日時:2015年4月25日(土) 14:00~17:00
13:10より編集委員会・理事会があります。
(参加者は事前に昼食を済ませておいてください。開始時間が変更になりましたので、ご注意ください。)
場所:渋谷区笹塚区民会館4階会議室3号
【会場案内】
渋谷区笹塚区民会館
〒151-0073 東京都渋谷区笹塚 3-1-9
・区民会館は催し物に関する質問にはお答えできませんので、会場への電話問い合わせはご遠慮ください。
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案内図:https://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_sasazuka.html
報告者:日山紀彦(社会理論学会顧問)
タイトル:事的自然観の地平
報告概要:われわれは、まず、「廣松哲学」の全体構図を概観することから始めたい。この作業は、さしあたって伝統的な哲学における領域区分に従って、廣松哲学における存在論・認識論・実践論の独自性の確認という手順で進めていくことにする。それも思想内容ではなく、その思想史的意味と意義の検討・吟味に主眼がおかれる。
因みに、廣松渉の哲学・思想を貫徹する根本意想は、「近代の超克」ということになろう。廣松の企図する「近代の超克」とは、近代ブルジョア・イデオロギーとして機能している近代的世界観の構えを歴史的な背景を視野に収めつつその哲学的地平を明るみに出すという基礎作業を介して、その根源的な止揚あるいは乗り超えを図るものである。戦前の多くの近代超克論が陥った単純な反近代主義・反合理主義あるいは神秘主義的ロマン主義・反知性主義への回帰─フランクフルト学派流にいえば神話と野蛮への回帰─への廣松の批判には厳しいものがある。そうした旧来の超克論を批判的に継承する廣松のそれは、きわめて精緻かつ厳格な論理的基礎づけに裏打ちされ、独自の理論構制に基づいて根拠づけ・権利づけが図られているのが特徴である。
このような意味と意義を有する廣松の近代的世界観の超克の企図をさらに立ち入って表示すれば、「物(もの)的世界観から事(こと)的世界観へ」ということになろう。主著『存在と意味』の副題が「事的世界観の定礎」となっているのはこのことを端的に物語っている。ここで強調しておきたいのは、廣松のこの理論作業とその成果は次節でのべる彼の「マルクス主義研究」と連動する形で遂行されたものであり、この相伴作業において廣松哲学理論は彫塑されていったということである。
さて、今やわれわれは廣松の「存在論」の独自性とその論理構制の画期性をみていく段である。近代的世界観における存在観のトータルな止揚・超克を企図する廣松の構想は「実体主義的存在観から関係主義的存在観へのヒュポダイム・チェンジ」という提題において表わされる。廣松自身は、これを存在規定における「実体の第一次性に代わる関係の第一次性への転換」とも呼んでいる。われわれは、その具体的内実を明らかにすべく、ここでは「自然観」を例としてみていくことにしたい。
近代的自然観の形成・確立は、バターフィールドのいう17世紀科学革命において定礎される。それは、前近代的な自然観とは異質・異次元の自然了解の構図、廣松流にいえば理論構成上の前提たる「基幹的発想の枠組としてのヒュポダイム」の転換を意味していた。前近代的自然観においては、人間・自然・宇宙は融合的全一態として超越的な霊的生命力・神秘的呪力によって満たされ、生み出され、支配されていると了解されていた。いわゆるアニミズム的・呪術的・神話的自然観である。廣松のいう「生物態的自然観」である。これに対して近代的な自然観においては、自然界から一切の霊魂・呪力が追放され(Entzauberung)、自然は単なる物質から構成されている機械であり(唯物論的機械論)、それは力学的な図果の法則に基づいて運動し(因果論的自然観)、この運動は数式によって表現されるアプリオリな構造・秩序を有しているとみなされた(数学的自然観)。このような機械じかけの自然は、部品としての諸要素から組み立てられており(要素主義的自然観)、こうした物的諸要素はこれ以上は分割不可能かつ不変の物的な自存的単位成素としてのアトム的実体から構成されていると前提された(原子実体主義的自然観)。こうしたヒュポダイム(メタ・パラダイム)に依拠した自然像の原理を廣松は「実体の第一次性」と呼ぶのである。
「実体の第一次性」あるいは「物(もの)的自然観」においては、上述しておいたように、自然は独立・自存・不変・不可分の物質的実体─現代物理学でいう素粒子ないしはクォーク─の合成物であり、このような物的実体がまず先在して、そうした諸実体項が第二次的に相互関係をとり結び複雑な自然物・自然界を構成すると考える。これに対して廣松の新しいヒュポダイム「関係の第一次性」の主張にあっては、自然界における全ての構成諸契機・諸物質項は、本質的・本源的に相互連関作用において生成・存立・変化しているのであって、相互関係から独立・自存の実体項なるものの措定はある特定の枠組による理論的処理(科学的分析)の産物であって、これを自然そのもののあり方の第一次的原基とみなすのは「取り違えquid pro quo」、廣松流にいえば「錯認・錯視」だということになる。自然を構成する諸契機は、自然の「場」の状態のなかで相互連関状態で生成し変化し、そして新たな関係諸項の生成とその相互連関の関係「場」の状態へと変動・転態していく運動の統一的・全一的なあり方の諸契機として存在しているのであり、この運動過程こそが第一次的な自然のあり方なのだというのである。「実体としての自然」ではなく「関係としての自然」、今日流にいえば「環境としての自然」あるいは「生態系としての自然」という了解のしかたである。「項」なるものは「実体項」としてではなく、「場における関係項」ないし「環境的自然・内・諸項」という構えにおいて規定され措定さるべしというヒュポダイムに立脚した主張である。
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