真正の人道は地勢と共に存在すべき――田中正造・第1部(3)

 2 『日本資本主義』の一典型
 田中正造は前史をへて足尾鉱毒問題に取りかかる。彼の直接の最大の対決相手は古河市兵衛であった。市兵衛の足尾銅山は何をしたのか。銅山は後に「公害の原点」と批判されるが、どのようにしてそうなのか。人はあまりそのことを尋ねないが、そのことから得られることは多い。
 そこでここでも市兵衛が銅山主・市兵衛になるまでを追っておこう。
 賭けの富づくり
 雑誌『太陽』(明治32年)は創業12周年を記念して12の各界からそれぞれ1人を選び、その談話を編集して「明治12傑」として発表した。古河市兵衛は伊藤博文(政治家)、福沢諭吉(教育家)、渋沢栄一(商業家)とともに工業家を代表して選ばれたのである。その彼は銅山に手をつけるまでに金貸しや転売商業で富を築いていた。こういう富への道は下からの経済発展のコース(正造に潜むもの)や勤労と節約の倫理と異質のものであった。彼はいわばその延長上で銅山を経営するのだから、文学者から嫌われるタイプの経済人であり、基督教徒の内村鑑三のような倫理観と対照的な資質をもった経営者であった。鉱山業は貴族的な気位のある者からすると営むべき仕事ではなかった(参照、志賀直哉の「祖父について」)。市兵衛はそこを破っていくのである。
 さて、市兵衛は小さな時から家庭的に苦労し、9歳で丁稚奉公に出されている。読み書きは不得手で自分では無学と称しているが、経験でもって処世の方法を会得していく。彼は家業の豆腐屋を継ぐが、その仕事が身分的に人からバカにされるので(――庶民までが庶民を蔑視する)、そこから逃れようと、11,2歳のころに立身出世を考えたようだ。その身の立て方に明治の経済人の1つの典型を
見ることができる。
 彼は18歳で盛岡にいる叔父の小野組に入り、そこの高利貸業を手伝って、借金の取り立てにあたる。時には強引に(お金Geld—より多くのお金Geld’)。次に彼は大阪にある鴻池支店の手代となり、ここで以下のように商売上手になっていく。彼はそこでの奉公中に叔父の言うことだからと古河太郎左衛門の養子となり(――これ以降古河性を名乗る)、東京や京都での生糸の値段を他の誰よりも敏速確実に知って、福島で安く仕入れた生糸を売って差額を儲ける(G-絹商品Ware―G’)。それも主家のためだけでなく、自分でも内緒で仕入れては売ってその差額を小遣いとし、遊興費に使うというちゃっか屋であった。彼はその後、京都の小野家の糸商いを任され、ここでも糸の値の上がり下がりの相場を知っては駆け引きをして儲けていく。だがこの糸は京都では西陣用に織るためであり、もっと儲かるものであっても東京や横浜の外国人を相手に取引することは禁止されていた。京都では神風連のような攘夷の風があったのである。彼はそれに対して「合理的」であって、地方で先物取引をして荷をまとめ、それを横浜に出して儲けていく。誰よりも機敏に動かねばならないから早馬を仕立てて。だがこのような相場取引は3回に1回は失敗するという危険を伴っていた。明治維新を迎えると、上野の戦いの時には東京のお金1文が京都で3文になることを利用して大儲けする(G -G’)。……その他、この種の金もうけが維新以降も続く。
 やがて小野組はある事情で解散することになる。市兵衛は独立を目指し、それまでの金融や相場取引から手を引き、鉱山事業に打って出た。鉱山業は実業の工業であるが、他の工業と違って、大変な初期投資を必要とし、それを営む者は山師と言われるほど危険な事業であった。彼は1878年(明治10年)に足尾銅山を買い受け、最初は渋沢栄一や華族の相馬家と組みあって経営する。渋沢は市兵衛が鉱山に手を出すときに陸奥宗光を含めて市兵衛から相談された友人であった。相馬家とは市兵衛がその下請負をしていた仲であった。その時の日本は明治維新以降、西洋に追いつき追い越せで殖産興業と軍事化を進めていたが、市兵衛もその一端を担うことになる。そこに特殊な「日本資本主義」の特徴が現れている。
 大胆な革新的「企業家」
 市兵衛は絶対に成功すると信じて山に入った。最初は利益が出なかったが、1884年(明治17年)に大直利(富鉱)に当たってから隆盛に向かう。この年から鉱毒が世人の目につくようになるのである。市兵衛はは荒銅を精銅にして輸出するための製銅所を作る(――金貸しや問屋が工業に手を出す)。その経営は生糸やコメの取引の時と同じく銅の相場に影響を受けるが、1887年(明治20年)にヨーロッパで銅を買い占めるシンジケートができ、市兵衛はマディソン商会を間に挟んでそこと非常に有利な契約を結ぶ。それは3年で100斤につき20円75銭の価格で約600万円売り渡すというものであった。これで事業は拡大する。このことがきっかけとなって、それまで質が悪いと言われていた精銅にコストをかけて先端の科学技術を導入できるようになる。彼はアメリカに技師を派遣してベッセマー式転炉を導入する(――今日の高校の化学教科書に出てくるもの)。その他、彼は学士を採用し、熱心に次のような技術を導入する。つるはしで掘る代わりに削岩機やダイナマイトを使う、ベルトコンベヤを使って選鉱する(――選鉱は女性の手でおこなうが)、薪・炭の代わりにコークスを得ようとしてその製造所を設ける、坑内での排水や運搬の動力源として薪炭を使う蒸気力でなく電気力を得ようとして日本で最初の水力発電所を建設する、等々。次から次へのその様は実に爽快であった。
 こうして彼は一代で巨万の富を築く。後になると、三井・三菱のような格式と暖簾のある財閥と違って、技術と経営の革新を推し進める新興財閥が出てくるが、古河財閥はその先駆であったと言える。
 政治と癒着する政商 
 市兵衛は彼が目指したほど独立的でなく、政商であった。彼は時の政治家・陸奥宗光と姻戚関係—-陸奥の息子が市兵衛の養子――に入り、その後ろ盾を得る。この陸奥は後で日清戦争後の講和条約の締結に活動することになるが、それを記録した『蹇蹇録』は日本における近代国家論の古典となっている。その彼からすると正造の活動は小さな地方問題と映ってしまうのであるが。市兵衛は後に西郷従道とも縁組を結ぶ。こうして彼は政府から銅山付近の官林を安く払い下げられる。彼はまた金で政治に影響力を与えるという政商でもあった。これは今も絶えない政治と経済の癒着の構図である。彼は金融的には渋沢栄一(――日本近代経済の父として紙幣の肖像になる予定の人物)の援助を得る。
 労務管理の面では古い 
 市兵衛は労務管理の面では前代からの納屋制度を使った。この点では当時の他の先端大企業も同じであった。会社は飯場頭に労働者の募集や管理を任せるのである。頭は鉱夫と近代的な権利関係の契約を結ぶのでなく、親分・子分の疑似家族的な関係にあった。
 その一例を以『下野新聞』の報道に拾うと(前掲『予は下野の百姓なり』から)――頭は所長が坑内に入って監督していない時に、鉱夫に対して請負先が決めた通りの賃金や坑内での水の利用等の待遇を与える代わりに賄賂を要求していた。また鉱夫は賃金からわらじやタガネ代・カマス代等の用具費や種々の罰金を差し引かれる。鉱夫は以上のものを差し引かれることで下がり(借金――久保栄『火山灰地』の窯前検査の場でも問題にされる制度)ができた。さらに鉱夫は入坑しないと生活品の米みそを受け取れないとか、現場は暑いから裸で作業する、ダイナマイトの粉塵で息もできないほど、等の仕組み。これでは賃金は他の工業部門より高かったとしても、ブラック企業である。労働力は官林と同じく乱伐される。当時の坑夫の労働条件については夏目漱石の『坑夫』が参考にされるようだが、大河内一男の『黎明期の労働組合』や永岡鶴蔵の大日本労働至誠会での労働組合活動も参考になる。それから、鉱夫が削岩機を使用する前に槌をもって掘り進んでいたころに歌っていた労働歌「セット節」に彼らの働き振りが偲ばれる。
 ただ、鉱夫や彼らが住む足尾を一色に見ることはできない。それぞれの生活には喜怒哀楽がある。社会科学研究もこの視点を軽視してはならない。鶴見智穂子「銅の里にそだって」(『救現』第5号,1994年7月))が参考になる。著者が自らの足尾生活と明治のそれを述べてきた後で次のように締めくくっているのが印象的である。「私は川上の人間で、鉱業所の汚水を下に流していたのですから、川下で苦しまれた皆さんからすれば、「何をのほほんと」とおもわれることでしょう。けれども、川上は川上で銅山の中の作業で病を得るし、日本の近代化の一翼を担っている自負心はあっても、家族共々苦しみを味わっています。近代化の過程の中の非科学的な部分、知らないが故に起きた事、大きな発展を遂げる中で起こってしまったことを、二度と繰り返さずに、また、同じ場所を同じことで汚さないための見本として、そういう証明の場所に、なってくれればよいと私は願っているのです。」
 1907年(明治40年)にはこの銅山で飯場頭に対する不満から暴動が発生した。それは最後には軍隊によって鎮圧されるが、1913年(大正2年)には会社が直接坑夫と契約を結ぶ体制に代わる。この飯場は戦後にも土木関連企業で残った。今は会社が労働者を直接雇用し教育しているが、その日本的労働市場も変わりつつあり、人材派遣会社の問題がある。
 深山に「新しい植民地」を作る 
 銅は何のために掘られたか。銅は電気の伝導率(摂氏零度Cで1,55)が銀に
次いで高い。銀ではコストがかかるから銅が送電線(内地向け)や電気器具・軍事用の電信電話線に使われる。また輸出して外貨を得る重要品目(生糸に次ぐ)になる。要するに銅は明治の開国以来の国策=西洋の列強に追いつくための富国強兵と殖産興業に沿ったものであった。
 市兵衛はそのことに成功した。彼は日本1・東洋1の銅山王と称される。足尾の産出銅の90パーセントが輸出される。パリの第3回博覧会に精銅を出品して名誉賞を得ることもあった。足尾は1899年(明治32年)には役員を含めて鉱夫1万8千人強の町となる!
 市兵衛は談話の最後で将来の抱負をこう述べている——-鉱山事業は山の中で
鉱夫を相手にする区域の狭い地味なものだが、深山に「新しい植民地」を開いて町や村を作るようなものだ。そこに病院や学校、福祉施設、寺院、娯楽所を建て、道路を作り鉄道を敷く、食品や日用品を供給し、植樹し、飲料水や排せつの便も世話してやる。そして洪水にも備える!……これが私には面白いのである。
 こういう市兵衛だから、彼の敵である木下から「精神を統一して一切を顧みず、三昧の境に入って仕事をする」豪傑と評されたのだが、その彼の銅山が公害の原点となったのである。どのようにしてか。それを知ると、原点は時間的に昔のことでなく構造的に今に通じるのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1076:191111〕