知識創造理論と西田哲学 ―上―

はじめに

 私が西田哲学を学ぶきっかけになったのは、大学院生の頃西田哲学を使って『資本論』を読むという独特の方法論を用いた梯明秀に師事したからである。それは経済哲学の領域であった。その頃はマルクスの議論は理解できたが、西田哲学についてはなかなか理解できなかった。五十歳過ぎてから、高校生にも分かるように西田哲学を解説する『西田哲学入門講座』を『月刊状況と主体』に連載する機会に恵まれ、じっくり噛み砕いてやっと少しは説明できるようになった。

 その『西田哲学入門講座』をまるごとWEBに上げていると同種の入門書では最も分かりやすいということで、好評を得ていた。そして二〇一一年になって知識創造理論の野中郁次郎が主座の『経営革新研究会』から、「純粋経験」と「場所の論理」について分かりやすい解説をするように招聘されたのである。

 野中はウォール・ストリート・ジャーナル(二〇〇七年)で「The Most Influential Business Thinkers 20」に選出された経営学の権威だが、彼は知識創造理論の説明に縦横に古今東西の哲学を援用するようだ。そのために研究会では、これまでもホワイトヘッドやフッサールなどを解説する講師を招聘してきたようである。そこで私は、知識創造理論と西田哲学が噛み合うように解説できるかどうかということで、野中の著作に触れてみたのである。

 元々西田哲学は、行為的直観の立場に立つ実践的な哲学なので、経営学、特に知識創造理論を深める上で大いに役に立つものかもしれない、西田哲学が経営学に役に立つというのなら、私も既成の枠を破った新たな哲学の冒険ができるかもしれないということで、本稿に取り掛かることにしたのである。

 それで先ず技術革新や知識創造と西田哲学を結びつけている先行著作はないかと当たってみたところ、山田善教著『場所の論理による事業改革―イノベーションへの西田哲学の応用』(白桃書房、二〇〇五年刊)が見つかった。山田はトヨタ生産方式の研究や指導では第一人者のようで、この著作が実践的には非常に効果的であるのかもしれない。ただ、驚いた事に西田の著作からの引用が全くない、山田の解釈した「絶対無の意識」が展開されているのである。せめてポイントのところは引用による裏づけが欲しかったと思う。

 山田によると「絶対無の意識」は「深層心理」にあって、「四次元の世界」である。どうも三次元の現実に囚われない、心の世界、四次元の世界の深層心理が、絶対無の意識なので、主観・客観を合一し、過去・現在・未来を超越したりして、自由な発想ができ、知識創造がブレイクスルーすると受け止めているように解釈される恐れがある。

 よく知られているように西田の文章は極めて難解である。文意を確かめるのに一筋縄ではいかないのである。山田のそういう絶対無の解釈が成り立つのかどうか、西田の書いた文章で確かめたいものである。一応読み返してみているのだが、山田のような解釈が成り立つ箇所を発見することはできなかった。

 西田の文章を正しく解釈できているかどうか、読めば読むほど難しくなると言われているだけに、あるいは山田のような解釈も成り立つかもしれないので、その元に成っている西田の文章を紹介してくれなければ、我々も既成の誤った解釈を改めることができない。

 既成の解釈では、絶対無の場所は、自覚つまりヘーゲル的には自己意識の立場にたって、意識経験の内容を全て自己自身として受け止めるところに成立する。その際に、意識内容である物が自己自身なのだから、それを受け容れる場所は一切の有や無と区別された絶対無だということである。そのことによって物は単なる有の場所の客観的な物ではなく、生々しい現実である自己自身の姿なのである。「物になって見、物になって考える」あるいは「物になって見、物になって行う」ということなのである。

 本稿では野中郁次郎と竹内弘高共著『知識創造企業』(東洋経済新報社、一九九六年)を参照しながら、まずSECI理論と呼ばれる知識創造理論の概要を紹介する。次にそれに関連させて西田哲学の主要なタームを遣ってその内容を意義付けたり、深めたりできるかどうか、またそれが知識創造理論の威力を強める事になるのかどうか検討してみたい。まだこの試みは取り掛かったところなので、本格的に議論を深めるところまでは行きそうもない。随想的な覚書に止めざるを得ないだろう。

         一、形式知と暗黙知

 先ず断っておくが、経営学では企業が経営の主体であり、知識創造の主体である。その点、個々の経営学者がどう捉えているかは、よく調べてみないと分からないが、企業としてどのようにすれば企業がサバイバルし、発展できるか、イノベーションやナレッジ・クリエーティング(知識創造)できるかを論じているわけである。もちろんトップ主導型のトップダウン・マネジメント、ミドル主導型のミドル・アップダウン・マネジメント、現場主導型のボトムアップ・マネジメントという型があり、主体性を発揮してマネジメントを動かすのは誰に期待されるかは重要な問題ではあるが、それはあくまで企業が組織体として経営を成功させ、知識創造を行なうための組織論である。

 だからSECI理論の実践主体も企業と考えるべきだし、トップ、ミドル、ロアあるいは平の従業員が実践主体である場合も、企業の意思を個人であるという矛盾を抱えながら体現していると捉えるべきである。企業はいかに知識を共有し、創造し、連結し、蓄積し、発展させてきたかを論じているのがSECI理論である。

 その意味で経営学者たちが気付いているかどうかは別にして、企業などの組織体も人間であるという組織体人間論で了解しておくと分かりやすい。既に十七世紀にホッブズは『リヴァイアサン』で国家を巨大な人工機械人間だと捉えていた。同じ論理で展開すれば企業や組合や政党などの組織体も人間だという事になる。それで法人概念で企業などの団体も人格主体と見なされるようになった。法人資本主義論などでは、企業自身が企業を管理運営する人格的主体ということになる。

 知識創造理論では知識を形式知(explicit knowledge)と暗黙知(tacit knowledg)に二分して捉えている。そのことによってダイナミックな知識創造理論が構成されることになるのだが、そういう区分や対置でいいのか、もっと別の区分や多くの知の形式を考えた方がいいのかということは今後の課題としてあるかもしれない。

 形式知(explicit knowledge)は明示的な知識ということで、言葉や数式で表現できる知識にあたる。なぜ形式知としたのかについては、「知識は明白でなければならず、形式的・体系的なものだと考えられている」(『知識創造企業』8頁)から推察できる。このようなはっきり明示できる知識は正確に伝達できるので、それに基づく技術は確かなものとして利用しやすいから、欧米の企業ではこの形式知としての知識が知識として通用している。しかし日本企業は、このような明示的な形式知は、知識を氷山とすればその一角に過ぎないと捉えているらしい。

 「知識は基本的には目に見えにくく、表現しがたい、暗黙的なものだというのである。そのような暗黙知(tacit knowledg)は、非常に個人的なもので形式化しにくいので、他人に伝達して共有することは難しい。主観に基づく洞察、直観、勘が、この知識の範疇(カテゴリー)に含まれる。さらに暗黙知は、個人の行勲経験、理想、価値観、情念などにも深く根ざしている。」(同書8~9頁)

 つまりものづくりの智慧やこつというものは言葉や記号で表現する事は難しいということだろう。暗黙知は二つの側面を持っているらしい。一つは技術的側面「ノウハウ」で技能や技巧などである。身に付けた技、洗練されたセンスなどは理窟では説明できないものである。

 「同時に暗黙知には重要な認知的側面がある。これに含まれるのが、スキマータ、メンタル・モデル、思い、知覚などと呼ばれるもので、無意識に属し、表面に出ることはほとんどない。この認知的側面は、我々が持っている『こうである』という現実のイメージと『こうあるべきだ』という未来へのビジョンを映し出す。簡単には言い表せないこれらの暗黙的モデルは、我々が周りの世界をどう感知するかに大きな影響を与える。」(同書9頁)

 この暗黙知の認知的側面というのはプロフェッショナルなセンスで、例えばプロの鑑定士がみれば、素人には全く分からないが、真贋が直観的に見分けられたり、その値打ちも分かってしまうようなものなのかもしれない。まあもっとも中にはいかさま鑑定士もいるだろうが。

 山田の「絶対無の意識」が深層心理で四次元の世界という理解は、暗黙知が無意識に属しているというこの表現から飛び出したのかもしれない。暗黙知と純粋経験が親近性を持ち、それが絶対無の意識として捉え返されるならば、つながってくるからである。ただ前述したように、西田の論稿には絶対無を無意識的に捉える文脈はないので、やはり山田の解釈は勇み足ではないかと思われる。

 ただし、絶対無の意識というのは深層心理にしまいこまれているものではなく、永遠の今において立ち現れている意識であるが、それは意識経験の内容を自己自身として自覚している意識である。だから意識経験は自己の存在の方向性としての意志の現われなのであり、西田は絶対自由意志として捉え返している。

 野中・竹内は、暗黙知の認知的側面を意志の現われと捉えれば、企業はたんなる情報処理機械ではなく、「有機的生命体」に見えてくるという。つまり組織体人間論である。組織体人間としての企業は、意識経験の流れとして河が海を目指すように、明示的な言葉では表す事はできないけれど、何か憧れや理想を持って、己のセンスを信じて、よりよい物やサービスを生み出そうとしているのである。そういうセンスは創造的なアイデアやコンセプトを引き出す力であり、それ自体が暗黙知なのである。それを一人ひとりの従業員にどうしたら伝えられるかということである。

          二、四つの知識変換モデル

 企業の知識創造は、知識を個人の知識から組織全体の知識に共有化し、それらの知識を連結、統合してより発達した新しい知識を生み出すということである。その場合に明示的に言語や記号で表示できる形式知は教育や学習で共有できる。PC時代では形式知の共有は格段と容易になったといえるだろう。問題は暗黙知をどうしたら共有できるかということである。

 個人的な暗黙知を組織で共有するプロセスが共同化(socialization)である。暗黙知を修得する方法は、直接体験が一番である。西田は、純粋経験は直接経験だといっている。客観的な知識ではなく、直接車を運転したり、火傷したり、泳いだりして体で修得するのである。心と体を使って試行錯誤しながら学んでいくのである。これを共同で経験することで、暗黙知は継承され共有される。熟練工を見習い工が模倣しつつ学んでいく過程である。

 それは言葉によるのではない事が多い。自動電気パン焼き器の開発のために、ホテルのチーフ・ベーカーに弟子入りして模倣しているうちに、そのパンのおいしさの秘密が、パン生地を引っ張るだけでなく、ひねりを加えている事に気づいて、それをプログラムしたのが松下電器の「ホームベーカリー」開発成功の鍵だったのである。

 次のプロセスが暗黙知を明確なコンセプトに明示して形式知に変換する表出化(externalization)のプロセスである。

 暗黙知にはあるべき姿としてのビジョンを持っているという面、プラトン的にはイデアへのあくなき接近という面がある。「主観的な洞察や勘」(13頁)と表現されているが、これを形式知に変換する例にあげられたのが「ホンダ・シティー」という都市型カーの開発である。

 先ずトップ・マネジャーが「冒険しよう」というスローガンを打ち出し、凡庸化してしまった既成のイメージを打破することを訴えたのである。それをうけて開発のチーム・リーダーは「クルマ進化論」というメタファーをスローガンにした。要するに次世代カーである。それは「マン・マキシム、マシン・ミニマム」だということになった。クルマの性能を落さないで、しかも乗り心地をよくするために居住スペースを大きくするということである。かくして既成の背の低い流線型のお定まりのデザインから、「トールボーイ」というコンセプトの「高くて短い」球形に近い新世代カーのさきがけが誕生したのだ。

 メタファーやアナロジーを使うことで、個人知が組織知になり、企業全体や開発チームの中に議論が巻き起こり、いろんなアイデアが喚起され、新製品のアイデアが出来上がっていく。この場合、メタファーやアナロジーでスローガンやコンセプトを打ち出すことで、企業の、トップの、リーダーのセンスが伝わったということで、暗黙知が形式知に変換出来たという捉え方なのだろう。

 次の知識変換は、知識やコンセプトを組み合わせて一つの知識体系を作り出す連結化(combination)である。現在ではコンピュータ・データベースが充実して形式知を整理・分類して新しい知識生み出す試みが為されている。これは学校における教育・訓練で行なわれていることで、MBA教育がその典型だという。

 企業内ではレジでの情報をすべてコンピュータ管理することで、各店ごとの仕入れ、品揃え、配置方法などが決まってくる。アサヒビールでは“Live Asahi for Live People”というグランド・コンセプトを採用し、販売部門の協力を得て「コクとキレ」というコンセプトを打ち出し、キリンビールを追い越す販売実績を上げたのである。

 そして最後が形式知を暗黙知に体化するプロセスである内面化(internalization)である。共同化、表出化、連結化の体験によって、メンタル・モデルや技術的ノウハウが豊かになり、向上してくるのである。つまり形式知が暗黙知に内面化されるということである。そのためにも体験を書類、マニュアル、開発物語などに言語化・図式化してまとめておくとよい。形式知が内面化を助けて暗黙知を豊かにするのである。

 形式知の内面化は、厖大なデータベースを作ることでも可能に成ることがある。自社製品のトラブルとその解決例を詳細にわたりすべて入力し、整理しておけば、顧客からの問い合わせに、経験の浅いオペレーターでも瞬時に応答でき、解決する事ができ、その繰り返しで、暗黙知として内面化できるようになる。

 暗黙知として内面化されたものは、再び共同化され、表出化され、連結化されて新たな知識を創造していく。つまり知識がスパイラルに発展していくことで、企業がイノベーションを継続し続けることができるのである。共同化、表出化、連結化、内面化つまりsocialization  externalization  combination  internalizationの頭文字をとってSECI理論と呼ぶのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study480:120418〕