異論なマルクス 第三形態生成への数学的接近(補足)

前稿(2)に対して早速口頭での、それから中野@貴州さんからのコメントの投稿などいただいておりますので、これまでの拙論を少々以下補足いたしたい。

前稿で

3.一般的考察

(命題)

ある同質な要素からなる集合の要素全てに対して非選択的に(無差別に)ある作用

が加わることを考えたとき、その結果の間にある非等質性が生じることはあり得ない。

これはかなり頑堅な命題ではないか。

地球重力場におかれた質点はすべて同一加速度gで落下する。

が一つの例ではあるが、

価値(実体だろうと形態だろうと)という規定性において同質な商品の価値表現という同一の場から非等質性=一般的価値形態が生じることはあり得ない。

と締めくくったのだが、これまで提示してきた同質・共時的空間を前提にした考察

では貨幣生成の問題を捉え切れていないのではないかというコメントもあり、特に

中野@貴州さんは次のように一層それを立ち入って特定化されている。

 

(引用)

ブルマンさんの「宇野派の方法」のモデルには一つの変数が欠けていると思います

それは、「等価形態に立つある商品の他の商品と比べた社会的需要の大きさ」とい

う変数です。「宇野派の方法」には「最もその使用価値が社会的に多く求められる

商品が、反対に価値の担い手としてだけ求められるようになる」というパラドク

スが含まれていると思います。すなわち、商品Aの社会的需要度>商品Bの社会的

需要度>…というような差が与えられることにより、特定の商品が一般的等価形態

として絞りこまれていく―こんなモデルになると思います。

(引用終わり)

前掲の(命題)にある通り同質・共時的空間から何らかの特異点が生じることはあり得ないとしたのだが、もちろんその補集合として何らかの特異要素が含まれる空間を考えれば、ある作用の結果として何らかの特異性が生成する可能性(必然では依然としてない)は生まれてくるが、問題はその特異性を入れることが価値形態論の基本構成からして妥当なのかどうか、入れるとしてどうそれを果たすのか、それが考究される必要があるのではないか。

 

それから事実問題として、上記引用にある「宇野派の方法」なるものは一体だれが主張しているのか、ちょっと管見の限りでは思いつかない。たとえそうして主張があったとしても、社会的需要の強度(?)が価値形態論の内部でいかにして感知されるのかそれがよく分からない。社会的需要は宇野理論でも貨幣の価値尺度機能を通じて商品流通が形成され、そこで初めてかる価格水準として客観化される、というロジックではないのか。貨幣の登場以前にそれをいうのは論理的に不整合でしょう。百歩譲ってそうしたある種のハイアラキーが生じるとして不等号だけが成立するというのはどうやって主張できるのか。最上位二つの商品が=であるならそこで競合が生じることを避けられない。

交点の論理を活かして、商品の集合の中である一つの商品だけが価値表現を行わないなら、その商品は逆にすべての他の商品の拡大された価値表現に必ず含まれるので、それが一般的等価形態である、と言えそうに見えますが、自ら価値表現しない商品とは何のことはない一般的等価形態に立つ商品で、これまた循環論証にしかならないでしょう。

一般的に言って、ある特異性の源泉を何らかの特異性に帰する論理は循環論証にどうしてもなりがちで、それをうまく回避した貨幣生成論には今までお目にかかったことはないのです。別にそういった試みそのものを否定するつもりはありませんが。

だから私自身としては、そんなややこしいことにかまけている時間はない、現実の貨幣を観察すれば十分である、と言いたいわけです。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/

〔study685:20151213〕