はじめに
適切な糸口の特徴は、一つに具体的、簡明的確なこと、その一方で潜在的な光力をもっていることである(エーリヒ・アウエルバッハ)。
石川啄木研究は、現在「国際啄木学会」ができていて、今やグローバル化しています。研究者も時代を追って新鋭が現われ、
①岩城之徳(一九二三~一九九五)
②今井泰子(一九三三~ )
③近藤典彦(一九三八~ )
の順序で発展した、と私は見ています。
①は、日本近代文学大系25『石川啄木集』(角川書店刊・昭和44)の「解説者」、②は同著の「注釈者」。同著は定評があり、平成七年に第9版を出していて、研究者必携の著です。
③は、①②を受けて、画期の出現と言える人。社会発展の流れの中で啄木を洗い出しました。この人の近著『啄木短歌に時代を読む』(吉川弘文館刊・平成12)は、啄木『一握の砂』所収の歌、
わが泣くを少女等きかば
病犬(やまいぬ)の
月に吠ゆるに似たりというらむ
には、「あやまった解釈が横行しています。」として、「たとえば」として、右に引いた②今井泰子、①岩城之徳らの解釈、
〈月に吠える病犬の姿に、現実に疲弊しきってむなしい救いを求める人間との類似を見ている〉
を批判、
〈私の心の中の憤懣(ふんまん)、悲しみをそのまま泣くという行為にうつしたならば、その泣き声を少女等は、舌を出しよだれをたらして何にでもかみつこうとする狂犬が月に向かって吠えているようだ、と言うことであろう〉
と解釈します。
このように一例を見ても詩歌の理解・解釈は、さまざまに難しいもの。
では、作者その人が、その時代のパラダイム(枠・共通理念など)を思いみて、身の安全のため、「加工」して発表している場合はどうなのか、同時代のパラダイムを汲み取って読んでくれる人もいようし、そうでもない人もいよう。
昨今の憲法改正問題で一番恐ろしいのは、表現の自由、信念の自由を無くしていく方向が意図されていることです。治安維持法が暴威をふるっていた戦前・戦中、未来あるアーチストが弾圧を受けて死に至ったケースは多く、死に至らなくても、たとえば、
A 溶岩に苔古(ふ)り椿赤く咲く
B われら馬肉大いに食らひ笠沙雨(かささあめ)
という俳句を、Aは「赤い花が歴史ある国体に咲くとは共産党革命・賛美」だとされ、Bは「馬は軍馬として兵士とともに戦場に行く。それを大いに喰うとはけしからん。また内地の食料不足・統制批判でもある!」とされて作者の面高秀(俳号・敬生)は特高に逮捕されました。まるでマンガですが、この鹿児島県特高課長は、キャリア出身で、どう擦り抜けて出世したものか、戦後第二次田中内閣の「第95代文部大臣」、鈴木善幸内閣で「第39代法務大臣」を勤めた奥野誠亮(せいすけ)がその人です。無論「勲一等旭日大授章」を貰っています(この章は大臣を勤めた人はみんな貰うことになっている)。
ところで、内田弘著『啄木と秋瑾 啄木歌誕生の真実』(社会評論社・二〇一〇)という本が出ました。本著は、啄木研究史で全く未開拓の問題を提起し、解明した研究書です。二〇一〇年は、啄木の『一握の砂』刊行百周年の年であると同時に「大逆事件」、「日韓併合」百周年の年。この年に、「啄木と秋瑾」の“人と作品”を並べるなど、誰も思いもしなかったところから掘り下げ、比較研究し、活写した大冊が現われたことに、先ず瞠目しました。
著者内田弘について最初に書くと(本著の「まえがき」より)、著者は、昭和前期の哲学者・三木清を専門に研究して来た人(一九三九年生、専修大学名誉教授。横浜国立大で長州一二のゼミに学び、「資本論」と併せて「演劇研究」もした。著書に『資本論と現代』『三木清?個性者の構想力?』など多くがある)。自分が研究してきた三木清が、「啄木こそ、短歌を民衆歌の形式に転換した歌人である」と評価していることに惹かれて、長年、啄木の歌と評論を読んで来ました。
二〇〇七年七月一五日は、中国浙江省紹興で中国清朝末期の女権革命家・秋瑾が斬首刑に処せられた日から百年目の日。著者は、魯迅が斬首をあつかった小説「薬」や武田泰淳の「秋瑾伝」を読んだことがあったが、二〇〇七年秋の或る深夜、百年前の一九〇七年九月公表された啄木の評論を読んでいて、「大いなる白刃の斧を以て頭を撃たれた様な気持がする」という文に出会います。その文章は、病死した綱島梁川(りょうせん)の((注1))追悼文中の一行ですが、著者は、梁川は「病死」なのに「斬首」とは、変だ。啄木とは思えないチグハグな文だと思った途端、「そうだ!」と直観が閃いたそうです。
??一九〇七年は、秋瑾が斬首された年だ!
著者は、「この啄木の文章の背後には秋瑾が潜んでいはしないか」と調べてみると、同年一〇月一五日の『小樽日報』創刊号に啄木が公表した評論「初めて見たる小樽」と無題の詩に、秋瑾の詩「剣歌」・「宝刀歌」とピタリと重なる表現があるのを見出しました。
ここから著者は、啄木が秋瑾を知っていたこと、同時に秋瑾の作品を良く読んでいたことを探ってゆきました。
〈啄木と秋瑾〉の主題は、右の直観を出発点としたものです。秋瑾の生き方と作品(漢詩)から啄木が大きな影響をうけていること、啄木文学の生成母胎は秋瑾であること。これを追尋するのに、幸い著者は、この間に定年を迎えたので専心研究、論文も次々と発表、中で、新見「啄木作品に転生する秋瑾」を、『国際啄木学会東京支部会会報』(二〇一〇年、第一八号)で発表。本著はこれら既発表の論文を含めて、基本的に書き下ろしといえる質量を備えています。
1.啄木は秋瑾を知っていたのか。
以下、本著の紹介とともに、なぜ、啄木研究家の誰一人、「啄木と秋瑾」との関わりについて察知できなかったのか、したがって浩瀚(こうかん)と言える『石川啄木事典』(おうふう刊・二〇〇一)にも出ていない秋瑾を、啄木は、どうして、どのように知ったのか、というあたりから、筆者の思うところも加えて書き進めてゆきます。
その先に、秋瑾のプロフィルを書きます。
秋瑾(Qiu Jin 1875~1907)は、右記した如く清末の女性革命家。以下『ジャンルジャポニカ』より。
浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)の生まれで、字(あざな)を?卿(せんきょう)といい、競雄と号し、また艦湖女?とも名のった。一八歳のとき官僚の家に嫁したが、義和団の乱に憤激して家庭をすて、日本に留学して反清革命党員となった。当時の秋瑾は清服をきらって和服を着用し、好んで短刀を身につけ、また革命を鼓吹し女性の自覚を促す文章を書いた。一九〇五年日本政府の出した「清国留学生取締規則」に憤激して帰国、教員をしながら光復会(浙江系革命秘密結社)会員として革命運動に従事した。一九〇七年には革命家徐錫麟(じよしやくりん)とともに武装蜂起を計画し、秋瑾が校長をつとめる大通学堂を根拠地として準備をすすめたが、事が未然に官憲側にもれ、徐錫麟の安徽巡撫暗殺(徐錫麟の役)失敗後まもなく弾圧を受け、秋瑾も処刑された。〈伊東昭雄〉
日本では戦後登場した武田泰淳が著した『秋風秋雨人を愁殺す?秋瑾女子伝』(筑摩書房)によって、その生涯が良く知られることになったと言えます。秋瑾が生まれた紹興は、作家魯迅も生まれた町。魯迅(1881~1936)は、日本に留学したことで自分の生涯の翼を得ました。今は、紹興酒(老酒)と茶の産地としても有名な紹興に赴く人は多くいます。右記した魯迅の記念館には、秋瑾が日本刀(短刀)を構えて立った有名な写真も陳列されています。魯迅と秋瑾とは、日本(日本人)とのつながりが深まっています。
著者内田弘は、啄木は秋瑾を知ったが、その時代、すなわち「赤旗事件」から「大逆事件」へと明治国家権力が、その反対者を徹底的に弾圧してゆく過程において、秋瑾のことは書けないと決めていたと考えます。とはいえ、文学をやる者としては無視しえない以上、表面では隠しながら、しかし、「秋瑾の生命」を伝えていたと考えます。つまり、啄木は秋瑾の名を意図的に隠し、「政治的修辞学的方法」(レトリック)でもって秋瑾の文学作品「詩詞=漢詩」を自らの作品制作において活用したのです。その一つ一つの具体的な照合を多く採用して内田の本著は成立しています。啄木の盟友で、「大逆事件」の被告側弁護士として活躍した平出修が、実は秋瑾の日本留学中に、彼女に極めて近いところに居た事実を、最初に示してゆきましょう。
“大逆事件百年”を迎えて、近年、早逝した「義の弁護士平出修」の評価は日を追って高くなりました。この平出は啄木と同じく与謝野鉄幹・晶子夫妻の「明星」の門下生です。
内田は、平出について、以下の事実を調べました。
① 平出は弁護士であると同時に、明治大学付属学校「経緯学堂」で清国留学生を教えていた。
② その間、文部省が出した通達「清国人留学生取調規制」に留学生が抗議行動を起こしたが、そのリーダーが「実践女学校」の留学生秋瑾である。
③ 右の抗議運動の一環として授業ボイコット運動が起き、平出は「経緯学堂」の教員を退く。
④ 本国に帰った秋瑾が、二年後に斬首された後、「経緯学堂」の正面の「錦輝館」で「秋瑾殉死追悼大会」(一九〇七年九月七日)が開かれる。
⑤ 右に先立ち『秋瑾詩詞』が刊行された。
すなわち秋瑾を中心人物とした一連の事件はすべて平出の住居の極めて近くで起きていました。
平出は、啄木が北海道の新聞社を転々としていた間も住所を知っていました((注2))。平出は「秋瑾殉死追悼大会」に合せて刊行された『秋瑾詩詞』を直ちに啄木に送りました。この秋瑾の詩集を印刷したのは「秀光社」(神田区中猿楽町四番地)。平出修法律事務所の至近距離にありました。また「豊生軒」という牛乳店が近くにあり、ここでは「新聞・雑誌・官報書籍」を自由に閲覧できました。「豊生軒」の店主・藤田四郎は、東京時代からの啄木の知人です。啄木は藤田から「国禁の書」を借用。
平出と啄木は、「明星」の歌会で一緒になって以降、盟友となっていましたから、「秋瑾情報」は、ただちに北海道の地を転々としている啄木に発せられていたと思われます。
右④の「錦輝館」は、明治四十一年(一九〇八)六月二十二日に起きた「赤旗事件」の現場となります。ほぼ一年前に「秋瑾斬首=殉死」(一九〇七年七月十五日)を悼む「秋瑾追悼大会」(一九〇七年九月七日)の現場です。
内田は、この二重の「錦輝館衝撃」が、四度目の上京で東京に暮らす啄木に波及して、この「赤旗事件」の翌日二十三日深夜より、啄木ファンなら周知となっている不意の「短歌爆発」を起こして「歌稿ノート」に短歌を多数制作したと見ます。
啄木自身は、『一握の砂』となってまとまる啄木固有のリアリズム短歌が、なぜ生まれて来たのか、という事情について、社会状況との関わりについて何も言っていません。だから、これまで「啄木書簡集」の、明治四十一年七月七日付、菅原芳子宛書簡に見える、
小生などの考へにては、「明星」に載る歌にても十分の八までは好まぬ歌に候。尤もこれは、主幹与謝野氏の趣向と小生の趣味との相違にも起因する事と存候。今度の明星に載るべき小生の作には(無論全力を尽くしたものでもなく、ふとしたる心地にて作つたのに候へど)随分と露骨な、技巧をあまり用ゐざる心のままのよみ方をいたし候間、御覧下され度候。
また同日付、岩崎正宛書簡、
創作上に置ける僕は、この頃になつて(先月半月許り小説をかけなくて仕方なしに歌など作つた。その煩悶の結果)初めて十分の自信をえた。少し考へる事があるので、当分、小児になつて、或は小児の事を、書くよ。
の、各傍線を付した箇所の「ふとしたる心地にて作った」「小説をかけなくて仕方なしに歌など作った」から、文字通り受け取った評者・研究者の意見が主となっていました。
小説家を目指して挫折したことでもあり、そこで、「明星派の強い影響下にあった明治四十一年と四十二年の象徴的な作風を離れて、明治四十三年の現実的な作風を主とした、いわゆる啄木調短歌を中心に『一握の砂』が編集された」(岩城之徳)と客観的・外部から啄木の歌の、「この時期の歌の変化」を捕らえるばかりで、啄木その人の内面の激震を捕らえた研究はありませんでした。
しかし内田は、右の菅原芳子記の次便(七月二十一日付)に、
明星の歌は今第二の革命時代に逢着したるものの如く候。
と書いて、自分は今、新しい歌の世界に参入したことを告げていること、また、この時期の啄木の精神的高揚は「啄木日記」の明治四十一年六月二四日の個所で、次に引く既に周知である、興奮して眠らずに書いた部分を、注意深く吟味することが肝要だとします。
昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散策して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。/そのうち百ばかり与謝野氏に送つた。
内田は、この高揚した気分と、そこからの全的な解放感とは、啄木の「病跡学的(パトグラフィカル)=創造的心境」とを示しているとします。
2.啄木と平出修の親交。
啄木と平出修とは、単に「明星」社中の歌の仲間というだけではありません。秋瑾の刑死・斬首のニュースによることから発生し、深まっていったサムシングがあるはずだ。
平出彬(修の三男)は『平出修伝』で、平出修が前出の経緯学堂で清国人留学生を教えていた間の事件について、以下のように書いています。
革命派日本留学生を押さえようとする清国国家の要請で、明治国家は一九〇五年一一月二日「清国人留学生取締規制」を出したことは、政治的な文書であること。
「[明治]三八年[一九〇五年]一一月[二日]、文部省令によって「清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規定]が公布された。これに対して学生側はそれが事実上留学生の取締規則であるとして反対、全文取消しを要求する騒動が起こり、ついに授業も休止するに至った」
「ちょうどそのころ、孫文が東京で中国革命同盟会を結成した[一九〇五年八月二〇日、東京赤坂霊南坂・坂本金弥の邸宅]。こうした気運にも醸成されて、受講生の間にもこの運動に共鳴するものが多かった。直接には在日女流革命家秋瑾の指導による一斉帰国運動の影響があったのであろう。ともかく[平出]修の授業は中途で終わった」
このように書き、「修は経緯学堂を罷(や)めた後に、中国語の勉強を始めたし、その後も中国への関心を高め、革命の動向にも注目していた」と加えています。
内田は、「秋瑾の刑死」から受けたショックを啄木にも伝え、また近所の印刷店・秀光社から秋瑾追悼の意味を込めた『秋瑾詩詞』が刊行されたので、これも啄木に送ったと見ます。ちなみに秀光社は、孫文たちの機関誌『民報』を印刷していました。その最初の編集者は秋瑾の同志・陳天華。彼は、明治国家が出した「規制」に抗議して東京大森海岸で投身自殺しました。
「一九〇七年九月七日には東京[清国人]留学生界が神田錦輝館における秋瑾女士および三烈士[徐錫麟・馬宗漢・陳天華]の追悼大会を召集した。参加者は一二〇〇人あり、日本人、満州族人、憲政党員、清国中央官庁密偵もいた。……大会は午前九時に始まり午後三時に閉会した」(『秋瑾事跡研究』より)
次に掲げるのは、啄木の評論「一握の砂」からのものです。発表誌は「盛岡中学校校友会雑誌」第十号・明治四十年九月二十日発行。
長なへに真にして且美なる自然の為に、最も憎むべき反逆を企てつつある人類に向つて、我等の「正しき反逆」は最も勇敢に戦はれざるべからず。我等の戦士よ、充分に糧を蓄へよかし、錆びざる剣(つるぎ)をいや更に研げよかし、新らしき旗をつくれよかし、時来らば汝が青駒に鞍(くら)おけよかし。たゞ忘るるとも、鎧と甲と楯をば作る勿れ。我等は常に赤裸々ならむ。これ精鋭なる銃丸と雖(いへ)ども貫く能はざる我等唯一の円盾也(ゑんじゅん)。背後を顧慮する勿れ、たゞ驀然(ばくぜん)として進め。進みて彼等を牛の如く屠り尽せ。恐るる勿れ、彼等の武器は鋭しと雖(いへ)ども皆脆し。我等一度彼等が唯一の殺人器たる「教育」を破壊し尽さば、彼等また何によりてか戦はむ。
これが発表された時、啄木は北海道を転々としていました。
内田は、この中に「剣」・「反逆」・「屠る」とあるのに注目します。
剣を持ち反逆(反清朝軍事行動)を準備し、逆に屠刀で斬首された秋瑾の暗喩であると。
右記した「はじめに」で既に紹介した「綱島梁川を悼む」に啄木は「大いなる白刃の斧を以て頭を撃たれた様な気持がする」と書いて、これもまた秋瑾斬首が示唆されていました。
明治四十一(一九〇八)年四月、啄木は家族を義弟宮崎郁雨に預けて単身上京。平出修とも再会します。
同年六月二二日、「清国人留学生抗議事件」(一九〇五年十二月九日)・「秋瑾殉死追悼集会」(一九〇七年九月七日)の会場であった同じ「錦輝館」で「赤旗事件」が起き、啄木は衝撃を受けます。
「赤旗事件」が「秋瑾斬首」を想起させる。
この二重の衝撃が起爆剤となって、啄木の「短歌ノート」に、一夜にして「短歌爆発」が起きたのではないか。
内田は啄木の「短歌制作の営為」とクロスさせ、ダブらせて平出修が、この時期、しばらく作歌を休んでいた点に着目します。啄木は、明治四十一年六月二四日の「日記」に「徹夜して書いた」と書いた歌を「明星」に送り「啄木歌集石破集」(全一一四首)としましたが、その同じ号(一九〇八年七月号)に平出修も「歌集」全二五首を載せました。これは一九〇三年(明治三六年)以来、五年ぶりの出詠です。
平出修の作から引きます。
第一一首
今はただ律(リチ)にてらして斬りもせず行けよと放つ思ふ まにまに
第一六首
夕霧に小沓(ヲグツ)ぬれつつ来(コ)し君のおもかげすなり白ばら の花
内田訳
第一一首
《いま思うのはただひとつ、自分の判断に任せてもらって、 律=刑法に基づく斬首執行はせずに、「行け」といって放 免してやりたかったということだ》
第一六首
《白ばらの花を見ると、夕霧に濡れた小沓を履き、纏足され た足で不自由に歩く君の面影が浮かぶ》
付け加えると、第一一首、清朝の律例では供述なしには処刑できない。ところが、拷問にかけても口を割らない秋瑾は、いい加減に供述書をつくり拇印を押させられて処刑させた由。
第一六首、秋瑾は「足のわりには、少し大きい黒靴を穿いて、小さい足を隠していた」そうです。秋瑾は、その屈辱を一歩一歩踏みしめて、中国と日本を歩き、平出修宅の近くも歩きました。平出には教え子である秋瑾、その秋瑾があの大きくて重い青龍刀で首を切られたとは!!
啄木は神田をよく知っていました。明治三十五年に一六歳で上京、翌年帰郷。三十七年十月、処女詩集『あこがれ』出版の準備で上京。三十八年五月『あこがれ』刊行。同月に離京して、翌三十九年四月、渋民村尋常高等学校の代用教員となる。以後、北海道の地方新聞社・代用教員を経て、最後の上京は明治四十一年四月の単身上京。ですから東京での全滞在期間は、少なかったものの、土地勘でもって、よく在京の友人・知人との関係を失いませんでした。
そして捲土重来、明治四十一年四月に上京、この年は金田一京助の世話になりながら小説を執筆しますが生活は困窮。しかし、翌四十二年一月、「明星」の後継誌「スバル」の発行名義人になります。「スバル」の刊行費用は弁護士平出修が双肩に担いました。
「啄木書簡集」には、啄木が修に宛てた一本があるのみ。二人の親密度を全的に表出した極めて大切な内容ですが、秋瑾とは無縁です。
作歌を復活した平出修の「明星」掲載歌は、秋瑾追悼の内容です。その精しくは割愛しますが、次に啄木が平出修の詠歌に応えての歌を詠んでいることを、内田は以下の如く立証します。
まず、修の右の連作中の第一五首、
よしさらば悔の火もゆる玉とらむしら玉多き島に放 てよ
この次に先記した第一六首、第一七首を引きます。
夕霧に小沓(ヲグツ)ぬれつつ来(コ)し君のおもかげすなり白ばら の花(第一六首)
ああ少女そのしら玉に一点のあとを残しぬわが黒き 爪(第一七首)
啄木は、この平出修の詠歌に応えます。
右の修の第一五首「悔の歌」を、歌集「新詩射詠草其四」(同年八月一〇日)第六首で、以下のように続けました(筑摩版『石川啄木全集』第一巻一五三頁)。
悔といふ杖をわすれて来し人と共に出でにき寺の御 廊を
啄木は、平出第一五首「悔の歌」を、まず①韻字「悔」で踏む。②平出歌第一六首「小沓(をぐつ)歌」の「来し」を、自分の歌でも「来し」と踏みます。「来し」は平出歌では、秋瑾が「留日(日本留学)」で来日した」ことを意味します。③死者を「悔いる」歌は「寺の御廊」に連なります。この啄木歌の意味は、《寺に来ても懺悔することのない人と一緒に寺の回廊を歩み出た》というもの。悔いが浄化されるのを祈願する平出歌とは対照的です。つまり啄木は反語的なのです。
平出は、「しら玉」という秋瑾を象徴する韻字を用いた歌二首(第一五首・第一七首)で「小沓歌」(第一六首)を囲みました。自分の歌集の中で韻字を踏む、この平出修の手法(「明星」一九〇八年七月号)に対して、啄木は同じ手法で三ヵ月後「明星」一九〇八年一〇月号の歌集「虚白集」で、次のように応えました(『全集』第一巻一五四頁)。
第一首
ふる郷(さと)の空遠みかも高き屋(や)に一人のぼりて愁ひて下 る
第二首
皎(かう)として玉をあざむく少人も秋来といへば物をしぞ 思ふ
第三首
そを読めば愁知るといふ書焚(ふみた)ける古人(いにしへびと)の心よろしも
この三首は、以下の如く緊密に結び合っています。
①第一首と第三首の「愁」は秋瑾の絶命詞
「秋風秋雨愁殺人」の「愁」の韻字です。
②中央の第二首の「玉」は、「秋瑾」の「瑾=玉」です。その「玉」が「秋来」の「秋」につながり、「秋玉=秋瑾」となります。
③「秋瑾」の「秋」を、その前の「愁」と後の歌の「愁」がかこみます。
④この囲み方は、平出修が先記した「しら玉」で前後から「小沓歌」を囲んだ手法を啄木も踏んだものです。
以上、内田弘の瞠目すべき“読み”を紹介しました。
右にも出て来た「秋瑾絶命詞」は、秋瑾が処刑場に引き立てられて、いざ断首となる寸前に、言い残した詩として有名です。先記しましたが、戦後作家の武田泰淳は、東大で中国文学を学んだ人。戦中は中国で一兵卒として過ごし、秋瑾の生涯を復員後『秋風秋雨人を愁殺す』の表題で一冊とし代表作となっています。
内田弘は書いています。
「秋瑾は啄木の同時代人である。日本に学ぼうとして留日し侮蔑され抗議=帰国し決起準備中に密告され逮捕され斬首された人である。秋瑾斬首の半年後に掲げられた孫文たち中国同盟会の「三民主義」の第五の目標は、「中国と日本の両国の国民連合を主張する」である。両国は政治的に今よりも近かったのである。同伴し始めていたのである。」
と。
以上、内田弘の著は、一九〇〇年に設けられた治安警察法など言論弾圧体制のもとで、啄木は『一握の砂』を出すに際して、いかに腐心したか。これを要所とした画期の考察を成しています。日記でさえ、押収されて証拠物件とされる表現抑圧の時代となっていました。今、私たちが呼吸している平成時代のパラダイムでは理解も想像も難しい(?外は日記に「大逆」について一言も触れなかった。橋浦時雄は「因伯時報」に「巷頭微語?革命と暗流」を書いたことで「日記」を押収され“不敬罪容疑の条あり”と懲役五年、新聞紙法違反で禁錮四ヶ月の判決を受けた)。
「大逆事件」が起き、「朝日新聞社員」である啄木は、どう生きたか。また、どう生きねばならなかったか。『一握の砂』のどこにも直接に秋瑾・平出修の顔はありません。なぜなのか?
『一握の砂』は、長男真一が生まれて二十八日で死に、その葬儀費用に、出版元東雲堂書店から得た「原稿料二〇円」が使われて無くなりました。しかし、内田弘の『啄木と秋瑾』によって、啄木、秋瑾、平出修の、隠れた姿・営為が明るみに出て来たのです。啄木たちを愛する人には〈天与の大きな花束〉の著だ、と思います。
3.暫定的な、まとめ
内田弘著『啄木と秋瑾?啄木歌誕生の真実』を読み上げて、新しく分かったところ、更に、派生して考えられることを、以下に順不同に記します。
① 平出修が啄木を追うかのように早逝したことで、二人の格別の関係が良く分からなかった。このことが本著によって明々白々になりました。
② 平出と啄木とは、「スバル」編集の際などに直接に会って各自の「内密な作品」を書いたのです。
③ 平出は「大逆」の被告代理人・弁護士として、「弾圧に狂奔する国権の無法」を痛感していました。「激する啄木」をよく押さえて、『一握の砂』を、安全な著に「仕立て上げさせた」と言えましょう。
④ 啄木の「日記」の明治四十三年の分は、四月一日より二十六日までの分しか遺っておらず、このことが読者・研究者に惜しまれて来ました。この明治四十三年は、啄木にとって、文学的にも思想的にも重要な年でした。「赤旗事件」に続いて、この年に起きた「大逆事件」に関心を持ち、資料を集め、また社会主義思想に関心を持ち、「時代閉塞の現状」を書きました。この論文は直ちに活字になりませんでしたが、「啄木の奇蹟の一年」と呼ばれる充実の年、今流に言えば、ギア・チェンジの決定的な年でした。翌々年(明治四十五年・大正元年)四月十三日午前九時三十分、啄木は結核性による全身衰弱で永眠。啄木の明治四十三年の「惜しまれる日記」は、啄木から修に宛てての書簡がなぜか「ほとんど残っていない」ことと連動・通底しています。これは意識的・計画的に啄木が「書き残さなかった」のか。近藤典彦は当該の部分は「切り取られている」と自著で近年明らかにしました。『啄木全集』の解題では、この事実が書かれておりませんでした。
⑤ この啄木へのコーチ役を担ったのが修です。「平民新聞」=幸徳秋水らへの狂暴な弾圧の理由づけになるのは、ほんのサムシングでもかまわず、問答無用なのでした。「大逆事件」をピークとするパラダイム(Paradigm)=同時代思考・枠組み、を考慮する必要がありましょう。
⑥ 派生して書くと、平出修が森?外に、西洋思想のアナーキズムについてレクチャーを受けた事は知られています。今、修直系の平出彬の著を見ていて、修の残されたメモに、バクーニン、プルードン、スチルネルの名前がある由を知りました。修が啄木に「(お互い)気をつけよう」と囁き合っていた様子がリアルに偲ばれます。やはり?外はバックアップした巨人でした。
○啄木が、北海道漂泊をやめて、単身上京した明治四十一年四月、金田一京助の世話になりつつ小説を執筆、芽が出なくて生活は困窮。しかし強運の人啄木は翌年三月、朝日新聞社校正係として採用されました(月給二十五円)。北海道でも三つの新聞社で働きましたから、啄木の「朝日入社」は万々歳でした。この採用される際の信用になったのが「スバル」発行名義人・石川啄木、という「看板ネーム」でした。「スバル」の出資者は平出修です。「スバル」は「明星」の後継誌。与謝野夫妻に森?外、上田敏ら、綺羅星の如きメンバーです。これを啄木は、詩集『あこがれ』(明治三十八年に十九歳で出版)と一緒に「朝日」への入社願いとともに提出していました。すべてにすばやいのが啄木でした。だがしかし、彼の身体が結核菌によって喰い尽くされてしまいました。これは天才に多く見られるパターン・類型でしょうか。
【注】
(1)綱島梁川(一八七三~一九〇七)は、評論家。咽喉を病み早逝。啄木は、自分の詩集『あこがれ』が出た直後に梁川を訪問。啄木晩年の評論「時代閉塞の現状」には梁川への評価も書かれている。
(2)この事実証明に必要な、平出・啄木の関係を示す「書簡・日記」等が、不自然なまでに「自己規制」されているようです。
初出:「群系」2013年秋、31号収載から許可を得て転載しました
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〔culture0007:140203〕