発達障害と裁判員制度

 (数年前に書いた文章ですが、現在でも問題は全く変わっていないので、投稿させて頂きます。)

 佐藤幹夫氏が『現代思想』の2008年10月号(裁判員制度特集号)の中で「発達障害と裁判員制度」という論文を書いている。佐藤氏は2001年浅草で起きた、レッサーパンダ帽をかぶった青年による通り魔殺人事件を取材した『自閉症裁判』や、2005年に大阪府寝屋川市で起きた、17歳の卒業生による教師殺傷事件(寝屋川事件)を取材した『裁かれた罪、裁けなかった「こころ」』(岩波書店)などの著作のある元教員のジャーナリストである。

 佐藤氏がこの論文において訴えていることは、裁判で精神鑑定を行い、責任能力の有無を問い、刑の軽減を図るべきだというようなことではなく、知的障害や発達障害を持つ被告人の裁判においては、その「障害」に対する適切な理解が不可欠である、ということである。一見当たり前のことのようだが、実はこれがものすごく大変なことである。プロの裁判官にとってもそうなのだから、ましてや一般市民が裁判員として参加する裁判員裁判では、迅速さが要求されるあまり、犯行の背景や動機・動因といったものに関する専門家の鑑定意見を踏まえた慎重な審理が犠牲にされる恐れが極めて高い。また、知的障害や発達障害といったハンディを抱えた人は、一般の人以上に取り調べの過程で誘導されやすい特徴を持っているため、取り調べ過程の録音・録画による全面可視化は不可欠である。

 さて、私が佐藤氏の論文の中で最も驚いたのは、寝屋川事件の裁判で証言した二人の精神鑑定医がともに、広汎性発達障害は従来の司法精神医学では想定されていない疾患であり、動機や殺意や責任能力の認定のためには、新たな枠組みを必要とすると証言したことだ。一体どういうことなのか。

 法律用語では、「自分の行為の善悪を判断する能力」を弁識能力と呼び、「その判断に従って自己の行動をコントロールする能力」を制御能力と呼んでおり、両者を合わせて「責任能力」と呼んでいる。そして精神の障害により弁識能力か制御能力が失われている状態を「心神喪失」と呼び、弁識能力か制御能力が失われているとまでは言えないが、著しく減退している状態を「心神耗弱」と呼んでおり、心神喪失者の行為は罰せず、心神耗弱者の行為は刑を減軽する、と刑法は定めている(39条)。ところが、発達障害の人は、他人の痛みを理解するという対他意識や、法や道徳を犯してはならないという規範意識の前提となる対人相互性の能力が欠如しているか低い状態にあるので、心神喪失とか心神耗弱とは違った枠組みで理解すべきものである、というのである。この指摘の妥当性について、素人の私には判断できないが、いずれにしても、発達障害といったハンディを持つ人の裁判においては、その症状に対する深い理解なくして適切な判決を導けないことは確かだろう。その意味でも、迅速化を至上命令とする裁判員制度は再考する必要がある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0871 :120421〕