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・・・・・じっさい、あなたの心中でこの問題はまだ決しておらぬ。この点にあなたの大きな悲しみがある。なぜというに、それは・・・・・・(ゾシマの言葉から、「カラマーゾフの兄弟」第2編)
社会主義政党が日本に現在存在するのかしないのかも、実は僕は知らない。しかも、遠くから見る限り、AKB48のミニスカート集団が昔のサーカスの動物みたいにテレビ画面を這いずり回っているのが現状*で、政治運動はみな安倍晋三の様な魂のない顔をして沈みきり、社会革新などの構想は昔の、あるいは地下集団化した革新側からは音なし状態が続いているのかもしれない。内部では百花斉放ではあろうが、外部では国民生活の内面からの破壊と根こぎがうかがえる。
*(まさに7月22日、メキシコ市立憲広場では革新市長、市議会及び最高裁が安倍的『真情枯れたる軽薄さ』でサーカスにおける動物の使用を禁止したことに対する抗議行動がサーカス側から馬二頭、プードル犬6匹も加わって行なわれた。小生は当面、女子高生千人を動員してミニスカートをはかせ躍らせることをサーカス側に提案している。すげなく却下されているのはメキシコの「革新」性に他ならない。)
今、僕は、あの19世紀の国際都市ペテルスベルグ(昔のレーニングラード)を舞台にしたドンチャカ・ドラマ『罪と罰』を読んだ後、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。ラテンアメリカでは『百年の孤独』のような救いの全くない小説が幅を利かせているので、どうもほのぼのと終わってしまう『罪の罰』を読んだ後は胃の調子もあのベルリンの壁のように良くなく毎日12時間日本人と付き合っていても疲れは激しく、『カラマーゾフ』が立派な破滅に行き着くことを祈るばかりだが、この小説もモチーフはなかなか面白く、しかも、僕の体質も手伝って、先を読むのがもったいないほど濃密に感じ何度も読み直しをさせてもらっている。実は殺されるはずのフュードルの体質が僕の父親に似ているのもかなり心臓に応えており! 何度か悪魔の爪で胸の内側をなでられるような痛みさえ味わう始末だ。
非常に痛切に興味深いのはフュードル的無神論者を、どのようにドストエフスキーが処理しているのかという問題だ。フュードルには『論者』という接尾語は必要ないのだが、しかし、この無責任極まりなく女にすがり付いて生きてきたような亜インテリは、かなりの饒舌家なのだ。戦後の日本では教育体制は整っているので働かない能力さえあればインテリになってしまうのであろうが、フュードルが持っているのは一人でも生き抜く能力と無反省にのうのうと自分の過去を棚に上げてしまう能力なのだ。しかも、彼には貧困から生じるひとつのシニシズムも加わっているので、戦後の左翼には既に探すのも難しかろう。フュードルが幸福なのは彼が19世紀ロシアという変動の乏しい世界を、殺されるほど堪能して生き切ったという! ことだ。僕の父は戦後のドサクサに自分で読売新聞社に突っ込んだ彼の弟の生活上の高度成長をしがない写真屋の店先で観察する立場に自分を置かざるを得なかった。しかし、この父のケースは、戦後の社会主義の主対象ではなかった。戦後日本の社会主義政党は、組織社会の波に飲まれていった。
大衆の中にある無神論は必ずしもフュードルのような形をとらないにしても、ラテンアメリカに特徴的なカトリック社会のように教会の許しを期待して生きている人たちの中では教会の存在と密接した無神論の誕生する機会は多い。林達夫が唯物論の歴史を書くなら宗教史の一環として書くほうが本質に迫ることが出来ると言っているのとこれは関連するだろう。しかし、無神論についてだけなら、ドストエフスキーのほうが深い現実に迫っているというのは、あるいは当然だろう。
「・・・もし彼が不死も神もないと決したと仮定すれば、彼はただちに無神論者や社会主義者の群れへ投じたに相違ない。なぜというに、社会主義は決して単なる労働問題、すなわち、いわゆる第四階級の問題のみでなく、主として、無神論の問題である、無神論に現代的な肉を付けた問題である・・・・・・・・」(「カラマーゾフの兄弟」第1編、米川正夫訳、引用部分の切り方には小生の自分勝手がある。)
*この構想の問題は少し続ける。小生の「死刑廃止論へのプレリュード」は現在事項番号の乱れなどを修正したりしているが、続稿はこのカラマーゾフを読んだ後から開始する。
2014.07.27
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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