世界史に甚大な影響を与えたにもかかわらず、日本では知識人の間でもあまり知られていない偉人がいる。そのひとりとして、イランのサファヴィー朝(1501年から1736年)を建国したシャー・イスマイール・サファヴィー(1487年から1524年)を紹介したい。連合王国(UK)の著名な歴史家であるアーノルド・トインビーは大著「歴史の研究」で、シャー・イスマイールのことを、「レーニンに匹敵する歴史的破壊力を持った人物」と述べている。シャー・イスマイールは14歳で即位して、37歳の若さで死去した。短い生涯である。
しかし、後世に残した影響は大きい。まず、シーア派イスラム教をイランの国教にした功績が挙げられる。
シャー・イスマイールがアゼルバイジャンから出て、イランの地にサファヴィー朝を建国したとき、シーア派は過去の遺物になっていた。現在のイランでシーア派は「国教」の地位にあるが、16世紀の初頭、イランでシーア派は少数派で、スンニ派が多数を占めていた。シャー・イスマイールはレーニンと同じように、自分の宗教(思想)を臣民に強制する際に暴力の行使をためらわなかった。16世紀初頭、シーア派が残存していた地域は、イラク南部、シリア(レバノンを含む)、イエメン、コーカサスなどの限られた地域だった。トインビーの表現を借りると、「歴史的意味がなくなった骨董品のような存在」になっていた。
しかし、シャー・イスマイールがイランでシーア派信仰を強制した結果、シーア派はイスラム教の中では少数派ながら、世界に影響力を持つ宗派として復活した。現在、シーア派の国民が70%を占めるバーレーンで、大規模なスンニ派の王家に対する反対運動が起きていることでも証明されている。イスラエルの安全を脅かすレバノンのヒズボラもシーア派の組織である。
シャー・イスマイールの歴史的破壊力はもう一つある。イラン世界をスンニ派とシーア派で分断したことである。文明としてのイラン世界はヨーロッパのボスニアから、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドのイスラム世界に広がる。サファヴィー朝と戦争で対峙したオスマン帝国はイラン世界に属するが、スンニ派の守護神を自負した。
シャー・イスマイールとその後継者の時代、イラン世界には3つの大帝国があった。オスマン帝国、サファヴィー朝、そしてインドのムガール帝国(1526年から1858年)があった。ムガール帝国の創業者であるバーブル(1483年から1530年)は、中央アジア・サマルカンドの出身である。バーブルは1512年に故郷であるサマルカンドのウズベク人からの奪還を永久に断念して、その矛先をインドに向ける。その結果1526年にムガール帝国が生まれる。しかし、バーブルは1512年以前には、シャー・イスマイールの目下の同盟者の地位に甘んじながら、サマルカンド奪回に執心した。バーブルはシャー・イスマイールの歓心を得るためにシーア派を採用した時期もあった。
ただ、サマルカンドの住民はシーア派を強制されることを嫌って、バーブルと距離を置く。このサマルカンド住民の選択によって、バーブルはインドに向かい、スンニ派に戻ることになる。
トインビーによれば、イラン世界が2つの宗派によって分断された結果、イラン世界は憎しみ合うことになり、長い時間を経て、その活力の源泉を失う。その結果が欧州(連合王国&ロシア)による植民地化(インド)と半植民地化(イラン)である。オスマン帝国でさえ、19世紀には欧州の大国に存続を保障される惨めな存在になる。
1917年のロシア革命によって欧州が2つに分断され、お互いに憎しみ合うことになった。トインビーが、シャー・イスマイールを「レーニンに匹敵する歴史的破壊力を持った人物」と呼ぶのはこうした文脈による。
シャー・イスマイールの歴史に与えた影響はまだある。サファヴィー朝は宗教(シーア派)と宣伝という武器を使って、オスマン帝国の東部(アナトリア、シリアなど)を脅かした。欧州進出に精力を注いでいたオスマン帝国も無視できなくなり、1514年にはチャルディランの地で両大国の決戦が行われた。勝ったのはオスマン帝国で、「征服者」セリム1世はサファヴィー朝の首都タブリーズまで進む。だが、精鋭軍団イェニ・チェリの反抗や冬の到来などに阻まれて、サファヴィー朝の打倒に失敗する。
その後、両国の争いはエジプト・シリアを領有するマムルーク朝が対象になる。機先を制したのはセリム1世である。1517年、セリム1世はマムルーク朝を打倒して、カイロに入城する。その後、400年間アラビア世界はイラン世界に属するオスマン帝国に服従する。
現在のアラビア世界の争乱を知るためにはオスマン帝国の時代の歴史を知らなければならない。その契機になったのは、シャー・イスマイールの「シーア派世界帝国」を創るという野心である。
シーア派の恩人であるシャー・イスマイールだが、現在のイランを統治するイスラム法学者は、歴史教科書でその功績を認めず、冷淡に扱う。その理由は彼がイスラム法学者ではなく、シャー(王様)だからだ。ただ、筆者にはあまりに教条主義的な態度に思える。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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