社会構想への走り書き

2.

マルクスの議論は現在の状況に対しても十分窓を開いてくれる。1999年メキシコ北辺のティフアナ市にいてある小さな日本企業支社で働いていた。支社と言っても普通の民家で住み込みだった。ちょうどその頃、最初のアソシエ・グループが始まり、どうやら僕にその通信が送られてきたようだ。始めの頃のナンバーも受け取ることができず、それが始まったことも実は知らないままその会社を辞めてメキシコ市に来ていたので僕が通信を受け取り始めたのはかなり後のことだった。その会社の支社長は立教大学経済学部のマルクス経済を勉強してきた人だが僕に左翼の雑誌が届くようになったといろいろ言い広めていた。その内容は「いまどき左翼と関係がある」と言うことだった。もっとも彼はベンチャー型の性格でそれなりに面白い悪党だった。

現在の多国籍的資本主義の状況の主人公をブルジョアジーとするなら、次の共産党宣言の中のマルクスの叙述は現在の状況をよく説明している。

「ブルジョアジーは、世界市場の利用によってあらゆる国々の生産と消費とに、世界主義的な形態を与えた。反動家どもにはまことに気の毒ながら、ブルジョアジーは、産業の足元から民族的な土台を取り払ってしまった。」

メキシコは現在もまた外国企業のプラント設営のメッカであるのだが、民族的な土台である生活習慣が保守的な場所では、例えば日本人指導者の自殺を招くくらいの抵抗を見せつつも、タクトタイム何十秒かの仕事に次第に馴らされてゆくプロセスにある。まさに、「かれらは、すべての民族に、亡びたくないならブルジョアジーの生産様式をとるほかないと、いうようにしむける」のである。「ブルジョアジーは自分の姿にあわせて世界をつくりあげる。」

日本の場合、「空洞化」と言われた段階から少し復調した現在、日本から来る若い人たちの「士官化」も生じているようだ。このところ、社史的転回の中で90年代から現在まで海外事業にあたってきた人たちと若い人たちの間にいくぶんかの認識の相違が認められる。またアドミや購買次元での日本人要員のレベルの変動も見られる。

 

このような状況を見ていて日本を見ると日本経済の現況に対して左翼側からの状況認識は企業の持つ海外プラントで働く日本人要員ほどにも危機感を持っていないことに気が付く。ややもすれば大学教授などは海外での日本企業の活躍に安心立命、老後の生活安定が保障されているなんて思って帰るのもいるかもしれない。問題は、マルクスの観察と予見が広域化し底を深めていることだろう。メキシコの風景を見て「貧富の差」に驚く日本人は多いが、日本とメキシコの状態を比較して日本経済のブルジョア化一般に論究できない人が多いようだ。

 

マルクスの見解をあと少し、あるいはこれからもずっと引用するかもしれないが、これによってセクト的な党派的な意図と取らないでいただきたい。このこと自身もマルクス自身が言いたかったことであるということは大昔からハロルド・ラスキなどが言及している。

 

いま資料と言えるもののないところで、一般的な日本訳がどうなのか、明確ではないが、僕の持っている河出書房新社の「世界の大思想」第2期4巻の「マルクス・経済学哲学論集」の「共産党宣言」では「プロレタリアートと共産主義者」の章の冒頭がこのようになっている。「共産主義者は、プロレタリア一般とどういう関係にあるか? / 共産主義者は、他の労働者政党にくらべて何も特殊な政党ではない。」この後続いていくのであるが、この冒頭の訳は、日本で一般的なのであろうか。ちなみにこの訳者は都留大治郎氏。レクラム文庫版を見ても英語版を見てもこのようには訳せない。英語版はドイツ語を追っているしスペイン語版の標準と比べても同じように訳せる。英語版を普通に訳すとこうなる。

「共産主義者は、他の労働階級諸党に敵対する別個の党を結成しない。」

The Communists do not form a separate party opposed to other working-class parties.

つまり、河出書房新社の「世界の大思想」版「共産党宣言」では、書名に対する矛盾が生じないことを配慮したのか、あるいは既成政党への気がねがあったのか、かなり原文の趣旨を曲げている。

また先のハロルド・ラスキは「共産主義者の宣言」として出版されたのは共産主義者同盟の要請で執筆されたためで「社会主義者の宣言」もあり得たという立場をとっている。(「共産党宣言小史」山村喬訳、法政大学出版部,1967、98頁。)

 

第三世界に属している諸国の変動は激しいが、特にラテンアメリカではBRICの動きに乗じて現在いろいろな試行が潜在している状態で、アルゼンチンのモラトリアを含めて日本の現存システムからは、相変わらず未熟だというコメントを得るだろう。日本の現存システムから言えば第三世界の労働者・プロレタリアートが3年や4年で自家用車が買えるような給与を取り出したら危機的な問題なのである。そして、その事態を日本の現存システムに甘んじている「進歩派」や左翼も恐れている。

日本の左翼はかねてからの自己文化中心の一国社会主義的行動対応をあきらめて、しかも、加藤勘十やその他の旧社会党員や民主党へと寝返った人たちのように天皇から勲章を期待するのはやめて、きちんと他者を見なければならず、日本資本主義の下でのプロレタリアートがどこにいるのか見極めたうえで行動を起こすべきだろう。

国内労働の問題でも第三世界からの労働移民に頼る面を拡大させているが、入国管理のシステムは日本の東大を頂点とする価値体系・現存システムの保護膜であることも分かってくるだろう。

具体的にできることは山ほどある。彼ら労働移民が人生を歩む努力をしていることを踏まえたうえで国籍法の見直しも今すぐにでも突っつき始めることができる。企業だけに多国籍を認めている現状は人権や人格破壊策動も含んでいるからだ。また天皇制の根底にも看板にも触れる血統主義的国籍法を一般的な「属地主義」に変えて日本に根強い人種差別的社会を徐々に変えることも必要だろう。

既成価値体系の上に登ってものを言う東大型の助言形態を利用しながら現存システムの中で子供を出世させる仕組みから左翼は少しづつ『自立』しなければならない… もし「他者との共存」を願うなら。

2014.08.03

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4941:140804〕