内田弘さんから、交流の広場での中野@貴州さん(以下中野さん)と私の宇野派の内輪的つぶやきの交換に対して、本格的な論考を寄せていただき感謝の念に堪えないこと、まずもってこのことを表明しておきたいです。
内田さんのご主張の基調については、①価値形態論②商品の物神性③交換過程論がいわば基本論理モジュールとして各論理段階において、その配列を転変させながら資本論の論理体系は進展して行っており、その配列の転変はある時に順にある場合にはサイクリック=循環的に現出する、とされているように理解している。
私と中野さんとでその配列のバリエーションに非対称性が含まれているとかそうでないとかを論じているのではないのです。
焦点を絞れば、価値表現における相対的価値形態と等価形態に置かれる商品間の関係をそのまま逆転は出来ないという宇野理論と資本論価値形態論を隔てる基本的論点についてある意味再確認した、というのが実態でしょう。資本論は文面の通りリンネル20エレ=上衣1着は逆の関係上衣1着=リンネル20エレを含むとしているが、価値表現の主体が相違すれば、価値表現も単純な逆転関係を再現する保証は全くなく、むしろ相違する=逆転成立しないというのが原理である、というのが宇野説の骨子。そこに非対称性を埋め込むべきではないのか。資本主義経済の基本関係である商品関係における個別無政府性の原点がそこにある。簡単に言えば上衣が相対的価値形態に立てば上衣1着=リンネル15エレになるかもしれないということ。
資本論=資本一般領域であるというのは、マルクス自身も言明しているので資本論の「正しい解釈」を論点にするなら、その通りですが、宇野理論では商品経済を基本関係に置く資本主義の無政府性を原理論から排除すべきではない、という立場から価値表現の今述べたような非対称性を問題にしてきたわけです。
内田さんのようないわば資本論全体の「大論理」に関心を注ぐお立場から見ると「何を瑣末なことを」となるかもしれませんがマルクス自身資本論初版序文で価値形態の分析は経済的細胞形態の分析で、対象の本性からして「瑣末」なのであると述べておりますし、「神は細部に宿る」(ミース・ファン・デル・ローエ 建築家)と捨て台詞でもってこの拙論を一旦締めることをお許しいただきたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study666:151023〕