相手の立場になってといわれるけど

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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「相手の立場になって」と聞かされて考えてきました。おっしゃる通りです。なんの反論もありません。でも、そんなに簡単なことなんでしょうか。

 

相手はいいですけど、相手ってどなたなんでしょう。 お一人だけならまだしも二人や三人、ときにはもっといらっしゃることもあります。それに相手のどなたもが、ご自身のことしか考えてないようにしか見えないことも多いです。そんなところで、こっちの相手を立てれば、あっちの相手が立たない。あっちの都合、こっちの都合と気にして、相手の立場になってってあれやこれややっていったら、自分の都合や立場はどうなっちゃうんでしょうか。まさかあっちこっちの相手に相談するわけにもいかないでしょう。

 

世の中そんなに簡単にはできてないってことわかってるのに、小学校にあがったばかりの道徳の時間でもあるまいし、物知り顔で「相手の立場になって」なんて言われても、絵に描いたような詭弁じゃないですか。ましてや社会経験も豊富な方から、似たようなことを言われると、そういうご自身はどうなんでしょうかって質してみたい、ちょっと意地悪な気持ちにもなってしまいます。

 

一般論としての「相手の立場になって」というのは分かります。でも、いくら相手の立場をと考えたところで、それって、こっちが考えたか想像したもので、本当の相手の立場なんか、相手しか、ときには相手だってどこまではっきりわかっているのかわからないことも多いじゃないですか。いくら頑張ってみたところで、勝ってに想像した「相手の立場」じゃないんですかね? 顔色みながら気をまわして、どれほどの意味があるんでしょうか。いくら相手の立場でと思おうとしたところで、こうなるとひどい話ですけど、自分の都合を裏返して社会通念という四角い額縁にはめ込んだものにしかならないんじゃないでしょうか。

 

ちょっとうがった見方になっちゃいますけど、「相手の立場になって」は常に相手の都合のいいようにと、何らかの妥協なり歩み寄りなりを探してばかりじゃないんじゃないですか。相手の立場を考えて、相手が嫌がる手を打つというのもあるでしょう?

例えばですよ、バッターの立場を考えて、ホームランを打ってくださいというボールを投げるのも、この玉ならまず見逃し三振というボールを投げるのも相手の立場を考えてのことじゃないですか? まして値段の交渉だったら、高く売りたい人と安く買いたい人がお互いに相手の立場を考えてっていっても、最後のところで考えているのは自分の立場でしかないんじゃないですか。

選挙だって相撲だって何だって、相手の立場を考えて、相手にとって一番イヤな手、自分にとってもっともいい手をというのが、世間一般にいう「相手の立場になって」の人には見せない本音じゃないですかね。

 

ここで百歩譲って、間違っていたらごめんなさいね。結論じみたことを言わせて頂ければ、「相手の立ち場になって」は、もし詭弁でないとしたらですけど、自分の良心ってのか、ときには世間体も勘定にいれて、敵をつくらないためにも、せめて考えている素振り、口ぶりぐらいはしておけってことじゃないかと思うんですけど、どうなんでしょう。

 

実に上手に相手の立場を考えている演技に、それはもう神業といってもいい過ぎでないほど長けてる同僚にころっと騙されていたことに後になって気が付いて、ちょっと口惜し思いをしたことがあります。自分のお人よしというのか馬鹿さかげんに呆れちゃいました。

キツネになれるほど頭もよくないし、タヌキになる才があるわけでもないですから、そんなこんなで持ち上げられては騙されてきました。梯子を外されたとか、背中から撃たれたなんてこと一度や二度じゃありません。でもそれでもなんとかやってこれたことにささやかな誇りすらあります。みっともないことばかりしてきましたけど、それが「自分なりの相手の立場に立って」という、それが自分なんだと割り切ってしまえば、ほのかな明かりは残ってます。

2021/1/25

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10653:210317〕