まずは結論的部分を紹介しよう。
「 明治維新という革命は、日本人が祖先から受け継いだありとあらゆるものを破壊し、捨て去ってしまった。日本人が「保守」すべき伝統は、明らかにここで、途切れているのである。
誰よりもよくこのことを知っていたのは、保守思想家と呼ばれる人々であったろう。だからこそ彼らは、「國體」という概念を創出したのである。だからこそ彼らは、明治維新によっても、「國體」が変更されることはなかった、と強弁したのである。
ここに私は、日本保守思想の最大のアポリアを見出すのである。[1] 」(「あとがき」より)
著者が主な対象としたのは伊藤博文の秘書官として大日本帝国憲法作成に大きな役割を果たした金子堅太郎(以下存命者以外は敬称を略す)である。金子はアメリカに留学してハーバード大学で法律学を学んでいるが、結局のところ彼は伊藤が渾身を込めて憲法に組み込んだ立憲制の原則を日本国家にとって枢要のものと考えることはできなかった。金子は「國體」を「政体」とは区別して日本独自の概念と位置づけ、明治維新によってもそれは変化しなかった主張した[2] 。金子は五条誓文の福岡孝悌原案の発布形式=天皇と諸侯の盟約を批判するだけでなく、実際に発布されたものに継承された「万機公論に決すべし」等の条文自体に対してさえも「万世一系の天子が日本の政務を御親裁あそばさるる政体ではない[3] 」と批判している。さらに1935年の天皇機関説問題の際は美濃部学説を排撃する積極的役割を果たした[4] 。礫川氏によれば、「日本独特の国柄」を意味する「國體」という言葉は、幕末期になって後期水戸学によって使われ始めたに過ぎないものであって[5] 、それはまさにホブズボームのいう<創られた伝統>であるという[6] 。
新しい教科書を作る会会長を務めたこともある現代の憲法学者八木秀次氏は金子を「明治のバーク」(E.バークは18世紀イギリスの著名な保守主義者)として高く評価する。八木氏は、金子がバーグに学んで「日本の古法」「祖先より継承せし遺法」を基礎に憲法や行政法規を起草した点を高く評価する[7] 。しかし、礫川氏によれば「実際に明治期に整備されていった政治行政組織・法体系の実質」は「ありとあらゆるものが欧米をモデルとするもので[8] 」あって、その評価はあたらない。礫川氏は、「日本の近代に「日本のバーク」と呼びうる保守思想家はない。こうしたところに、日本の保守思想の脆弱さがあらわれているように思う[9] 」と記しているが、その批判の射程は果たして敗戦前の政治家にとどまるものであろうか。天皇の統治に関して日本の歴史の<輝かしき一貫性・独自性>を求める限り、十分には史実に基づかない<伝統の再・語り>にならざるを得ないのではないか、と私は思っている。
礫川氏の導きで八木氏の『明治憲法の思想-日本の国柄とは何か』[10] を読んでみた。「あとがき」に「「憲法はその国の歴史や伝統の上になるものでなければならない」というのが、この憲法の起草者達の共通の認識であった。[11] 」この認識の「重要性を説くことで、今日の憲法論議に一石を投じることも意図している。[12] 」と記されている。しかし、このような認識を起草者達がもっていたことは詳しく記されているが、礫川氏が金子について指摘しているように、明治憲法の内容にどのように具体的に活かされたかは示されていない。また、明治憲法の立憲主義は五条誓文の<公議尊重>原理が継承されたもので、それは大政奉還上表文・会沢正志斎『新論』・藤田東湖『弘道館記述義』などに見られる「伝統的な天皇統治の理念」であったという[13] 。その上で八木氏は以下のようにまとめている。
「 このように、天皇統治の実質とは何より衆論の尊重、人民の福祉にあると考えられていた。五箇条の御誓文もまたこれらと認識を一つにしていた。その意味では五箇条の御誓文はその形式において伝統と近代が両立しているのみならず、内容においても両立していたと言えよう。
すなわち近代的な国民国家の理念を掲げるにあたって、何よりそれを我が国の伝統的な天皇統治の理念の文脈の中に位置づけようとしたのである。 尾藤正英氏は幕末以来、欧米の政治思想に刺激されて、公議政体の構想が各方面からえられていることを捉え、次のように指摘している。
「外来の制度がこれほど早く日本で受け入れられたというのは、世界的にみると珍しい現象であろう。これはやはり、公論衆議を尊重するような政治の伝統があったからこそ、西洋の議会政治を比較的容易に理解することができたのであろうと考えざるをえない」(尾藤前掲書)
この意味では五箇条の御誓文もまた公論衆議を尊重する政治の伝統の所産であった。伝統の文脈の中で近代が捉えられ、近代を伝統で表現し、両者を見事に融合したのである。[14] 」(下線部は引用者)
認識が問題なのか事実が問題なのか、どちらであろうか。八木氏は<公議尊重>が「天皇統治の実質」であったという事実を示しているわけではない。「天皇統治の実質」であると考える認識の存在についても実証が十分とは言えない。大政奉還上表文は当時支配者の間で共通の理念になっていた<公議尊重>に言及するが、それが「歴代の天皇の統治」であると主張しているわけではない。<公議尊重>を会沢正志斎『新論』に読み込むのは無理であって、[15] むしろ<公議尊重>の不在こそが『新論』の重要な特色の一つである。また、八木氏は藤田東湖『弘道館記述義』「蒼生以之安寧」についての説明として、天皇統治が「『蒼生安寧』という大目的のために行われてきた」という長谷川三千子氏の文章を肯定的に引用している[16] が、それは尊王主義者の熱い思い入れにすぎない。八木氏自身も、ポツダム宣言受諾についての昭和天皇の「聖断」を、戦犯指名対策として作成されたいわゆる「独白録」などに依拠して、「民の父母」としての積極的な行動と賛美している[17] 。このような尊王主義者の天皇に対するオマージュの伝統もまた「基礎的政治の原則[18] 」「祖先より継承せし遺法[19] 」(バーク)、「本邦古来の法令習慣[20] 」(金子)だと言うのであろうか。
八木氏は「あとがき」で「本書は・・・アカデミズムの良心的な研究を参照しながら、独自の視点を加えて、“等身大”の明治憲法の姿を示すために書かれたものである。[21] 」と記している。八木氏が強調する講座派的明治憲法観克服の必要性については私も否定しないが、この著作の独自性はむしろ一種の<伝統の再・語り>にあるのではないか。
礫川氏は言う。「明治中期の日本は、ありとあらゆる制度を、欧米をモデルとして整備した。」「しかし、そうであるがゆえに、この憲法は、日本人が、日本の「古来の歴史・制度・習慣」に基づいて創り上げたものだという「タテマエ」が必要とされた。」[22] この事情は決して過去のものではないようだ。
本書は「國體」を切り口とした五条誓文・明治憲法を巡る言説史として非常に刺激的に読ませていただいた。本書がきっかけとなって私は金子堅太郎や八木秀次氏に深い関心を持つことができた。貧しい私の知識を拡げ問題意識を豊かにすることができたことに感謝したい。また、日本国憲法の復古的改変の主張が保守勢力から高まってきている現代日本の状況に対する礫川氏の深刻な憂慮も行間から伝わってきた。以下では、不勉強を顧みず若干の疑問点ないしは私なりの問題意識を提示させていたく。
一つは、礫川氏は五条誓文の儀礼としての意義をいささか低くみているのではないかと思える点である。国是五箇条を天皇が天神地祇に誓い公卿・諸侯が天皇に対して「協心努力」を誓約する、これは新国家における天皇の地位を儀礼面で創り出すきわめて象徴的な行為であった。礫川氏が指摘するように、誓文を仕上げた木戸が当時特に憂慮した情勢は依然として続く攘夷運動をであって、彼は開国方針を含めた国是を天皇の名で宣明することの必要性を強く訴えた。しかし、それをどのような儀礼で行うかは次元が異なる問題であって、その重要性は別個に存在する。それは国是の権威づけの強弱や新国家の聖俗の権威・権力のあり方に関わることであった。
英国人の日本近代史研究者ジョン=ブリーン氏は、以下のようにこの誓祭儀礼による権力関係の構築を読み取っている。
「誓祭儀礼は、神々→天皇、天皇→「王政」(総裁職、議定、参与からなる天皇の政府)、「王政」―諸臣(その他の公家、諸侯)というふうに重層的な上下関係―つまり権力関係―を構築する働きをする。そうした働きは、二項対立というシンボルの空間配置や、それらのシンボルをめぐる、天皇らの行為によって実現する。天皇は、例えば紫宸殿母屋の「中央」の「南北」の軸を占めるのに対し、議定、公家、諸侯が「周縁」の「東西」の軸に位置している。天皇は、「聖」(=神座の神々)と「俗」(=「王政」)の両次元にがる存在だが、議定らは明らかに「俗」の次元のみに属する。天皇は、(副総裁を代理に)神々に向かって祭文を唱え、五ケ条を誓い、そして議定その他の公家、諸侯に勅令を下す。それに対し、議定などは、無言である。天皇の「静」に対して、議定などは「動」であるが、天皇が動くと議定は着座のまま(静)である。これらのシンボルが語ることは、議定らに政治的意志がないのに対し、天皇にそれが認められるという事態である。[23] 」
ブリーン氏が解読したような意味をもつ誓祭儀礼は木戸等いわゆる維新官僚の志向する権力集中の儀礼面での具象化である。<君臣盟約>から<天皇による神への誓祭>への変更は木戸が関わったことによる大きな変更の一つである。それは福岡案の「列侯会議」から木戸案の「広く会議」へという条文自体の変更に相応するものであった。木戸は当時早くも版籍奉還を考えており[24] 、諸侯の領主権を否定して集権化する上で国是を宣明する儀礼のあり方は木戸自身にとっても大きな関心であったと考えるのは不自然ではない。
ブリーン氏の分析は新しい政治的権力関係の創出に重点を置いたものだが、さらに、五条誓文の儀礼は近代天皇制特有の天皇親祭及び祭政教一致体制形成過程における大きな画期をなすものであった。また、<君臣盟約>案が<天皇の神への誓祭>に変わったことには、当時木戸と近い位置にあった津和野派国学者(神祇事務局に所属)の意向が強く働いており、そこで新しい国家祭祀儀礼の<創造>が行われている。これらのことは、阪本是丸氏[25] や武田秀章氏[26] が既に指摘している。礫川氏は木戸の認識に焦点を合わせて論じており儀礼方式の重要性を否定しているわけではないが、儀礼のあり方は「「従」の問題[27] 」にとどまらない意義をもつことを改めて強調しておきたい。
第二に、礫川氏は、五条誓文の誓約儀礼に日本固有法の伝統を見出している瀧川政次郎の著作を紹介している。その<伝統>は古くは貞永式目の「神文」に見られ大日本帝国憲法の「告文」にも引き継がれているという[28] 。しかし、各儀礼をつぶさに比較すると同一視できない要素が多々ある。貞永式目末尾の誓約はよく読めば幕府評定衆が公正に裁決するための一揆契状である[29] 。五一箇条は<道理>にもとづくものであって、諸神が授けたものではない。また、誓約対象となった神々の中心はインド由来の護法神と日本の習合神である。五条誓文における誓約対象は端的に<天地神明=天神地祇>となっているが、まだ皇祖神に始まる<皇祖皇宗>の基軸性は明瞭ではない。公卿・諸侯が誓った対象は直接には<天地神明>ではなく天皇である。誓文五箇条は天神地祇が授けたものではない[30] 。明治憲法発布に際して天皇が告文で報告・誓約した対象は<天神地祇>ではなく明瞭に<皇祖皇宗>である。憲法は総理大臣をはじめとする臣民に対しては誓約行為なしに端的に従うべきものとして下賜された。告文はこの憲法の源泉を「皇祖皇宗ノ遺訓」としており、大日本帝国憲法にいたってようやく神授の法としての性格を帯びるものとなる。瀧川は、「純乎たる神法思想」=「法の根源を神に求めるといふ考へ方」の存続を日本固有法の特色としているが[31] 、このようにそれは十分な事実の裏付けを欠いている。さらに、神授の法と規範遵守についての神への誓約とを混同している。
1941年の瀧川の文章はファシズム期の<伝統の再・語り>の一例であって、改めて<伝統の創造=捏造>が行われたものと言える。瀧川の著作のもとになった1941年1月の講演会を主催した日本法理研究会は、その綱領の冒頭に以下の文を掲げている。「一、國體の本義に則り、日本法の傳統理念を探究すると共に近代法理念の醇化を圖り以て日本法理の闡明並にその具現に寄與せんことを期す。[32] 」瀧川の著作はこの綱領によく従っている。
第三に、大日本帝国憲法の立憲主義には「日本人が「保守」すべき伝統[33] 」を継承していると言ってもよい面がある。それこそ<公議尊重>である。金子は五条誓文の「平民主義」に対して<反国体的>だという趣旨の非難をし、八木氏はあたかもそれが天皇統治についての歴史的伝統であるといわんばかりの叙述をしている。しかし、これは一つには金子の言うとおり米英の国家体制の影響によるものであるが、それだけでなく幕藩体制下で広がった政治理念・手法でもあった。八木氏は「衆論の尊重」が「天皇統治の実質」と「考えられていた」ことの補強として「公論衆議を尊重するような政治の伝統があった」という尾藤正英の文章を引用している(本稿前々頁)[34] が、この「政治の伝統」とは、尾藤によれば主として武家社会・政治で発達・展開したものであって、八木氏が印象づけようとしたような<天皇統治の伝統>ではない。尾藤は<公議尊重>についてより本格的に展開している別の著作で、合議政治は幕府や諸藩においては「常態」でありその淵源は中世の「一揆もしくは惣などという共同体的な組織」にあったと記している[35] 。
さらに頼朝以来7世紀に及ぶ武家政治はいま一つ重要な伝統を形成した。それは、天皇を政治的意志決定から疎外することと天皇の聖俗権威の抑制である。しかし、「基礎的政治の原則」と言ってもよいこの伝統は明治憲法体制に十分には取り入れられなかった。伊藤は君権制限論に強くこだわったが大権自体は強大なものを確保し、憲法告文・上諭・勅語・第一条の中に天皇統治の神権性を組み込むことを認めている。伊藤は本来金子とは国体概念を異にしたが、決して国体思想の内実がもつ権威性を否定しているわけではない。
最後に第四として、「國體」は単に欧米化の「「ネジレ」を糊塗するために創作された概念」[36] であろうか。磯川氏の叙述は、それが単なる言説上のトリックであるかのような誤解を与えかねない。安丸良夫氏は『近代天皇像の形成』で以下のように記している。
「 近代天皇制は、こうした国民国家日本の形成過程に登場した編成原理であり、その成立史をたどると、まだ幼弱な形成途上の国民国家のなかに生きた人びとの精神のドラマがよくわかる。その原理の中核にあるのは、天皇という絶大な権威をふりかざすことで内と外から迫りくる危機にたちむかい、権威的秩序を維持しながら近代化=文明化という課題を実現してゆくことである。・・・・万世一系の天皇制は、此岸の秩序の不変性・絶対性を表象する神権的権威とされた。此岸の社会秩序の崩壊を避けながら近代化=文明化の課題を達成してゆくことについては、明治政府の指導者はもとより、神道家や国学者から民間のジャーナリズムや民権派、地域社会のさまざまのレベルの指導層などを含めて広い社会的合意が」[37] あった(下線部は引用者)。
ここで安丸氏が述べているのは、言い換えれば、国体思想の強く広範な社会的基礎についてである。この重みを十分踏まえなければ歴史認識はリアリテイを欠いたものになる。
天皇機関説事件で発売禁止となった美濃部達吉『逐条憲法精義』の序論に次のような一節がある。
「憲法は新たに立憲主義を採用したものであることに於いて、それまでとは異った新たな制度を創定したものであることは勿論であるが、その點を外にしては、日本の從来の歴史に基いて、それまでに既に不文憲法として定まって居たことを成文法に書き現はしたに過ぎぬ。憲法の發布に際し皇祖皇宗の神霊に誥げた告文の中に『皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ』と曰ひ、又『此レ皆皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス』と曰はれて居るのは、憲法が新たな制度を創設するよりも、寧ろ既に定まって居る制度を明文に示すことを主とする趣意を示されて居るのである。[38] 」(下線は引用者)
既視感のある文章である。美濃部はまた、「最高の祭主として国民を率ゐて神霊を祀らせらるヽこと」は「わが古来の慣習法」であり「随って祭祀大権は憲法的慣習法に依りて認められて居る」と記している[39] 。同じく発禁となった『憲法撮要』では、武家政治の時代においても将軍は「天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」「重要ナル政務ハ或イハ上奏シテ後施行シ或ハ施行シタル後上奏シ、時トシテ議定シテ裁ヲ仰ゲルモノアリ」[40] と記している。彼もまた<伝統の再・語り>を行って「國體」の歴史的一貫性を主張しているのであった。 危機の時代、国体思想が極度に強調され日本ファシズムの思想的基盤となった。この時代の「「専制的軍国的」政治運営[41] 」を八木氏は「明治憲法の立憲主義の精神を歪曲した解釈や運用」によるものだという[42] が、それはいまだ事態の半面を指摘しただけである。内在的に自己否定の契機を孕んでいたことを踏まえない明治憲法礼賛論は「國體」という亡霊が「国柄」という名において<reincarnation(再受肉)>する道を拓くことになるだろう。
[1] 礫川全次『日本保守思想のアポリア』(批評社2013)p194。以下『アポリア』と略称する。
[2] 『アポリア』p83-84
[3] 『アポリア』p40
[4] 『アポリア』p156
[5] 『アポリア』p7。
[6] 『アポリア』p173
[7] 『アポリア』p151
[8] 『アポリア』p152
[9] 『アポリア』p156
[10] 八木秀次『明治憲法の思想―日本の国柄とはなにか』(PHP研究所2002)
[11] 同上p288
[12] 同上p289
[13] 同上p45
[14] 同上p45-46。尾藤の文章の出典は『日本文化の歴史』p209(岩波書店2000)
[15] 同上p44。この点は金子の方が事実に忠実である。由利原案から見られる「平民主義」に横井小楠を媒介にした米英の国家体制の影響を見出している(「五箇条御誓文の由来」(『國學院雑誌第268号』P6-9(1917年)))。
[16] 八木前掲書同上p45
[17] 同上p192。
[18] 同上p123
[19] 同上p132
[20] 同上p129。
[21] 同上p288
[22] 『アポリア』p172
[23] 『儀礼と権力―天皇の明治維新―』p92(平凡社2011)
[24] 『木戸孝允文書』慶応4年2月
[25] 『明治維新と国学者』p62(大明堂1993)
[26] 『維新期天皇祭祀の研究』第5章特にp168,179(大明堂1996)
[27] 『アポリア』p66
[28] 『アポリア』p9・48
[29] 勝俣鎮夫『一揆』p7-11(岩波書店1982)。「神文」全文は石井進他校注『中世政治社会思想 上』(岩波書店1972)所収。
[30] 以上、五条誓文については『復古記』巻47明治元年3月14日(東京帝大史料編纂掛1889完成,1930刊)
[31] 『日本法理と支那法理』p6-11(厳翠堂書店1941)
[32] 瀧川同上「はしがき」
[33] 『アポリア』p194
[34] 八木前掲書p46
[35] 『江戸時代とはなにか』p189、191(岩波書店1992)。「明治維新と武士-「公論」の理念による維新再構成の試み-」から引用。
[36] 『アポリア』p182-183
[37] p277(岩波書店1992)
[38] p26(有斐閣1927)。「第五 憲法の他の法律と異なる特質」「三 憲法の歴史性」から引用。
[39] 『逐条憲法精義』p34
[40] p86(有斐閣1923)
[41] 八木前掲書p257。「」内は美濃部達吉の表現。
[42] 同上書「終章 歪曲された明治憲法の精神」。八木氏は機関説攻撃が「國體」の名のもとに行われたことを重視していない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study614:140508〕