田口卯吉、この名は高校の日本史の授業で聞いたことがあるだろう。田口は明治の文明開化期にあって自由貿易を説いた人である。自由貿易と言えば、アダム・スミス。だから彼は「日本のスミス」と称された。私も最初はそんなものかと受けとめていた。
それが、意外な面を知ることになった。大学院に入って本格的に経済学を学びだした時である。内田義彦の日本資本主義思想の論説「明治経済思想史におけるブルジョア合理主義」(1960年11月)を読む。内田は田口が「日本のスミス」であるのは、有名な自由貿易論よりも、あまり知られていない鉄道論のところにあると論じていた。これがその後、私がスミス研究を進めるさいの一つの参考となった。今、私は改めて自分で捉えてきた田口の経済思想を書きとめておきたい。それは明治というその時代特有の思想であるが、21世紀の現代日本にあってもなおリアルであると思う。
豊かになるには自然の順序がある
明治の半ば、日本に鉄道熱が起きる。すでに明治5年に新橋―横浜間に最初の鉄道が官によって作られていたが、そこに民間の鉄道建設が加わる。明治14年11月、日本鉄道会社が作られ、上野―青森間を蒸気機関車で結ぶ計画が出される。田口はこの計画に懸念を示すのである。そこに経済的自由主義のエッセンスが現われている。
同会社の計画は以下のようであった。そこにその後の日本資本主義の性格が出ていて、面白い。以下では、2004年に評論社から出された老川慶喜・中村尚志編『明治期私鉄営業報告書集成(1)』を参照する。会計書類ほど無味乾燥なものはないが、それでも数字の奥から見えてくるものがある。
――鉄道建設には巨額の資金が必要である。でも新政府は財政難であった。その代わりにこの会社が資金を集める。資本金は天皇家をふくむ華族と士族の金録公債、第5国立銀行とあの三菱の岩崎文弥の出資でまかない、不足分は沿線の一般から株を募る。ただ一般公募といっても、沿線の各県がそれぞれの自治体に割り当てたから、半強制的であった。その自己資本でもって東京と遠方の都市を当時の先端技術である蒸気機関車で結ぶ。東京―高崎間(現在の高崎線)と、その途中の駅から青森までを結ぶ(今の東北本線)2本の線が企画される。それは発起人が言うように「大事業中ノ至大ナルモノ」であった。これによって生糸などの輸出産業を助け、当時の辺地であった白川以北に産業を興し、北海道経営につなげ、ロシアの南下にも備えようというまことに遠大な計画であった。
――会社は民間企業であるが、政府から助成を受ける。開業するまで8パーセントの利子を保証する、等。この助けがあって、株主への配当は資本利益率以上の高配当となる。また、工事にあたって会社には技術も設備もなかったので、代わりに政府が建設を引き受ける。その政府自身も材料のレールや機関車・客車を国内で調達できず、イギリスから輸入する。さらに、会社には運転や経営の業務をすることもできなかったので、それらを鉄道局に委託する。当然、社長は政府から派遣される。自主経営になったのは1981年になってからである。こういうのを民間会社とは言わないだろう。
田口は以上の会社に対して批判をする。その計画線は単に費用と技術の観点からみて最短をひいたのであって、現実の経済事情に十分に対応したものでなかった。線路のひきかたに問題あり。この問題は他の場合にもあった。政府は明治19年に東海道線を計画するが、当初、江戸時代からの東海道五十三次の戸塚や小田原、三島、沼津の宿を廻らず、御殿場を通るものであった。田口はこれをも批判する。アメリカのような新開地では最短の路線をとることでよい。だが日本のようにそれなりの文明を持つ国では、既存の宿駅に沿うように建設すべきである。小田原のような経済力のあるところはぜひ通すべきである、と。
そこで田口は会社に改善を求める。まず鉄道に対する需要から検討する。明治16年7月の現在、東京―熊谷間の線は完成していた。… ついでに言うと、当初は5両編成のマッチ箱のような客車が弁慶号の類の機関車に引っ張られ、点々と散らばってある大宮・川口・浦和の間の野原や田畑をトコトコ走っていたのである。1日2往復の便があった。早い方の便を見ると、上野・午前6時発が熊谷に8時24分着となる。今は普通便で1時間と数分である。乗車券は特別・上等・下等の3階級があり、料金は大人で特別が2円、上等が1円20銭、下等が60銭と、かなりの格差がある。こんな具合でも、その時の人々の感覚は、上野―田端間の鉄道唱歌にあるように、「汽車は烟を噴きたてゝ 今ぞ上野を出でゝゆく ゆくへは何く陸奥の 青森までも一飛に」!であった。
さて、田口の議論に戻る。東京―熊谷間の利用客は多い。以前から両地間は人力車や馬車の行き来があり、為替の流通も密であった。同じような需要は熊谷の先の前橋まではある。だから前橋までの鉄道建設はよい。では青森まで延ばすことについてはどうか?宇都宮までならば、そこまでの通過地における取引量は多いからよい。だが宇都宮から北の白川、青森までは取引は不活発であるから、蒸気鉄道は必要でない。敷くとすれば、木道か馬車鉄道が経済事情に適した技術だ。その建設費用も蒸気鉄道のそれぞれ15分の1、3分の1である。(これは「中間技術」の考え.。)経済力がついていくにしたがって、
木道 → 馬車鉄道、 馬車鉄道 → 蒸気鉄道
にしていけばよい。「大凡一国の進歩には必ず順序あり、貧国を進むるに富国の器具を以てすべからず、何となれば富国には富国に適するの器具あり、貧国には貧国に適するの器具あればなり。」(「鉄道論」、以下の引用にさいして送り仮名は原文のままとする)「百里の鉄路を布くは千里の馬車道を開くに如かず、2千万円を一路に費すは之を数路に費すに如かず、何となれば即ち日本は貧国にして未だ巨大なる事業に適する国柄にあらざればなり、今まや馬車木道を以て鉄路に易へば物産の蕃殖必ず多かるべく…而して漸次之を改めて鉄道となす、亦た可らずや。是れ実に貧国を誘きて富国となすの順路なり」(鉄道論』)。
田口は鉄道建設の2つの型を出す。1つが大資本を用いて遠隔地間の都市を結ぶもの。例はアメリカ合衆国のニューヨーク・サンンフランシスコ間の大陸横断鉄道。もう1つは「人民独立の資力」の小資本を用いて近くの小都市間をつなぐもの。これは成績をあげるにしたがい、次第に遠方の都市に延長していくというもの。例はイギリスの産業革命地帯にみられたもの。日本に向くのは第2の型だ。田口はそう論じて、自らほんとうの私鉄会社を起こす。明治20年の両毛鉄道。それは群馬県と栃木県にまたがる両毛地方、すなわち前橋・伊勢崎・桐生・足利・佐野・小山を結んで(今日の両毛線)、生糸・織物業地帯を日本のマンチェスターにしようとするものであった。それが通れば、日本鉄道と西は前橋で、東は小山で結ばれ、それぞれ上野をへて横浜の港につながる。同地方の生糸・織物は利根川を船で運ぶよりも輸送費が少なくて済み、東京の市場に出しても他地方から来る物と競争できる。彼はそう考えたのである。
平民主義者の山路愛山は田口を自由貿易一本やりのマンチェスター派だと批判した。田口は反論する。私はマンチェスター派ではない、私はコブデン、ブライトの徒だ、両毛地方から彼らのような見識ある人物出でよ、と。
田口の鉄道論では経済成長はゆっくり過ぎるかもしれない。巨大な交通革新が経済の潜在力を掘り起こすこともある。日本鉄道会社の路線は1887年には仙台まで、1891年には青森まで伸びた。わが国はこういう近代化をとにかくこなしていったのである。田口は近傍の直接的な利益のみを考え、間接の遠大な利益を考えていないかのようである。でも彼からすれば、日本鉄道会社のプランは上流階級の金衣玉食者が洋行して欧米の大トンネルや万里の鉄道にびっくりして、わが日本にも導入せんとしたものであった。彼は近くて小さな私利を満たして巨大な公益につながる道を考えるのである。すでに生まれている地域の経済力をさらに伸ばす、そのための民間の小経営の自由、これを彼は唱えた。後発国の経済発展は簡単に先進国並みにはならない。これは自由主義に対する通俗のイメージ――制限なき自由と大胆な革新――とずいぶん違うではないか。ここにはNHK放映の「坂の上の雲」のように上昇して膨張する日本とは別の、足元から横に展開する日本の道があった。
こういう田口である。その彼の『日本開化小史』はどんな文明開化を論じたか。気になる。さて、現実はどうであったか。田口の両毛鉄道は明治29年に日本鉄道に吸収合併され、明治末にはどの民営鉄道も国営化されていく。下からの文明化は抑圧されていく。