《争点なき選挙ふたたび》
10年7月11日を投票日とする参院選の争点は何か。
昨夏の総選挙は「政権交代自体が争点」であった。ナンセンスである。
何のための政権交代かは決して論じられなかった。今度の参院選も真の争点は不明である。
ひとは言うかも知れない。総選挙は官僚政治との対決が争点だった。参院選の争点は「税制と財政規律」に収斂している。本当にそうであろうか。
民主党圧勝後9ヶ月に起こったことは次のことである。
第一に、首相鳩山由紀夫が普天間基地移転の「迷走」責任を取って辞任した。
「日米同盟」(日米不平等条約)を不動の与件とする外務・防衛の官僚とメディアに包囲されて敗北したのである。人々も同じであった。「政権交代」自体では対米従属は変えられない実例である。無念である。
第二に、新首相菅直人が消費税5%の引き上げを打ち出した。
民主・自民の二大政党の政策が「最大の争点」において一致したのである。世論も賛否半々と物わかりがよい。貧乏人が損をする税制が通る条件は整った。菅直人が財務官僚に包囲されたからである。「増税が景気を良くする」というインチキ宗教的学説に誑(たぶら)かされるというおマケまでついている。
《素直に考えればよいのである》
選挙の真の争点はなにか。
外交、内政―特に経済政策―に分けて基本から問い直せばよいのである。
第一に、鳩山が完敗した「不平等条約」の改訂である。それは安保50年の年に最適かつ必須のテーマである。目的は日本の主権の回復である。これはイデオロギーの問題ではない。少なくとも社民、共産の両党は沖縄県を含む大型選挙区で統一候補を擁立して不平等条約の抜本的改正の旗を立てるべきであった。その旗のもとに集まる人々―対米従属にNOという人々―を糾合すべきであった。
だが事態はむしろ逆に走っているのではないか。今の政党分布は、九条改憲や海外派兵恒久化法に対して、全くノーガードである。管内閣に対して、安倍晋三や麻生太郎は「左翼政権」誕生と批判した。「たちあがれ日本」の平沼赳夫や「日本創新党」の山田宏、松下政経塾系の中堅政治家たちは、閉ざされたナショナリズムの言説を声高に叫び始めている。
第二に、いかに景気浮揚をもたらすかである。
「国債バブルは本当だろうか」に何回か書いたように、財政規律重視と景気失速防止という矛盾した課題が世界に広がっている。成長と後退に挟まれた狭い山道の下は恐慌の谷である。法人税低減と消費税引上セットは、大企業の高収益と労働所得の低下という「格差」を拡大する。日本の官産複合体は「国際競争力」の強化をタテにこの政策の正当性を訴えている。法人税を下げないと企業の海外流出で国内のシャッター街化が進む。この脅迫は高度成長の成功経験者には説得的だ。「みんなの党」はこれを甘味包装で売りまくっている。この「新自由主義」にカウンターを放つのは容易でない。
《今年は沸き立つところがない》
昨夏総選挙の報告「選挙日前夜の池袋対決を観る―「桜井よしこ」レベルになった自民党を悲しむ―」(09年8月30日付本欄)の最後に私は次のように書いた。
▼自民党の戦後とともに生きてきた私にとって、しかし、「貧すれば鈍する」ことになった自民党をみるのは愉快なことではない。自民党にも「光」を認める私にとってこの凋落をみることは痛恨事でさえあるのだ。
また選挙直後の感想「「政権交代」は「二大保守党独裁」の誕生」(09年9月1日付本欄)の最後には私はこう書いた。ここの「基本的テーマ」とは今回書いたテーマのことである。
▼このような基本的テーマは選挙の争点にならなかった。
そいうい論議がない選挙戦が「画期的」であったと私は思わない。したがってその結果も「歴史的」でも「画期的」でもない。株価の反応は早くも「政権交代」が画期的でないと予見している。米国も財界も新政権を少しも恐れていない。
「政権交代」は「二大保守党独裁システム」の誕生といのが私の見立てである。これはシニカル(冷笑的)に見えるかも知れない。しかし新聞の大活字とテレビの反復映像は人々に幻想を与えている。一人ぐらいはこういう見方をする人間があってもいいだろう。
こう書いたものの、私の心底にわずかな希望があった。「政権交代」が何かをもたらすだろうというかすかな期待はあった。しかし現実は「二大保守党独裁システム」の誕生ですらなかった。日本の政治は、争点と対立軸を曖昧にしたまま溶解中である。
投票日を目前にして私のなかに沸き立つところがない。政治の現実は戦後65年の日本国民の成果の表象である。