疎通が「公共」である

著者: 姜海守 かん・へす : 国際基督教大学アジア文化研究所・近代日韓比較思想史専攻
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 日本語で書いた拙稿「帝国日本の『道義国家』論と『公共性』――和辻哲郎と尾高朝雄を中心に」のハングル訳を終えた。翻訳の過程で、考えるべき文脈が存在することに気が付いた。「公共性」という用語をめぐる問題である。近現代を通して韓国で用いられてきた「公共性」の概念とは、近代、ことに植民地時期に帝国日本によって定着した「国家的公共性」を意味するものと言える。「天皇制」を創出しながら、近現代の日本社会が翻訳し、語られてきた「公共性」の概念は<public>としての「国家的公共性」の意味合いが極めて強かった。こうした「国家的公共性」が韓国において克明に具現された時期は朴正熙(バク・ジョンヒ)政権期(1963-1979)である。以前、朝鮮王朝の儒者たちの文集に表れた「公共」の用例をみると、それは名詞的概念でなく、「天地(天下)に公共する」という動詞的概念で使われている。これは「公共」がある特定の規定をもって特定の権力によって独占されるものでなく、いつも流動可能な、活物的なものという意味である。

 現在、韓国社会では「公共の敵」という言葉が膾炙している。「公共の敵」という映画も製作された。今、これが究極的に誰を指す用語であるかは、すでに「公共」的に共有されている。また、その「分節化」された「公共の敵」が社会的に大きな物議をかもしている。現政権が「不通(韓国で国民/市民/民衆の声に耳を傾けようとしない現政権の姿勢を指す流行語みたいなもの⇔疎通)」にして推し進めてきた「韓米FTA」、「4大河川(漢江・洛東江・錦江・ 栄山江)事業」、「済州島海軍基地建設」などの数多くの「(国家)公共性事業」とは、「天地(下)の活物」としての市民・民衆・社会的公共性に基づいたものではなく、近代日本によって導入された「最高善」としての「(国家)公共性」のパラダイムを根底にしているといえよう。それらの事業が「国益」を優先する「最高善」を追求するものと確信しているため、「不通」にして突破できる正当性があると判断しているのかもしれない(こうした分析自体が甘いことかもしれないが)。近現代期に日本によって強いられてきた「公共性」の概念が、実に深刻でいち早く超克すべき課題であることを改めて感じさせる理由がそこにある。「公共性」は、ある特性の勢力によって独占化され得ない、「天地(下)」の民衆・市民・社会的レベルにおける活物的な価値である。そうした活物性が、現在、全世界的にSNSなどを通じて現れている。今や、「不通」にして「特定価値」のために、こうした活物的声をかわすことができる時代ではない。意思の疎通が公共であり、それは「公共する」ものである。日本における「原発問題」をめぐる問題も同様である。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0901:120529〕