7月中旬、研究会の友人から「矢沢さんが緊急入院したらしい」との連絡があり、驚いた。というのは、その1週間ほど前に、当の矢沢さんが電話で「いま、これまで自分が書いてきた論文を整理して一冊にまとめたいと思っている。それに60年代・70年代の共産主義者同盟マルクス主義戦線派(マル戦派)の総括を書いて載せてくれないか」と執筆依頼をされたからである。いかにも唐突な話であることはさておき、その時点では直接本人から伝えられたのは事実。言葉も意識もはっきりしていた。ただ、声が少しかすれ気味だったので体調を尋ねたところ「携帯用酸素吸入器を使っている」とのことだった。それで「(版元に予定されているという)社会評論社の松田さんと連絡をとって相談します、体に気を付けてください」と告げて電話を終えた。その後「緊急入院」の話を聞いて、すぐにご家族と連絡を取ったところ、川口市立医療センターに運ばれたとのこと。新型コロナの再流行が取り沙汰されている折から、承諾を得た上でお見舞いに伺ったが、すでに意思疎通ができない状態だった。ご家族の話ではやはり急に容体が悪くなって入院したらしい。数日後、改めてお見舞いをと思い電話したところ「今日亡くなりました。私たちもいま病院から戻ったところです」と告げられた。後で別の友人から「矢沢さんは昨年だったかコロナに罹った」と聞いた。あるいは、その後遺症で免疫力や体力に衰えがあったのだろうか。今にして思えば、矢沢さんは何かを悟って、私に執筆を依頼してきたのかもしれない。
矢沢さんは私より3歳年上の先輩で、同じ高校出身だが学年に開きがあって高校生時代は全く面識がなかった。知り合ったのは60年安保闘争が終わった後、私が上京し、予備校を経て医科大学に入学した頃である。当時、安保闘争の総括をめぐって、共産主義者同盟(第一次ブント)が分裂、一部が革命的共産主義者同盟(革共同)に入ったり、また一部はそれぞれにブントの継承・再建を意図したりしていた。後者のグループの一つとして水沢史郎・秋本道夫(望月彰)・杉村宗一(矢沢国光)を指導メンバーとするマル戦派が組織された。その母体となったのが総括作業の中でブントの理論的支柱だった宇野経済学への批判的検討として行なっていた『経済学原理論』(鈴木鴻一郎)の研究会で、高校生運動を展開しながら羽田空港占拠闘争に参加、静岡大学のブント細胞に加わっていた経過から私も誘われて研究会に参加し、そこで矢沢さんとも知り合ったのである。
マル戦派の出発点が宇野経済学批判にあったのは、おそらく実質的リーダーだった水沢さんがブント分解時に「革命の通達」派(革通派)に属していたことに由来する。東大細胞の革通派の一部に、ブント中央が安保決戦に踏み切れなかったのは、例えば姫岡玲治(青木昌彦)の自己金融論のように、帝国主義の新しい段階での資本主義の延命、あるいは構造改革派に通底するような国家の介入による延命(国家独占資本主義論)に対し、根本的に批判する理論がなかったからだ、という「総括」の視点があった。そのことは、資本主義は深刻な危機に直面しているという理論的根拠を必要とすることになる。マル戦派と岩田理論の接近は『現代資本主義と国家独占資本主義』(1963年6月経済評論、岩田弘)掲載以後急速に深まった(矢沢さんと当時東大教養学部に入り直し、自治会活動を行なっていた筆者が一緒に面会したのが最初だったと記憶する)。詳述は避けるが、以降、世界資本主義論、差し迫る危機(危機論)、戦後体制における相対的安定期の崩壊、社会主義革命の戦略・戦術などの一連のテーゼが提起された。また並行して展開された、韓国学生との連帯を含む日韓条約反対闘争、国際的広がりを見せたベトナム反戦闘争、学費闘争・全共闘運動の爆発など60年代半ばから後半の学生・青年労働者の運動の担い手に直接・間接の影響を与えた。そして、そのような運動が社会的な新しい価値観を求める契機となったことも確かであろう。
と同時に、こうしたニューレフトの運動と思想が蹉跌を踏み、政治全体に大きな打撃を与えた事実も認めなければならない。私自身を含め、その過ちと限界に真摯に向き合う総括が求められることになった。
危機論は、世界資本主義論に基づいた戦後体制崩壊の危機としてとらえられていた。多分に1930年代の体制危機のアナロジー(類推)として階級間の決戦が差し迫っているという戦略に結びつけられた。それは安保闘争を超える闘争めざし、直接に権力闘争を展開する根拠となったが、現実には日本における戦後体制は、むしろ安保後の60年代に構築されていった。経済は急速度に成長し、保守優位の保革体制、春闘方式による労使の取引体制が強まり、当然のことながら安保闘争時を超える治安体制も強化された。危機論に直結された戦略・戦術は一種の「原理主義」的な主張に留まってしまった。
街頭行動の先鋭化は67年の二つの羽田闘争で大きなうねりを生み出し、佐世保の現地闘争や新宿新都心密集地での新たな闘争も切りひらいた。また、かってない規模での全共闘運動における学園バリケード闘争の波及は、高度経済成長に吞み込まれる学生の抵抗や大学体制への告発を行なった。しかし、それらに呼応する社会全体の運動への波及は見られない。国家権力・企業体制の壁にせき止められ、日本の戦後体制そのものが揺らぐ条件になかったからである。
「権力」の壁にぶつかった闘争は、一方において「武装闘争」化をもたらし、他方において「党派闘争・党内闘争」の激化を引き起こした。しかし、日本における武装ゲリラ方針は成立するべくもなく挫折した。また、運動の閉塞状況は、新左翼運動内部の対立に内攻し、やがてテロを含む党派間闘争や党内の凄惨な粛清にまで至ってしまった。その結果、それなりに存在していた周辺からの共感の多くも失うことになった。政治への無力感、中でも若い世代の離反を招いた理由にはいろいろな要素があるにせよ、その一端は私たちの責任である。
60年安保闘争後、日本の戦後民主主義体制は、敗戦後の危機状態から確立期に入ったのである。ニューレフトは闘いを通してその事実を総括し、新しい路線に転換していく必要があった。「60年安保の継承」や「その延長線上での突破」ではなく、街頭政治闘争主軸から社会の各領域、労働運動や地域運動、そして、議会活動などへ広く、深くかかわっていく戦略的な転換、単なる左翼的反対派でなく、みずからの新たな路線が求められた。そのためには理論的な欠点や組織体質を反省し、総括することが前提とされる。
筆者が属していた前衛派(旧マル戦派だけでなく独自のグループも含めた組織)でもそうした転換への模索はなされた。1971年には「工場闘争路線への転換」を提起して組織の地区中心の再編を行ない、職場闘争や地域活動を試み、全国的な左派の交流にも参加した。しかし、主として指導部の未熟さにより、散発的な闘争に終わる結果を招いた。それだけでなく「転換」には危機論、戦略戦術論、権力論、党論、(また1960年代には中国においても文化大革命の失敗があり)社会主義論など全面的な理論上の見直しが迫られたが、当時、果たすことができないままだった。特に、日本政治の統合機能をもつ議会に政党として関わる活動ができなかった点で、民主主義論の欠如が大きな問題であった。グローバリゼーションの結果、過度な競争と格差・分断が世界を覆う中で「連帯民主主義社会」の構築は、今日なお重要なテーマだと思う。
結局、80年代に「それぞれの分野で活動しながら、それぞれ独自に前に進もう」とし政治組織を解散することになった。失敗は数多くあったが、前衛派だけでなく、ニューレフトの一時代を担った人びとを一つの流れにまとめていく役目を果たせなかったことが、何よりも重大な私の自己批判的総括になる。
矢沢さんの死に向き合い、半世紀以上の活動をふり返ることになってしまった。追悼文にふさわしくなかったかもしれないがこれもやむを得ない。矢沢さんと政治的な感覚では合わないことも多かった。ただ、個人的な関係では完全に途絶えることもなかった。なぜ、彼が私に「60年代の総括」を託したのか、亡くなってしまったいまとなっては不明である。自分なりに追求してきた内容を基に、できる限り前を向いて生きることを誓うしかない。