「白居易(白楽天)露烏戦争を諫める」(「ちきゅう座」10月3日発表)で私の旧文の一節を引用した。論文「ユーゴスラヴィアの多民族戦争」(『ユーゴスラヴィア 衝突する歴史と抗争する文明』(NTT出版、1994年、第1章 pp.11-117)の「おわりに」(p.117)からである。そこで、白居易新楽府五十首の第9首「新豊折臂翁」を活用した、ロシア人兵役忌避者を想って。
実はその論文の「はじめに」(p.11)でも白居易律詩を使った。戦乱によって白居易の兄弟妹が広い中国大陸の各省に離散した悲痛を詠んだ詩だ。遣唐使船で白氏文集が本朝に渡来して以来、「紅旗征戎我事に非ず」(藤原定家)の伝統世界では着目されなかったと思われるこの律詩を論文では原詩のまま引用したが、ここでは書き下し文で記す。
時難年飢 世業空しく、
弟兄羇旅して 各々西し東す。
田園寥落たり 干戈の後、
骨肉流離す 道路の中(うち)。
影を弔し 分れて千里の鴈と為り、
根を辞し 散じて九秋の蓬(よもぎ)と作(な)る。
共に明月を看て 應(まさ)に涙を垂るべし、
一夜郷心 五處に同じ。
白居易の住む所から遠く離れた五個処に戦乱で散り散りとなって、兄弟妹が生きている。五個処の兄弟妹と同じ心で明月を看、故郷を想ふ。これは、2022年・令和4年2月24日以来、ウクライナ人難民達の心情であり、実情であろう。
30年昔、旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の時代、私=岩田は同じ状況を以下の如く書いた。
――1993年9月、明月(?)の夜、セルビア共和国、ムスリム人地域の中心都市ノヴィパザールから車で十数分、山近き難民キャンプを訪ね、戦乱のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国から追われたり、逃れて来た数十人のムスリム人男女老幼と会って、語り合うことができた。彼等の心中も私の想念も1200年昔の白居易の「兄弟離散して各々一処に在り、因って月を望んで感有り、聊か所懐」に異なるところがなかった。――(p.11)
この律詩は、明治書院新釈漢文大系99 岡村繁著『白氏文集三』(3版 平成5年9月、pp.88-89)に見られる。書き下しはここから持って来たが、二個所異なる。
岡村本では「西東す。」であるがここでは「西し東す。」にしてある。これは意味に関係はないが、第二の異所は意味に関わる。
岡村本では「一夜郷心 五處同じ。」であるが、ここでは「一夜郷心 五處に同じ。」にしてある。従って、岡村の通釈が「五ヶ所に分かれて住んでいる兄弟の故郷を思う心は一つにまとまっているであろう。」であるのに対して、私=岩田の通釈は「自分白居易の故郷を思う心は、五ヶ所に分かれて住んでいる兄弟妹のそんな心と同じだ。」になる。これは、私の独自解釈ではなく、千葉大学法経学部に在職していた時代、千葉大学文学部の漢文学専門の教授に教えられた。
日本に難を逃れた烏国詩人がいて、五大州(アジア、アフリカ、北米、南米、オーストラリア)に流散した家族を想って、中秋明月の頃、同じような詩を書いているかも知れない。
兵器に進歩ありとも、人文に進歩ありや。
兵器の今昔大なるも、戦乱人文に今昔なし。
令和4年神無月4日(火)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion124444:221008〕