知識創造理論と西田哲学 ―下―

           三、暗黙知と純粋経験

 西田哲学を使って知識創造理論を深めるとしたら、まず暗黙知を純粋経験として捉えられるかという問題提起から検討してみるべきだろう。暗黙知は水泳とか自転車操縦のように身体が覚えこんでいる知識である。身体と精神が未分化の段階で体得したものだから、身体抜きに言語化できないわけである。それは主観と客観が未分化な直接経験である純粋経験に通じているといえよう。

 もっとも純粋経験そのものはいつも現在の経験として現われるわけだが、暗黙知は過去の経験を技能やセンスとして身体が覚えこんでいる知である。一見、別物だということも言えよう。しかし知も身体化した技能やセンスを対象に作用する意識経験として現われさせる現在の意識経験に他ならないから、その意味でなら純粋経験に含まれないことはないのである。西田幾多郎著『善の研究』で純粋経験は次のように表現されたので、何か特別の経験であるかに誤解されがちである。

 「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験そのままの状態をいふのである。例へば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいふやうな考えのないのみならず、此色、此音は何であるといふ判断すら加はらない前をいふのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である。」(『西田幾多郎全集』岩波書店刊、第一巻、九頁)

 しかし西田は純粋経験を唯一実在として展開しているので、あらゆる経験は複雑な経験も含めて、経験そのものをとれば純粋経験だということである。たとえ過去の体験による知であっても、それが知として機能するのは現在の経験なので、暗黙知も巧の技として今ここで経験される純粋経験なのである。

 それなら形式知も純粋経験になってしまって、暗黙知の特徴を純粋経験で語ることは無駄ではないのかという疑問をもたれるかもしれない。たしかに意識経験は直接経験としてはすべて純粋経験であり、それは感覚から高度な思考まで総動員して行なわれる経験である。だから法則的な認識や言語や記号を使った知識表現もすべて純粋経験でないものはない。

 そうは言っても、法則的な認識や言語や記号を使った形式知は、客観化され事物として対象化されて捉えられた知識を直接経験しているという意味で純粋経験に入るということである。いわば間接経験を直接経験しているということなのである。それに対して暗黙知は、機械や道具と一体化した身体の働きを直接経験することなので、主・客一体の直接経験を純粋経験しているわけである。そういう狭い意味での純粋経験だと暗黙知は言えるのである。

 技能的な暗黙知はそれでよいとしても、暗黙知の認知的側面、図式的に捉えるスキマータや当たらずと言えども遠からずの仮説をたてるメンタルモデルのようなものは純粋経験からはどう位置づけられるのだろう。

 西田は純粋経験を主客未分だから、主体的な意志に欠ける経験と捉えていたわけではない、むしろありありと意識経験されている状態として統一力が働いているとみていたのである。それは意識経験は実は生きているということ、生命活動としての意識経験である以上生命が意識経験を通して自己保存を遂げ、より充実して生きようとする意志によって、意識経験が統一されている筈だと捉えたからである。それによって人類は生き残り、発展してきたわけである。

 だからこの意志はよりよく生きるために世界を統一的に捉えて、対応しようとすることになるから、対応可能なスキマータやメンタルモデルとして経験されることになる。通常の生活においてはそのプロセスはほとんど直観に近い形で行なわれるが、そこでトラブルが生じた場合には、そういう暗黙知の組み換えが行なわれる事になる。このように行為的な営みとして暗黙知で意識経験するのも純粋経験ではあるが、西田自身は、純粋経験という捉え方から晩年は行為的直観という捉え方に深化している。だから暗黙知の認知的側面は行為的直観の論理で深めた方がよいだろう。

         四、知識創造企業と場所の論理

 心だけでなく体も使って憶えこむ暗黙知を日本企業は重視するということで、自然と融合し、主・客合一の東洋思想を取り込もうとするところに、経営学における知識創造理論の新鮮味がある。特に西田哲学を応用できないかということで、純粋経験や場所の論理、行為的直観、絶対矛盾的自己同一などのタームを使って知識創造理論を深めたいというのが本稿の課題である。ただし、知識創造理論は西田哲学の応用ではないし、西田哲学だけで深めたり、西田哲学に特に偏って展開すべきものでもない、だから本稿も西田哲学に基礎を置く知識創造理論を目指すのではなく、西田哲学でどれだけ深められるかを課題にする。

 ところで知識創造の場としての企業を捉える場合に、意識経験が現われる「場所の論理」が使えそうである。とはいえ「場所の論理」の解釈が容易ではない。間違った解釈では西田哲学を応用したことにはならないということである。

 西田は、「純粋経験」から「場所の論理」に一足飛びに移ったのではない。純粋経験は生きようとする意志によって統一されている意識であると気付いて、意識経験はフィヒテのような自我の主意主義的な展開として把握され、自覚の立場、絶対自由意志の立場に到達する。それは意識経験自体が、主・客合一した世界の展開としての自我の展開であり、世界を意志に基づいて作り出す働くものの立場であった。しかし西田は一九二七年の『働くものから見るものへ』(全集第四巻)で、見るものの立場に転換したのである。

 というのは意識経験がいかに自我の展開であるとしても、その意識経験を意志の都合よく現われさせる事はできない、むしろ意志にとって悲劇的な不幸な内容でたち現われ、意志が打ちのめされるような場合が多いのである。西田の場合は「ヨブの苦しみ」と言われた家庭内の不幸の連続である。

 フィヒテは、それを自我の実現のために乗り越えるべき非我として積極的に捉え返すが、西田は、ひとまずそれをあるがままに己の悲哀として受け止める「見るもの」の立場に立ったのである。

 だから場所というのは意識経験がたち現われる場所ということである。元々徹底した経験論の立場なのだから、意識経験が現われる場所も意識経験をおいて他には有り得ない。「自己―内―写映」で世界を見るということである。

 西田は人生の悲哀を嘗め尽くしたからこそ、これほどの不幸を背負ってもなお生きる意味はあるのかと、人生の意味を根源から問い直す事で、西田哲学を構築することができたが、企業も順調な時ばかりではない、むしろ幾度も地獄を見なければならない、そうだからこそ、自ら存在の意味を根源的に問い直し、知識創造主体として、知識創造の場所たりえるのである。

 グローバル化に伴う長期デフレ不況、それに伴う国内生産の空洞化と少子高齢化に伴う学力低下、労働力の質的低下、韓国・中国などの激しい追い上げなどの現実をしっかり見据えなければならない。

 場所には三種類あって、それぞれ「有の場所」「無の場所」「絶対無の場所」と呼ばれる。もちろん場所といっても意識経験なのだから、各人の意識経験の包容面を指しているので、同じ意識経験なのである。

 それを「有の場所」では、客観的な諸事物の関係として主語の論理で世界が捉えられている。「無の場所」では事物の述語とされていたものが、意識として捉え返されたことで、事物としての統一的な有を失って無として現われている。そしてそれぞれの述語が統一にもたらされて、どの述語も主語Aだったということになれば、「aがAである」「bがAである」~「zがAである」となるので、述語であることを超越して超越的述語面にあると言われる。かくしてAは述語の集合として事物になる。こうして感覚の束、意識経験の統合として、リアルに事物が捉え返される。それが「絶対無の場所」である。

 それでは「有の場所」の事物と「絶対無の場所」の事物はどう違うのか。「有の場所」の事物は、意識経験が統合され事物として対象になった対象面、これをノエマというが、そのノエマだけがそれ自体で存在し、関係しているかに捉えられている。ノエマへと意識を統合する作用面、これをノエシスというがノエシスが捨象されているのである。だから豊かな感覚が忘れられてしまっている。それに対して「絶対無の場所」では、事物は意識の統合であって、主体の意識経験の統合である。だから「物となって見、物となって行なう」ことである。

 有の場所では、事物はあくまで意識経験とは別物とされ、他者でしかないが、絶対無の場所では、逆に私は場所としては絶対無になっており、物が私になっている。私は物と成って意識経験しているのである。これは本居宣長の「もののあはれ」の哲学的深化でもある。

 これを企業にあてはめてみよう。製品を産み出すが、そのために様々な社会的事物や自然的事物を用い、労働力を使用している。出来上がった製品は社会に流通し、消費され再生産される。企業はそれらの諸事物を有効につかって価値生産に役立たせるのである。そのためには自然諸科学や社会諸科学を使ってしっかり事物間の自然的社会的関係を認識しなければならない。だから「有の場所」としての捉え方は必要だし、徹底しなければならない事である。

 しかしそれはあくまで人間にとって、企業にとって他者に過ぎない、己自身として捉えられていないのである。だから何であってもよく、取替えの効くものである。それではそういう物の生産に自己自身を見出す事はできないのである。それは身体と自然そして機械などとの生きた感覚的生命的つながりが見失われているわけである。ところが「絶対無の場所」における物は主体の意識経験の統合であり、生きた労働の結晶として己自身の姿である。企業は製品にアイデンティティを見出しているのである。

 とはいえ市場経済では価値増殖を目的として行なわれる事が多く、投資した資本が価値増殖されて回収されればそれでいいとなると、何を生産するかは価値増殖のための手段にすぎなくなり、物の豊かな感性的な内容は疎外されてしまう場合が多いことになる。それでも、製品に拘るのは、価値増殖は市場での自由競争の下で可能になり、製品の性能によって競争に勝ち抜かない限り、価値増殖もうまくいかないからである。

 ところで経営学では企業が意識経験の主体として前提されてもよいのか、意識経験の主体はあくまでも個人ではないのか、西田哲学では組織体を人間として捉える論理は仕上がっているのかというのが疑問になる。個と一般者との関係として抽象的に論じられていても、組織体人間論の確立という視点は明確ではないのではないか、その点を検討し、補充していく必要はありそうだ。

          五、SECI理論と西田哲学

 最初に共同化があげられる。経験といっても必ずしも個人の経験を意味するのではないことは次の『善の研究』からの引用でも明らかであろう。

「之を要するに思惟と経験とは同一であつて、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はないと思ふ。併し余は之が為に思惟は単に個人的で主観的であるといふのではない。前にもいつた様に純粋経験は個人の上に超越することができる。かくいへば甚だ異様に聞えるであらうが、経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あつて経験あるのではなく、経験あつて個人あるのである。個人的経験とは経験の中に於て限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。」(28頁)

 野中・竹内は日本的知の特徴として「主客一体」「心身一如」「自他統一」を挙げている。(38頁)根本的経験論にたつ西田の純粋経験論はこの伝統に即しており、暗黙知の共同化が成り立つ共同主観的な知のあり方を示しているといえよう。
そして暗黙知を明確なコンセプトによって形式知に変換してする表出化は、行為的直観の論理で深めることができるだろう。行為的直観では、絶対無の意識で「物となって見、物となって行なう」のだから、物は意志の方向を向いているのであり、物に内在する方向性を読み解いてそれをメタファやアナロジーで示していけば、次の製品のイメージが固まってくるはずである。

 次の形式知を連結して新しい知識体系を作り上げ、技術や組織のイノベーションを進化させる連結化は「場所の論理」の展開として『第五巻 一般者の自覚的体系』『第六巻 無の自覚的限定』などで展開されている論理を使えそうであるが、難解な言い回しを相当噛み砕かなければ、かえってペダンティックで有害なものになりかねない。

 肝心なことは知識と技術と人や機械や製品が別々の存在ではなくて、大いなる生命の、意志の現われであり、経験としては一体のものであるということである。だから制作的に対象を変革していくポイエシスと、実践的に自己自身を高めていくプラクシスは統合的に捉えられなければならないとする西田の立場に立って、西田の文章に囚われずに分かりやすく展開すべきであろう。

 そして形式知を暗黙知に体得する内面化だが、この問題は一人ひとりの従業員に組織体としての企業が内面化されているという問題でもある。ところが非正規従業員の割合が増加し、労働力が流動化してしまっては、企業文化の定着が困難になり、組織体としては非常に壊れやすい構造に成りつつある。しかも学校教育の荒廃が進み、労働力の劣化が進行しつつある状況では、形式知を体得できるようにするシステムが構築しずらくなっているのではないだろうか、東電の福島原発の大事故はそのことの象徴であるかもしれない。そのいう危機意識を持って、各企業や役所や学校は総点検を迫られているのではないだろうか。

 その場合に、働くものから見るものにということで、絶対無の場所に立たなければならない。そして個人と企業、身体と機械と対象、あるいは人格と物、個と一般者、過去・現在・未来などの絶対矛盾的自己同一についてもしっかり思索をめぐらし、どのような媒介や創意によって知識創造の場を輝かせ続ける事ができるか、悪戦苦闘を続けるべきであろう。

             むすびにかえて

 経営学の領域に西田哲学からどういうコミットができるか、本稿は知識創造理論を西田哲学のタームで哲学的に深めて、発展させようという当初のもくろみはとても成功したとはいえない。ほんの問題意識を開陳して、議論の呼び水になっているかどうかも心許無い気がする。

 ただ経営学という企業を主体に置く学問分野に西田哲学を応用することによって、西田哲学のネオヒューマニズム的性格がひときわ鮮明になったということはできるだろう。

 ネオヒューマニズムというのは、現代ヒューマニズムを克服する新たなヒューマニズムという意味である。現代ヒューマニズムは、人と物の抽象的な区別に固執し、物質文明や物象化された機構によって人間が疎外され抑圧されているのに対して、物からの解放を叫び、物ではない人間性の取り戻しを叫んできた。しかし人間は元々物に自己を実現し、物の中で人間性を発展させてきた存在であり、いったん物になって見、物になって行う、物になって考えることなしに、自己を解放することも為しえないのである。

 西田は人生の悲哀に打ちのめされる事で、それを自己自身の姿として受け止め、その上で大いなる生命の意志に基づいて、行為的直観を打ち出した。ひとまず己を絶対無の場所において、徹底的に物になりきることで、大いなる生命の意志と一つになれるということで、これは企業の立場と通底しているのではないか。三・一一の原発事故で日本経済は地獄を見たはずである。あらゆる場所で脆弱化した己の姿を徹底的に見据えなければならない。その危機意識の上で、行為的直観が生まれ、再生の道が見出せるのである。

 ネオヒューマニズムは、人間を身体とそこに宿る人格に限定する人間観だけに固執しないで、必要によっては、社会的事物や自然的環境も含めて人間を捉え返し、事物のカテゴリーとして人間を見直そうという思想運動である。そして組織体も人間の在り方として見直すホッブズ以降の組織体人間観も包摂している。その意味で、西田哲学の純粋経験、場所の論理、行為的直観の立場はネオヒューマニズムの論理を貫いていると言える。

 そして企業経営というのはまさしく物になって見、考えることであり、常に絶対無の自覚において、行為的直観が働き、製品の中に自己の人間としての実存が輝く存在である。

 ただ西田にも人格と物を絶対矛盾的に捉える面があり、ネオヒューマニズムと規定してしまうことには、西田哲学のエピゴーネンからの強い反撥も予想されるので、ネオヒューマニズム自身が、人格と物の絶対矛盾的性格をどう捉え返すべきか、よく考え直した上でネオヒューマニズムの再構築を目指すべきであろう。

初出 立命館文学 第六二五号(二〇一二年二月)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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