祝・第93回メーデー。労働運動の発展を祈念する。

(2022年5月1日)
 本日、第93回メーデー。労働者が階級的な団結と連帯を確認し合う日。団結して闘うという働く者の誇りを示すべき日。国内的にも国際的にも、労働者の主要な闘いの課題を語り合い決意を固める日。そして来たるべき働く者が主人公となる未来の社会を語るべき日…。

 ではあるが、メーデーについても理想と現実の落差は覆いがたい。昨日の毎日朝刊の「ふんすい塔」欄に、百言居士氏(長野)の自嘲的な投稿。

 メーデー
   団結ガンバロー
           ――連合
           ――自民

 労働者の団結の以前に、労働者としての自覚と資本からの独立が求められる。が、それが実現していない。政府やら、自民党やら、電力会社と「団結」していることを隠そうともしないのが、連合である。これが、我が国最大のナショナルセンターなのだから、労働運動昏迷の時代を嘆かざるを得ない。

 私が初めてメーデーを体験したのは、1962年5月だった。私は、その年の4月に東京外国語大学に入学したばかり。誘われるままに中央メーデーに参加した。当時18歳だった私は、その大群衆に感動もし興奮も覚えた。

 「労働者階級」なるものが、単なる観念ではなく実体として存在するものなのだと思わされる衝撃だった。ときは、安保闘争の直後、若者はすべからく革新であり反体制であった時代のことである。

 あのときのメーデーで特に記憶に残ることが二つある。デモを待つ間に、間近かに野坂参三の演説を聴いた。とげとげしいアジテーションではなく、とても穏やかな口調だったことが印象に残った。そしてもう一つは、デモ行進のさなかに、ヘルメットと竹竿の部隊から突然に襲われたこと。これには驚いた。

 わたしは、自分の隊列がどのような政治的色分けをされ、どのセクトからなにゆえに襲われたのか、まったく理解できなかった。怪我人が出るような事態にはならなかったが、腹立たしさが残った。このとき以来、暴力的な運動スタイルには拒否の姿勢を貫いてきた。

 あれから60年である。長く、日本の未来は労働運動の発展如何にかかっていると考え続けてきた。必ずしも、社会主義を理想としたわけではないが、もっと公正で、もっと自由にものが言えて、みんなが豊かになって、人権や民主主義や平和が重んじられる、そんな日本の未来である。弁護士として労働事件に関わる中で、悪辣な資本の手先となる御用組合の犯罪性を見せつけられ、幾たびも歯がみをしてきた。今、集団的労働事件が少ない。闘う労働者の姿が見えてこない。

 啄木の苦い思いを噛みしめざるを得ない。

  新しき明日の来るを信ずといふ
  自分の言葉に
  嘘はなけれど―

 それでも、メーデーだ。平和で自由な社会を求める労働者の祭典 メーデー万歳。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.5.1より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=19063
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11997:220502〕