真正の人道は地勢と共に存在すべき――田中正造・第1部(5)

 4 社会的費用論に伸びるもの 
 正造は足尾銅山に対して鉱業の停止を求めて以下のように運動する。
 行動の人
 正造は行動の人であっていわゆる研究者ではない。その行動ぶりは彼の日記のどこでもよいから開けば、すぐわかる。彼は1日として同じ場所や宿におらず、連日連夜人にあっては情報を入手し、問題解決の方策を探っていた。そのため日記は分厚い名刺帖のごとくである。彼はその運動のなかで事態を直観的につかむから、第3者的に公平な観察をすることはない。でも学問は大事にしていた。彼は自分で無学だと言っているが、それは専門研究者のような学識はないということであって、後述するように運動に必要な科学者の研究成果はよく吸収している。また彼は若い時に書を読んで句読を学んだり、名主として寺子屋を開くことがあたから、古典の知識はかなりあった。全体としては彼は経験の中で知識と判断力を養っていったのである。彼は現地の奥深くまで入って鉱毒や洪水の事実をこと細かく探る人でもあった。なかでも若い嶋田宗三に語っていたように、彼は「経済」的判断を重要と考え、身に着けていた。
 正造には野人的な面がある。彼は演説で卓をたたき絶叫する。ある時などは運動を邪魔すると見た者に対してけがをさせるほどに乱暴をし、あわや殺しかねないこともあった。はたからは常軌を逸した行動と見られる。後の谷中村問題の時には村に土地買収の調査にきた役人を泥棒呼ばわりをすることがあった。荒畑寒村はそれを見て、正造を「野に呼べる人」(『寒村自伝』)と書き留めている。正造はこういう点では紳士ではない。その彼は、しかし、同志に対して腕力でなく「無抵抗」を説くのであった。また、国会議員になって中央で活動しながらも鉱毒地で病に伏せる人に玉のような涙を湛えて声をかける人であった。
 以上のようであるから、彼には運動をするのに手元にあり合わせがなくてもお金が集まる。内村鑑三がその正造に感心していた。……それはよいとしても、彼は支援者からお金を借りても子供に会うと、よい子だ、はい一つと、次々に全部やってしまうことあったという。
 正造は人間としても実に幅のある魅力的な人である。

 経済の本義による
 正造は経済計算をし、「経済の本義」に則ろうとした。それは鉱毒の被害を分類していちいち金額に換算し、それらをまとめたうえで銅山の収益と比較することである。このような経済計算は鉱毒問題にかかわる前から行われていたが、ここではずっと整理され内容づけられている。この経済計算の方法を伸ばしていけば、現代の社会的費用論や環境アセスメントに発展するはずのものであった。
 分類する理由
 なぜ分類するか。正造はその理由を次のように述べている。
 ①被害は広大無辺で複雑に絡み合っているので、全体を一遍につかむことはできない。統計的な調査はあっても1郡1村の、しかも部分的な統計しかない。どうしても全体の状況を計算的に知る必要がある。
 ②被害民が議員に向かって真に迫った訴えをしても、議員の方は耳を傾けない。被害民が自分の目の届く範囲内の畔や土草について述べると、冷笑されるだけであった。議員は政策案を作るのにいつも官吏(学士出身)が提供する精密な統計数値の書類を信用して使っていたのである。被害民は術もなく引き下がらざるを得ないことがあった。
 ③ たまたま視察者が鉱毒の状況を調べに行くと、会社は視察者が無経験なことを利用してだまして案内することが多い。
 以上の理由で、正造は損害調査の「標準」を作ったのである。失敗の経験が人を賢くさせる。
 分類・総合することを邪魔する風土
 分類して総合することは、住民がたとえ素人であっても「実験学問」によって自ら得なければならない方法であった。でもそうすることを邪魔する「風土人情」があると、正造は指摘する。農民は春に種をまき秋に収穫するが、その間の夏に洪水が起きることが多いので、「予算の心」が育たない。また汗水たらして働いても3年に1度は洪水に会うので、それを天命とあきらめてしまう。反対に、農民は洪水によって上流から「天与の肥料」を与えられるので、その分の労働なくして収穫を得ることができる。こうして農民は事態を対象化することに弱く、「道理」を研究する必要に迫られない。正造はそう客観的にとらえたうえで、ただ突き放すのでなく、農民の助けとなることを考えていくのである。……ただし、当の農民たちが正造が言うほどに環境に埋没していたかはよく調べないと断定できないと思うのだが。

 3つの損害が語ること
 被害が特定の角度から切り分けられる。時間的に過去と現在、未来と分けられ、また空間的に「個人損害」・「社会損害」・「国家損害」と分けられる。その時間的・空間的な損害のそれぞれについて直接損害と間接損害がある。そう分けたうえでそれらを組み合わせる。そしてその一つひとつの数量と金額が計算される。こういえば簡単に見えるかもしれないが、まともにやれば膨大なものとなる。それに、そこには新しい貴重な見方があって、見逃すことができない。ここでは以下のA・B・Cの3つから代表的なものを選んでおく。
 A「自家損害」
 これには直接と間接の2つの損害がある。
 まず直接の自家損害。これには以下の3つがある。
 1)「人類の損害」
 鉱毒水が住民の飲食に使われ、その命と健康を害する。特に子供の死亡率が高かった。多い病気は眼病と胃腸病。彼はそれらを「人類の損害」と表現したが、「人類」は公衆衛生の分野でも使われている言葉であって、正造が特に意味を持たせたものではないが、それは社会の下層とかどこかの地域の人でなく、人間であれば誰もが維持せねばならない人体の新陳代謝(=生存権)に関わることであった。
 科学者批判
 医学士のなかに銅は人体に必要な場合があると人を惑わす説を発表する者がいた。地方病とみなす軍医もいた。また後で述べるように、すでに古在由直の調査研究が出ていたのに、銅毒が人体に害を与えるかどうかはすぐにわからず、5年ほどの経験が必要だと客観性を装う学者もいた。医学博士で医科大学教授の入沢達吉は内閣の鉱毒調査会の委員となるほどの医学界の権威であったが、川俣事件の裁判で証人として出廷した時に、現地を2週間調査しただけで復命し、銅は植物に害があっても動物や人間には害なしと証言している。また彼は裁判で米や飲み水に銅分がある時は人間に慢性中毒を起こすかと問われて、短期間にその結果を出すことはできないと断りつつも「若し最小限が飲食物中に含有するも差支なし銅分の少量なるに於ては長く身体を持しシ惹起することは之れ無きものと信じます」と述べている。そのやりとりの詳細は左部彦次郎「鉱害ト人命」(1903年、明治36年10月13日、前掲内水護編『資料足尾鉱毒事件』収録)が紹介している。そこでは学者の「良心」が問われているのだが、私は彼を含めて鉱毒調査会に参加した自然科学者たちの言説を自分ごととして追ってみなければならないと思っている。
 ちょっと注意すべきことは、「人類の損害」が他の災害の場合と異なることであった。火災や震災は外に被害が出るから人目につく。鉱毒はそれに対して人体の内部で徐々に作用するので人目につきにくい。そのためもあって当局は被害民は大げさなことを言うと軽視してしまった。正造の観察眼はそういうことにまで届いている。
 2)農産物・魚族の損害
 農作物はまったくの無収穫となる。以前は天与の肥料だけでもできすぎるほどであったのに、収穫ゼロとなる。収穫があっても重量や栄養分が少ないから市場で買いたたかれる。これでは生計は困難になる。母親は栄養のない食物では母乳で子供を健康に育てることができない。それは母親にとって悲しいことであった。
 もちろん魚族も被害を受ける。関東無比の漁利を誇り、名物であった香魚も今はない。漁業者は激減する。
 科学者の務めと社会的責任
 正造は明治政府の上から近代化を批判するが、次のような近代的な科学研究は尊重していた。近代的な学者を批判する彼を単純に近代批判者とすることはやめねばならない。農科大学の古在由直は長岡宗好とともに鉱毒はどのようにして作物に悪影響を与えるかを調べた。その結果が「足尾銅山鉱毒の研究」として『農学会会報』16号(1892年8月)に発表される。古在はドイツ等の海外の文献を漁り、自分でも実験をしてみた。その実験はここでは紹介しないが、自然科学の常として、実に精密で慎重な操作の繰り返しである。それは社会科学の比ではない。数値は1万分の1、またはそれ以下の微量の単位まで出される。その結果、銅は個物のままで溶液に溶けない状態では直接には害はないのだが、排水の中に銅の化合物・硫酸銅(Cu2SO4)が混じり、それが溶けて植物の根に吸収されると、細胞の中の原形質を破損する。また硫酸が排水に混じって田畑に入ると、それが生育にマイナスとなる。
 古在のような大学人は例外的であったのだろうか。後に宇井純は古在を「東京大学の教授が公害問題に自分の手で取り組んで解決しようとした唯一の例」と高く評価している(『田中正造と足尾鉱毒事件研究』7、48頁)が、それは古在だけではなかった。1901年・明治34年に川俣事件の被告に対する裁判が行われた時に、横井時敬は鑑定人として出廷して次のように証言している。「凡そ溶解性銅分の存在するときは自然植物は吸収するを以てその害甚だしく」その害は当然作物にも及ぶ、と。同じく鑑定人であった豊永真理も同様の趣旨で返答をしている。他方、学界の権威である者が政府の御用になって良心を売る者もいたのである。他の鉱山学の先覚者や河川行政の専門技術者はどうであったか。「科学者の社会的責任」の問題はその後も連綿と続き、今日にまで至っている。
 3)製造業の損害
 群馬県の足利と桐生は京都の西陣と並んで有名な機業地であり、そこでの精巧な羽二重は国際的に高い評価を得て輸出されていた(G-W…P…W’-G’)。絹織物は輸出適正商品にまで成長していたのである。足利と桐生は西陣と違って伝統の製法を守るよりも新規の製法に積極的であり、生糸を染色するのに化学染料のアニリンを使っていた。だが毒水がその作用を悪化させ、色づきを悪くする結果となる。
 次に間接の自家損害――農民は栄養を補うために野菜や魚を他の産地から求めざるをえなくなり、その値は従来よりも張る。また田畑から毒土を除去するのに費用がかかり、所有している土地の値段も低下する。機業地では毒を含む川水の代わりに井戸水を得ようとするが、井戸掘りの費用がかかる。
 B「社会損害」
 これには以下の3つがあげられるが、どの内容説明も人の蒙を開いてくれる。
 1)水源地涵養機能の破壊
精錬所から出る亜硫酸ガスが山を荒らし、水源地涵養機能を破壊する。また薪炭や坑木用に山林が伐採されるが、輪番制を取らず乱伐され、伐採後の植林もおろそかであった。これも水源地涵養機能を破壊する。山林による水源地涵養機能は近代的な工学技術者がバカにしがちであるが、山林は自然のダム・雨水の調整地であった。須永が『鉱毒論稿第1編・渡良瀬川 全』(1898年・明治31年)のなかで森林は雨水の「出納均霑の融通機関」と表現をしていたが、的確である。以上の結果、水脚が速くなる。川の上流と下流との間では増水の最高時点に差があるが、それが縮まるのである。日本の川は利根川や信濃川のように大河に見えても、中国や欧米と比べると水源地から河口までの距離が短く水脚が速いという特徴がある。それが鉱毒によってさらに急速化したのである。
 さらに毒水は護岸に必要な草茅や柳、竹を腐らせ、堤防を弱くする。竹などは手ですっと抜けてしまう。
 2)地域経済の衰退
 地域経済の重要性については須永がすでに前掲書で説いており、それは今日の「民力」に相当し、町づくり・村づくりの基礎となるものである。当時も政府は民力という言葉を国民の租税負担力の意味で使うことがあったが、須永は民衆の立場にたって定義しなおしていたと言える。正造はその彼から学んでいる。
 須永はこう捉えた。渡良瀬川の付近は地味豊かであり、その土地を土台にして住民の生業や産業が育まれてきた。農舎 → 魚荘・蟹舎(漁師の家)→ 賈戸(商家)→ 工戸(工匠の戸)という産業構成の順序を取って、と。この辺の説明はもっと具体的に知りたいところだが、それ以上にはない。あるのは、渡良瀬川沿岸の7つの都市(足利・桐生・太田・館林・佐野・藤岡・古河)は近在の農村との間で分業と交換によってできたということである。都市は近隣の農村に対して主人のような顔をしているが、農村をその基礎に置いていることを忘れてはならない。正造も藤岡町を一例にしてそのことを認めている。藤岡町の市場はにぎわっているが、それは隣の谷中村から来る米・麦・大小豆・野菜・菅笠・よしすだれ等の供給を受けるからである、と。これは町の形としては市場町であって、他の宿場町や門前町・城下町などと並ぶ町の形の一つであるが、以下のようにそれだけで済まない意味が込められている。
 ⓵ 町と村は対等。町の「唯一の華客」は付近村落の農家であるから、町と村は上下でなくて対等の関係であるべきもの。藤岡町の利害は谷中村の利害と共存するのである。そのことは後述するように洪水への対処でも実証される。
 ③社会的地力を生かせ。この町・村の関係は自然の地形を生かして歴史的にできてきたものだから、土地にその地力があるように、社会的で歴史的」「地力」だと言える。そうであれば、町・村づくりのこつはそれを枯らさず伸ばすことにあるだろう。
 以上の地域経済に鉱毒が作用するとどうなるか。須永はこう捉えた。鉱毒 →農村の生産力減退 → 都市の製造業品と交換に出す等価物の不足・農村の購買力不足→都市の衰退。彼は「生産力」を物的な機械や技術だけでなく、社会的に都市・農村関係で見ている。正造も同じ考え方をするのである。それと対照的なのが足尾町の企業城下町であった。銅山会社が足尾に入ってそれまでの農林業の農村を一遍に町にしてしまう。足尾は上述の7つの都市と経済発展のコースが違ったのである。この2つの例は今日の町づくりの方法――今あるものを伸ばすか、手っ取り早く企業誘致に任すか――を考えることにも示唆的である。
 3)地方自治の破壊
 鉱毒が地方自治を破壊する。この政治的視点は正造が強調することであった。
 住民は被害を受けると経済的に衰退し、税金を払えなくなる。当局は国税も町村税も免訴とせざるをえなくなる。ということは、国政参加権(その資格は地租と直接国税10円以上を納める者)を失うことであり、地方自治参加権(その資格は直接国税2円以上を納める者)をも失うことである。正造が重視した自治をの担当者は限定されていたとしても、これでは村会は機能せず、村役場を閉鎖する所が出てくる。学校を維持することも難しくなる。また、正造の若い時――江戸時代では通常であったがーー、名主は村民の公選であり、村の公務を担い、村費の徴収・支払いと決算報告を任されていた。それが明治になって官選となる。
 4)その他。鉱毒による洪水の誘発は河底を埋設し、河川航行業に悪影響を与える(須永の言う「合成加害」)。被害地の出身者ということで結婚に差しさわりがでるという風評被害が発生する。
 公益と公害の概念の成立
 正造からすると、以上の個人損害と社会損害のすべて反対のことが「公益」であり、それは鉱毒以前に実際に実現していたことであった。こういう彼を昔に戻す反近代化論者と言えるだろうか。それには注意が必要である。彼が批判する近代化は維新以来の国家による商工業優先政策であって、文明論的に長い目で見た人間・自然関係や都市・農村関係の醸成と自治の培養、言うならば下からの近代化は彼が守ろうとしたものであった。下からの近代化=公益の概念がずいぶんと広く、そして深まっていることが分かる。鉱毒はその公益を害したから「公害」なのである。こうして公害の概念も拡大し深められている。……正造は1897年・明治30年2月の議会に「公益に有害の鉱業を停止せざるの儀につき質問書」を提出していた。
 C「国家損害」
 私企業による鉱毒が洪水を誘発し、政府は河川の改修に税金を支出する。また
政府は後になってであるが、銅山付近の植林の費用を負担する。植林は緑を増やして環境保全になるからプラス・イメージに見られるだろうが、そうせざるをえなくしたものや負担の転嫁を忘れてはならないだろう。さらに被害地に対する免訴はそれだけ国家収入を減らすことになる。
 こうして国家は費用を増やす一方で、銅山に山林を安く払い下げていたのだから、これでは正造と共に「経済の紊乱」としか言いようがなくなる。

 以上、銅山による被害は個人から社会、そして国家へ、さらには動植物にまで広がり、底がしれないのである。これは今日いうところの「社会的費用」(W.カップ)の概念である。辞典はそれをこう定義している。企業の「経済活動によって社会的に損なわれる価値額を、その経済活動にともなう社会的費用という。」(『世界大百科事典』平凡社)正造はすでにそのことを知っていたのである。その後の日本人はそれをカップのように体系的に整理しなかったと言える。
 正造は以上の損害を合計する。すると、被害総額は約1600万円以上にのぼった。ただし、生命や自治の損害は計算できないから含まれない。その被害額と企業収益(1897年・明治30年に約200万円)を比較する。損益はどちらに傾くか。それは明白である。正造にとっては、こういう計算こそ「経済の自然」であった。……以上の計算には企業による雇用や地域からの調達というプラスの効果は入らない。それは被害民の立場で銅山の鉱業停止を求める運動からすれば当然であろう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1083:191126〕