明治大学自由塔において4月20日(土)『白鳥事件 偽りの冤罪』出版記念講演会が開かれた。大教室は満員であった。年配者が多く、自分たちの青壮年期に直接間接にかかわった白鳥事件解明・村上冤罪証明運動への関心が今日においても維持されていることを物語る。同じ年配と言っても、私のように、東欧・ユーゴスラヴィアの社会主義経済社会の現実を革命的第三者の自己規定に立脚して研究観察して来た者には実感できない同時代的な問題関心なのであろう。大教室の大学生達には感じられない静かだが濃く深い関心のエーテルの中に身を置くことは、それだけで心地よかった。しかしながら、そこで語られる真実と命題は、心地よいとはほど遠く苦いものであった。何しろ、権力悪を批判する側が数百万民衆をだますやり方で権力悪をたたいていたと立証されたのだから。「白鳥事件は日本共産党札幌委員会軍事部の犯行だった」(目次より)。
渡部富哉の新著は、旧著『偽りの烙印』より社会心理的影響において広く、大きいのではなかろうか。社会的小グループの中における「偽り」が旧著のテーマであるとすれば、民衆社会全体に対する「偽り」が新著の暴露する所だからである。
経産省前のテント村で40年ぶりに再会した私の旧知吉富昭弘が本書で語っているように、「白鳥事件の冤罪説は渡部氏たちの作業で打ち破られたが、白鳥事件を総括しそこから教訓を引き出す作業はこれからさらに続行されるべきではないでしょうか。」と言う社会運動的、思想的、さらには宗教的課題が提起されているようである。
本書では白鳥事件の首謀者村上国治は一貫して革命家村上国治として好感をもって描かれている。しかしながら同時に彼がリーダーとして企画し実行した白鳥警部暗殺は、単なる刑法上の犯罪として描写されている。「実行犯は佐藤博」、「犯行の現場」、「肝心なことは『天誅ビラ』は日本共産党札幌市委員会の『犯行声明』だということである。」(p.108)、「長英が国事犯であるのに反して佐藤のそれは政治犯とは言え殺人犯」(p.180)。「犯」の字の頻出が見られる。
ここに幕末の高野長英の逃亡が暗殺実行者佐藤博のそれに対照される事例として言及されているのに倣えば、次のように言えるかも知れない。幕末攘夷運動において京都奉行所の与力、目明しが尊攘派志士の刃にかかって倒され、天誅状、斬奸状で筆誅された。白鳥警部は札幌奉行所の与力であり、村上国治と佐藤博は武市半平太と岡田以蔵に当る。「対警宣言文」はまさしく斬奸予告状であり、「天誅ビラ」はまさしく天誅状であろう。日本史の地下水脈が社会政治的危機にあたって噴水した諸事件であった。幕末期における天誅事件は単なる殺人事件ではない。凶行であっても、犯行ではない。倒幕派も佐幕派もおたがいに死を覚悟して対峙していた。
村上国治はどこかに死の覚悟をひめつつ、白鳥暗殺の決意を下したのであろう。白鳥警部もまた死の覚悟をひめつつ、必死に左翼地下組織壊滅を企画していたのであろう。それは本書のp.28、pp.59-60 における白鳥警部に関する記述からうかがえる。
平安期の市民社会に時に起る犯罪と同じレベルの用語法で記述されると、天誅を下した側も下された側も各々夫々の正義が黙殺されたような違和感が残るのではなかろうか。
私、岩田は、1年前の2012年4月21日に「ちきゅう座」で「『白鳥事件60年目の真実』が考えさせること」を発表している。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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