミスとリストの英独比較思想史研究がそれである。それは弾圧されていたマルクス研究の隠れ蓑でもあった。それが戦後に言論の自由をえてから、英仏の古典研究はマルクス研究とともに花盛りとなる。スミスなどは自由を求める声のなかで「ごろごろ」いる状況となる。アメリカ帰りの経済学徒は自分の先生の口をまねてスミスを「神の見えざる手」の「小さな政府」論者とみなして講義をし、教科書を書いていく。高度成長期になると利己心の自由を謳歌するエコノミック・アニマルが跋扈する。そこでそれらは本当のスミスか。改めてスミス研究が内田義彦や水田洋等によって進められていく。田中も少し時間をあけるが、それらのスミス研究に参加する、
その研究スタイルの一端。田中は文献学の新たな段階を正面から受け止めた。ロックにしてもそうであったが、スミスではグラスゴー大学が出した新全集を駆使していた。研究者として当然であるとしても、なかなかできることではない。田中が一時、一橋の史料研究所で働いていたことも了解できよう。
私が田中を知ったのは大学院生の時である。彼がロックのプロパティ(個体的固有性と所有との関係)を集中的に論じていた1970年代の初めころ、名古屋大学に集中講義に来た。マルクスの「所有」や「市民社会」概念の見直しに関連して近代ブルジョア的な私的所有の議論が盛んな時であった。田中の講義はプロパティの語を頻発していたが、議論の筋はすっきりしていたと覚えている。私はその後も研究会や学会を通じてであるが、とにかく精力的に次から次へと本を出していくことに感嘆していた。
その1つに彼の編著になる「スコットランド啓蒙思想研究」(1988年)がある。私は「ヒュームとスミスの会」で書評報告することがあった。その本はイギリス思想史研究の新たな成果を踏まえ、17世紀から19世紀までを大きく的確に整除しており、全体として国家→市民社会の線で捉えていた。立法や政策の基準として自然法がどう生まれて展開され、それがやがて功利主義にとって代わられるまでを追っていた。私はその思想史の流れを学びつつも、どうしてもそこに入りきらないものを論点として出したのだが、もちろんそれは自分自身の課題であって、それは私の本『社会形成と諸国民の富』で解くことになる。スミスは確かに市民社会が自然に歴史的に成立してくる様子を追っている。では市民社会史は人間の意志に関係なく実現するものか。市民社会史の実現を手伝う政治活動は必要ないのか。論拠を示して。だが田中はその後もずっと対象を変えつつも頑固にスミスから政治を捨象し、そのことの正しさを論証し続けていく。田中は自分でも述べていたが、その思想史は社会哲学的であり、かなり理論的であった。また自分の感情を他人の目をもって冷ますタイプと認めていた。こういうこともあって硬派の論客であった。
ちきゅう座の初代運営委員長について活動したことは先生にとって晩年を彩るものとなった。総会や現代史研究会ではよく張りのある声であいさつをされていた。髪の毛を顔の両側に少し長くたらしていた風貌が懐かしい。運営委員長の役は誰かに交替してもらいたい気持もあったようだが、周りはそれを許さなかった。運営会議ではよく「生活」の視点から論及していくことを促していたが、それはすぐには理解されなかったようだ。ちきゅう座は始まって15年になろうとしているが、私はこの間もこれからもその問題提起の意味を探てきたし、探り続けようと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座https://chikyuza.net/
〔opinion9412:200202〕